裂かれた運命
まるで固い盾のように、杖を弾き飛ばしたその手の甲には勇者の痣が確かに光り輝いていた。一瞬、冷静さを失ったように驚いた顔をしたホメロスだったが、すぐさま何処か納得したようにニヒルな笑みを見せた。

「いつの間にその力を身体に宿したのだ、大樹に辿りついた時には既にその手袋を身に着けていた記憶があるが……。なるほどな、どおりで闇の力に染まらぬわけだ」

痺れて思うように動かない身体を這いずるように移動させながら、イレブンたちのほうへと向かうと、すぐさま駆け寄ってきた仲間たちの背後へと下げられた。

「ありがとう」
「いえ……それよりも、私たちがここへ向かっている間にこんなにおいたわしい姿に……」

セーニャが唱えるキアリクで、痺れを消して貰ったものの……私の身体といえば、数か月にも及ぶ劣悪な環境下での生活で、体力も魔力も枯渇しかけておりとても戦える状況ではない。それを察したイレブンたちが、ホメロスから私を庇うように目の前へと立ちはだかった。しかし、当のホメロスは私に追撃を食らわすわけでもなく、ゆっくりと宙へ浮かび上がる。

「勇者が二人か……面白い」

ホメロスを包み込むように、辺りに強い闇の瘴気が立ち込めた。それが何を意味するのか、きっと私だけが知っている。
ついにこの時が来てしまった──かつての悪夢が蘇ると同時に、またホメロスの醜い姿を見ることになるという遣る瀬無さが心を襲う。

かつて戦ったときよりも、こちらが圧倒的に有利な状況だ。体が動かないとはいえ、私はホメロスの攻撃を把握している、何よりベロニカが生きている。その所為だろうか、何れ訪れる喪失感に耐えきれず、脳裏に一瞬だけホメロスを庇いたいという考えが浮かんで、それを振り払うように強く首を横に振った。
この世界でも、ホメロスはもう二度と人間として生きることはなく、自分たちはそんな彼を倒さねばならないのだと心の中で呪文のように何度も吐き出した。そんな葛藤の間にも時は流れ、気が付けば眉目秀麗な彼の顔は青紫色に変化し、脳天を突き破るように二本の角が生えていた。

「ホメロス……本当に魔物になってしまったのか……」

絶望交じりの掠れた声を聞いたのは、後にも先にもこの時だけだ。目の前にいる一匹の魔物は、そんなグレイグさまの姿を見下すようににやりと笑った。ホメロスがようやく攻撃態勢に移れば、皆もようやく武器を構える。

「名前、下がっていろ。カラダが動かぬお前では奴とはぶつかり合えまい」
「グレイグさま……しかし」

臨戦態勢をとる皆につられて私も立ち上がりはしたものの、防具ひとつ身に付けてはおらず武器も持っていない──完全な丸腰であった。そんな私に気づいてか、イレブンが小さな盾、カミュが短剣を手渡してくれたものだから、それらを急いで構えた。

「いくぞ!」

その声と同時に、イレブンとベロニカ が先手を打った。ホメロスへ向かって、イレブンが横から斬りつけ、ベロニカがメラミを唱えたが、その剣筋はアッサリと避けられてメラミは片手で打ち消されてしまう。その力の差に唖然としているイレブンたちを見ていれば、かつての戦いの記憶が次第に蘇ってきて……かつての闘いでは、闇の力を得た私がホメロスに斬りかかり、攻撃を与えて……それから、

「セーニャ、雷鳴の旋律を奏でて!前衛は防御を!」
「名前さま?」
「いいから、お願い!」

ホメロスが胸に埋め込まれたオーブに力を集中させたのも束の間、白い稲妻を放った光景が脳裏で蘇った。
いきなり大声を出した私に驚いたのか、イレブンたちは反射的に防御を、セーニャは雷鳴の旋律を奏でたおかげで、かつての記憶と同じように放たれたシルバースパークを受けてもなお、私たちはまだ何とか立ち上がることができた。

「あ、危ない……なんとか防いだ」
「よし!」

あの時の戦いを思い出そうとすれば、数年間もう考えるのも嫌になった記憶が心の奥底から次々と湧いてきた。ホメロスの行動や、攻撃モーション、詠唱や構えを、恐ろしいほど鮮明に覚えていたのだ。そうして、彼がオーブに意識を集中させたかと思えば防御をし、飛び上がろうという姿勢を見せればすぐさま後ろに退くという連携ができつつあった。
戦闘は見るからにこちらが優勢だった。しかし、ホメロスの顔から余裕そうな笑みはまだ消えていない。だが、私はその理由が──ホメロスが、自身の切り札である私を貫いた闇の槍の他に、闇の炎を未だ吐いていないことに気が付いていた。どちらとも、放たれればこちらの形勢が一気に崩れる可能性のある技だ。ホメロス
が奥の手を出すその瞬間に気づきやすくするためにも、戦闘へ参加しようとふらつく身体をゆっくりと起こした。

「ベロニカが後ろに居るのならば、私もここに居るわ。簡単な回復呪文くらいならば唱えられるはずだから」
「でも、まだ万全の状態じゃないんでしょ?そんな身体で闘ったら……」
「大丈夫、こんな状態でもあのときの自分くらいには役に立つはず」
「あのときの……自分?」

ベロニカがその言葉を反芻した時、魔物となり聴力が長けたホメロスの耳にもその言葉がしっかりと入っていた。先程から繰り出す攻撃を全て見破られていることは確信していた。それも、名前の声によって。そして、当の彼女は立ち上がりこちらの動きをじっと見つめている……まるでまだ隠し持っている一手を繰り出す時を待っているかのように。
そうとなればホメロスの行動は早かった。次々と攻撃を仕掛けてくるイレブンやグレイグには目も向けず、宙を飛び回り向かったのは名前が控える後衛。振り下ろされたホメロスの爪を、名前は反射的にカミュに渡された短剣を使ってガードをする。

「っ!」
「……幽閉されていたわりには、なかなか動けているな」

さすがに短剣だけでは守りきれず、切り裂かれた皮膚から血液が滴った。傷口がじんわりと熱を持ったかと思えば、激しい痛みが手首を襲う。すぐさま此方に駆けつけたイレブンたちによってなんとか追撃は免れ、数歩下がると枯渇しかけている魔力を絞り出すようにホイミを唱えて止血した。それから再び戦線に戻ろうとすれば、グレイグさまに剣で制される。

「名前、下がっていろ。俺がやる」
「……なるべく瞳を見ないように、それと大きく息を吸う動作をしたらすぐに下がってください」
「判った」

思いつく限りの忠告を終えれば、言われた通り後ろへと下がった。かつてグレイグさまの視界を奪った幻惑の瞳と、闇の炎の対処法である。

一方で、グレイグさまの斬撃を軽々とかわしつつも、名前の言葉をしかと聞いたホメロスは、彼女は未だ見せぬ技を知っていると確信していた。そして、その理由としてひとつの可能性を見出していたのだ。

「飛び上がった!イレブン、上にいるうちにギガデインを!」

あの女を殺さねば、さもなくばやられてしまうだろう。ホメロスは先程と同じように、素早く宙を舞うと後ろに下がった名前へと大きく爪を振り下ろす動作を見せた。それを見た名前は同じように短剣で身を守ろうと構えたが、対してホメロスはその隙に名前の後ろに回り頭部に拳を叩き込むと、ふらついた彼女の首を鷲掴みにして持ち上げた。追撃をしようとこちらへ走ってきたイレブンたちも、足にブレーキをかける。

「お前さえ居なければ!」
「ぐ……っ、う……」

ホメロスが手をぐっと引いて力を込める、その動作は何処か見覚えがあるもので……いや、見覚えどころではない、それで腹を裂かれる夢を何度見たことか。

かつてその技を受けた時の光景が、走馬灯のように蘇った。この攻撃をまともに食らってしまえば、今度こそ自分は間違いなく終わりだ。しかも、かつてと違い、私の身体はホメロスによって固定されて動かない、逃げる時間も隙も無かった。
ならばこの状態で避けねばならない。首元に絡みつく爪にしがみつき、巨槍が放たれる瞬間に全身の力を振り絞ってぐいと身体を動かした。揺れて狙いが定まらぬ槍は胴を貫くことこそ無かったが、私の脇腹を掠めた。命があったことに安堵をするも、そうとも言っていられないほど、身体が痺れるほどの激痛に意識が飛んでしまいそうで。

「……っ」

ぶらりと宙に垂れ下がった手でホイミを唱えて止血をすれば、私の身体はどさりと地面に落とされた。噎せ返り、息を整えたのも束の間、ホメロスは再び転がり伏せた私の腹に尖った足爪を食い込ませた。

「うぐ……」
「名前、いったい何を知っている?」
「ぜ、全部知っている……」

胴にのしかかる重みに耐えながらも、興奮している脳は惜しみなく激情を吐き出した。もうホメロスの笑みも、イレブンたちの驚いた顔も、何も見えない。私の前に広がっているのは、かつての悪夢。黒い槍で腹を裂かれたあの瞬間。

「その槍で確かにこの腹を貫かれた……その痛みを忘れるはずがないでしょう!」

地獄の業火に焼かれたような激しい熱さが腹部に宿った。かつて私は彼に一度殺されたのだ。

「魔物になったその醜い姿も、攻撃技も戦略も知っている、何もかも全部見てきた!」

圧し掛かるホメロスの体重から必死に逃れようともがけば、ふと首元からかつてホメロスが身に付けていたペンダントが顔を出した。服の下に隠れ、長らく表に姿を現していなかったそれは、今の私の風采には似合わないような高貴な輝きを放っている。

「──時を超えて、この世界にやってきたか」

それは紛れもなく、この世界でただ二人しか持っていないはずのペンダント、そしてそれを私が持っているという物的証拠。ホメロスが見出していた可能性が、確信に変わったに違いない。勇者の力を携えた私は時を超え、この世界にやってきた。異端審問をかけられる前に城から逃げ出したこと、命の大樹でホメロスによる不意打ちを防いだこと、そして何よりも私の中から魔王の呪いがきれいさっぱり消えていたこと。それは私が別世界で魔王を倒して呪いから解放され、そうしてこの世界にやって来た何よりの証。

「なっ、どういうことだ?頭でもおかしくなっちまったのか?」
「名前ちゃん、ちょっと落ち着きましょう?ねえ」

──カミュとシルビアも事態が呑み込めないまま、声を上げる名前を鎮めようとするが、その声は届いていなかった。ホメロスは気が付けば振り上げた腕を下ろし、名前を見つめていた。彼女が身に着けていたペンダントの細かい傷は、まさに自分のもの。そして普段は髪に隠された赤いピアスも、初陣に挑む成人したばかりの彼女に贈ったもの。自分がとうに居なくなった世界から着た名前は、一体何を求めてこの世界にやって来たのか。

“──ホメロスさま、私はただあなたがいる世界で!”

唐突に、大樹で名前が発した言葉が蘇ってきた。まるで暗渠に立っているように、その言葉は何度も脳内に響く。

その時だった、呆然とするホメロスの背後へ、一筋の切っ先が向かっていた。近づく足音にふと我に返りすぐさま振り向くも、剣はホメロスの身体を大胆に切り裂く。名前の顔に生暖かい液体がぽたりと落ちたと思えば、まるで土砂降りのように激しく、吹き出した赤黒い血がその身体を染め上げた。

「なっ……!」
「これで終わりだ、ホメロス」

何と呆気ない最後だったのか。それも皮肉なことに、この世界の二人を切り裂いたのは、かつてあれほど背中を押して名前を過去へと送り出してくれたグレイグの太刀筋だった。