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別離
まるで紙芝居のように、ゆっくりと、揚力を失った身体は宙でぐらりと傾いた。

「ほ、ホメロス……さま?」

名前の身体に覆いかぶさるようにして倒れたホメロスは、喘鳴しながら荒い息を吐き出している。グレイグが、すぐさま下敷きになった名前を引っ張り出すと、ホメロスの心臓を突こうと再び剣を振り上げた。そんな三人の中に割って入る勇気は、僕たちには無かった。

「グレイグさま、待ってください!」
「どうした」

痛みに耐えるように歯を食いしばるホメロスを一瞥すると、名前は咄嗟に声を上げた。ホメロスを強く憎んでいた先程の態度とは打って変わって、弱々しく懇願するようにグレイグを見上げているものだから、グレイグも戸惑ったように剣を握る力を緩めたようだった。

「ホメロスさまが、ホメロスさまが死んでしまいます……」
「何を言っている」

此処に居る全員が全員、何を言っているのだと思ったに違いない。僕も驚きのあまり固まってしまって、ようやく我に返ったのは隣に居たカミュに肩を叩かれてからのことだった。
「ホメロス」と、冷たく吐き捨てるように名を呼んでいた名前は何処へ行ったのやら、まるで昔に戻ったかのように「ホメロスさま」と震えるような声で漏らすその姿に、嫌な予感を抱いた。彼女はこちらに目もくれようとしない。倒れ伏したホメロスを心配そうに見つめながら、心配そうに眉尻を下げている。

「早く回復しなければ……」
「おい、誰か名前を下げてくれ!」

グレイグが再び剣を構えれば、名前はホメロスを庇うようにその身体に触れた。とても人間のものとは思えない色の血液をべったり付着させながら、それもまったく気にしていないかのように。このままではホメロスがいつ起き上がるか分からない、グレイグは悲痛な表情で「回復を」と繰り返す名前の目の前でホメロスを刺すことができないでいる。
僕たちが顔を見合わせれば、「アタシがいくわ」とシルビアが一歩踏み出し、名前へと駆け寄った。ぽんと肩を叩き、あやすような優しい声で彼女に語りかける。

「名前ちゃん、こっちにいらっしゃい」
「シルビア、薬草持ってる?このままじゃ……」

返事をせず、肩を押し下がれと促すが、それでも彼女は動かなかった。グレイグもシルビアも騎士道精神を重んじる者、強引に彼女を退かすことはできず、結局痺れを切らしたカミュが名前の脇に腕を入れると、無理やり引っ張ってホメロスの身体から引き離した。

「ったく、お前さっきから様子がヘンだぞ」
「カミュ……!」
「ど、どうしたんだよ」

グレイグを止めてとでも言いたいのだろうか。きっと長いこと天空魔城に幽閉されていたショックで気がおかしくなってしまったのだろうと、この時僕は確かにそう思った。そうでなければ、我々を亡き者にしようとしたホメロスを、名前が庇うはずがないと。だがその考えは、あまりにもホメロスに執着する名前を見て薄れてゆくことになる。

「トドメは俺が責任を持って刺そう」
「と、どめ……?」

その言葉を反芻した途端、名前はガリガリになった細腕に見合わないような力で必死にカミュから逃れようともがくたものだから、棒立ちのままであった僕も加勢をしてなんとか名前の動きを止めようと押さえつけた。

「やめて!グレイグさま、ホメロスさまを殺さないで!」
「おい名前落ち着け!今更何言ってんだ、暴れんなよ!」
「嫌だ!やめてお願い!カミュもイレブンも離して!」

いくら名前の頼みでもこればかりは叶えることはできない。ホメロスにトドメを刺せば、彼女は一生僕らのことを恨むだろうか──いや……いつかこの選択が正しいと、そう思ってくれる日が来るはずだと今は信じるほかない。

「許せ。こうするほか方法が無いのだ」
「グレイグさま!!やめ──」
「名前、見ちゃダメだ」

その瞬間を目に入れぬように、僕は片手を名前の目に半ば無理矢理押し当てた。暫くして、漸くグレイグが剣を背に収め、辺りに静寂が訪れると、名前の身体は糸が切れたように崩れた。

「あ、ああ……わたし、わたしは……こんな世界を望んでいたわけではない!」

カミュも僕も、もうその手に力を込めることはなかった。細い腕はゆっくりと僕らの身体からすり抜け、這うようにしてホメロスのもとへと近づいた。名前はもう虫の息であるホメロスに対して、尽きかけの魔力で何度もホイミを詠唱していたが、しかしホメロスの傷はもはやホイミの回復力では追い付かない。


**


まるで夢でも見ているかのようだった。ホメロスさまがグレイグさまに斬られた瞬間に、自分が何をしているかという自覚もなしにホメロスさまに駆け寄った。私はこの人を死を望んでいなかったと、どうやっても救えない状況になってから私の身体がそう訴える。だがグレイグさまへの懇願も、私の回復魔法の力も虚しく、ホメロスさまの体温は徐々に失われていく。

「ホメロスさ、ほ、ホメロスさま!起きて……」

残っていた力を振り絞って身体を揺すれば、ホメロスさまはいつものように迷惑そうに顔を歪めたものだから、何処か安心して手を離して……回復呪文による延命を途切れさせてしまったのだ。その刹那のことだった、ホメロスさまの目が一瞬、吸い込まれそうなほど美しい金色に──紛れもなく一人の人間であった時のその色に見えたのだ。それは私自身が魅せた幻であったのだろうか……だがそれも束の間、ホメロスさまのその目は静かに閉じられた。
安らかに、まるで眠っているかのように。そういえばホメロスさまの寝顔を見たことが無かった、彼は眠っている時はこのように美しかったのであろうか。ホメロスさまのことを思い出そうとすればするほど、頭の中にかつて彼と過ごした記憶が、頭がはち切れんばかりに溢れてきた。何気ない事務的な会話、城の一角でふと見かけたとき、軍事会議の最中、もう忘れてしまったと思っていた記憶までもが色鮮やかに脳裏に映し出される。

「い……いやだ、いやだよ……」

世界の運命ははどうしても私に微笑んでくれないのだろうか。ホメロスさまの重たい腕を持ち上げ、紫色の皮膚に縋るように額を当てれば、ひんやりと、いつもの彼よりも少しばかり低い体温が感じられた。
ホメロスさまは、惨めに死んで当然のことをした。私も彼の最期には納得していたはずだった。なのに私はどうしてか、ここまで彼に執着してしまう。

「すまない、名前。しかしだな、」
「名前さま、お腹の傷を治療いたしますので、こちらを向いてはくれませんか?」

グレイグさまとセーニャの声に答えようとするも、上手く体も動かなければ言葉の一つも出てこない。セーニャの細い腕が私の腹へと伸びてきて、ベホマを唱えて、傷を癒して貰ったのだが、今までその傷の痛みをすっかり忘れていたほど意識は別のところにあった。

「次はいよいよウルノーガとの決戦だけど……名前はまだここに居る?」

イレブンにそう問われ、漸く首を小さく縦に振ることができた。

「うん。僕たちなら心配はいらないから、気が済むまでここに居て」
「今は思う存分受け止めて、思う存分泣きなさい」

そう言われても、涙は一滴も出てこなかった。ホメロスさまが目の前にいる、それがもう二度と目を覚まさないなど、どうにも信じられなくて。また前みたいに、起き上がってくれるのではないか、六軍王の幻影を引き連れて、再び私たちの目の前に現れてくれるのではないかと、そんな気がしてならない。だってホメロスさまは、誰よりもプライドが高く、負けず嫌いだから……だからまだ力を残しているのでしょう、私たちが油断するのを待っているのでしょう、体が冷たいのも、微動たりともしないのも、それもすべてホメロスさまの作戦のうち。今までの策には多少抜けている部分があったけど、今回の騙し討ちは完璧にできると思う、だから私にしか見えぬようにこっそり目を覚ましてほしいのに、それなのに……!

ふと、視界の横から黒い腕が飛び込んできた。その主であるグレイグさまを見やれば、手には金色のペンダントが握り締められていた。

「名前、これはお前が持っていてくれないか」
「私が……これを」
「ホメロスも、俺に持たれるよりも名前に持っていて欲しいと思っているだろう」

グレイグさまが悲しそうに口元を歪めながらそう仰ったものだから、何も考えぬうちにそれを受け取ってしまった。千切れてしまったチェーンの代わりに、グレイグさまのペンダントのチェーンがつけられていて、血で汚れた本体と綺麗に磨かれたチェーンがどうもアンバランスだった。

暫くそれを眺めていれば、イレブンたちは私に一声掛けた後に、ウルノーガが居る玉座に続く扉へと向かっていった。
残されたのは、ホメロスさまと私の二人きり。イレブンたちが此処を出ていったのだから、そろそろ目を覚ましても良い頃合いだと、震える手をのばしかけた瞬間に、ホメロスさまもまた黒い霧に包まれたかと思えば、まるで最初からそこに居なかったかのように消えてしまった。二人きりの時間は、数える程も無いような短い時間だった。

無残な戦いの痕にぽつりとただ一人。人のものではない、どす黒い血の色に染められた床の破片を握りしめながら、幸せだった頃の記憶をひとつひとつ噛みしめるように思い返していた。

「ホメロスさま、あなたと共に過ごすことができた時間がどれほど幸せだったことか。今になって漸く、判りました」

二回も失って、漸く──そう声に出すのも辛すぎた。かつてここに来たときは、ホメロスさまを失うことに対して何も恐怖心を抱いていなかったはずなのに。それなのに。今の私はどうしてしまったのだろう。何故、こんなにも胸が苦しい。あれだけ酷いことをされたではないか、使えぬ道具だと分かった途端死んでも構わないとなじられたのだからホメロスさまも私のことを嫌いなはずなのに、それなのに。

私は一体どうしてしまったのだろう。幸せな時間よりもずっと、ホメロスさまに酷いことをされたはずなのに、思い返す記憶はどれも、私の孤独を埋めてくれた温かい記憶ばかりで。

「幼い頃は酷く冷徹な人だと思っていました。王に不信感を抱いてからは敵だとしか認識していなかったはず。私を道具としてしか見ていなくても、酷い仕打ちを受けても、あなたに嫌われていると知っていても、私はまだ心のどこかで何気無い日常にホメロスさまが居ることを望んでいた……!」

自分が呟いている言葉が可笑しくて、涙を流しながら笑ってしまった。それはきっと己に対する嘲りであろう。頭の中で、ふとかつてのホメロスさまがこちらを小ばかにしたように笑った気がして、それがますます苦しくて。

「あなたが生きていたら、こんな私を馬鹿だと仰るでしょう。なんたって、自分でもどうしてこんな気持ちになるのかまだ分からないでいるのですから……っ」

もうこの世界で彼の瞳を見ることは永遠に無いのだと、そう思えば涙が次々と頬を伝って地面に滲む。

「う……ぅ、っく……っ」

魔物に身を落としたその身体は、骨の一片すら残らない。この部屋にはもう誰もいない、その事実が私の孤独を加速させていた。ホメロスさまの血も、斬られて散らばった髪でさえも、彼は何一つ残さずにこの世界から消えていってしまった。今は、私の手元に残ったペンダントだけが、かつての彼の意思を受け継いだかのように鈍く光り輝いているだけだ。