目が覚めれば、そこには嗅ぎ慣れた香りが漂っていた。 「……!……はあっ、はあ……」 慌てて飛び起きれば、全身汗だくで衣服が皮膚に張り付いている。メラを唱えて壁掛けランプに火を灯せば、部屋の中は少しばかり明るくなった。風邪でも引いているのだろうか、やけに気怠い身体を起こして息を整えていれば、扉の外から声が聞こえた。 「名前、起きているか」 「!」 先ほど別れを告げた人物がいきなり現れたものだから、驚きのあまり言葉が詰まってしまう。開け放たれた扉の先には、声の主であるグレイグさまが居た。片手には銀のトレイが載せられていて、そこから漂う美味しそうな香りが鼻を掠める。 「飯を持ってきた。少しでも口に入れると良い」 「あ……」 トレイをテーブルの上に置き、そこでこちらに向き直ったグレイグさまと目が合った。此処に来る直前まで共にいたはずなのに、もう長い間会っていないような気がして、気が付けばずっとその顔を見つめていればグレイグさまは不思議そうに眉根を寄せる。 「どうした?俺の顔に何か」 「グレイグさま、グレイグさま!」 「……お、おい、一体どうしたというのだ」 漆黒の鎧に必死にしがみつけば、グレイグさまは慌てたように後ずさる。 もう二度と会えなくなる可能性もあったのに、こうしてこの世界でまた会うことができたという事実に、グレイグさまがこんなにも馴れ馴れしい私に不信感を抱くのではないかという心配はとっくに頭の中から消えていた。 「わたし……今、何歳ですか」 「寝ぼけているのか?」 二十だと、そう言われて確信した。机の上に置きっぱなしの荷物と、風邪のようなこの気怠さ。間違いない……今はイレブンたちをユグノア王国で取り逃がして帰ってきたその時だ。ソルティコの気温に慣れて厚着もせずにユグノアに向かってしまったところを、風雨にさらされて体調を崩してしまったことを思い出す。 「怖い夢でも見たのか……らしくないな」 「……う」 熱に浮かされているとでも思われてしまったか。頭を撫でる大きな手が、今はとても懐かしかった。しばらくその温かさを享受していると、ぐらりと身体が揺れる。 「体が冷える……怖い気持ちも分かるが今はベッドに入れ」 倒れるすんでのところで肩を支えられ、ベッドに入るよう背を押された。スプリングに身を委ね毛布をかぶりながら、上半身だけ起こしてグレイグさまが持ってきたパンとラグーを口に運ぶ。 「すまない……俺のせいだな。お前には無理をさせた」 「まさかあんなに天気が荒れると思わなくて……薄着で行ってしまった私のせいです。寧ろご迷惑をお掛けして申し訳ありません」 グレイグさまと話しているとようやく自分の気持ちも落ち着いてきて、やっと過去に戻ってきたのだという実感が湧いてきた。そこで漸く、痣のある自分の右手がむき出しになっていることに気づいて、慌てて毛布の中に潜り込ませる。今の時点では、まだグレイグさまに事実を明かすメリットは無いと判断したからだ。 「ん……?名前、いつのまに剣を新調したのだ」 視線の先を追うと、そこにあったのは壁に立てかけてある剣。私がこの世界にやってくる時に持ってきたものだ。最後の砦へ逃げてきた武器商人から購入したもので、当たり前だがここらへんで売っているものではない。これもこの世界にやって来て最初の試練というべきか。うっかり口を滑らせてしまわないように、咄嗟に嘘をつく。 「この前買いました。言いませんでしたっけ…...?」 「ああ、聞いてない。常に金欠なお前が金を溜めて物を買うなど珍しいな」 グレイグさまはあまり私のことを詮索しようとしない。冷静に、落ち着いて普段通り言葉を返せば、何も不審がられずに会話はそこで終わった。ひとまず、過去と同じようにここに来てくれたのがグレイグさまで本当に助かった。これがホメロスさまであれば、私はもうすでに詰んでいたかもしれない。 「まだ起きているのなら俺は戻った方がいいか?」 「えっと……」 昔は心細くて此処に居てくれと頼んだ記憶があるが、今は逆に此処に居て貰っては何の準備も出来やしない。グレイグさまともう少し話したいのは山々だったが、ここで私は素直に「ここに居てください」とは言えなかった。今は、グレイグさまと一緒に居れば居るだけ私のことが露見するリスクが高まる。 「……そういえば今思い出したが、ホメロスが大事な用があるとかで呼んでいた。風邪を患って動けないことは伝えておいたが。どうする、部屋に来いと言っておくか?」 「具合が良くなったらそちらに向かうと伝えてください」 「そうか、無理はするなよ。それと、そこに薬を置いておく。落ち着いたら飲むように」 グレイグさまはそれだけ言い残すと立ち上がり、空になった食器を乗せた銀のトレイを持ち上げた。 「グレイグさま」 「どうかしたか」 此処でさようならをしてしまえば、もう長らく会えなくなるような気がした。なんたって、私はこの後ホメロスさまを説得できなければ私はここから逃げることになる。そうなってしまえば……もう暫く此処に戻ってくることはないだろう。大きな掌の感触が名残惜しくなって思わず呼び止めてしまったが、こんなことを我慢できなくてはこれから先の試練に耐えきれないと、首を横に振った。 「……いえ、なんでもないです。ごめんなさい」 そう言うと、グレイグさまは心配そうな顔をしながらも「ゆっくり休め」と言い残して部屋から出て行った。 ** 部屋の周りから誰も居なくなったことを確認すると、すぐさま自分が持ってきた荷物を整理し、いつもと変わらない部屋へと戻す。あとは右手の痣を隠すように手袋をすれば、これでこの部屋に誰か来たとしても「普段とは違う」ということが露見することはないだろう。 あれからもう一度眠りにつき、気が付けば部屋の外からは物音ひとつ聞こえなくなっていた。ふとグレイグさまが置いていった薬のことを思いだしてそれを飲めば、口の中には思わず嗚咽を漏らしそうな程の苦みが広がった。心なしか喉に張り付いているような薬の感触がどうしても拭えずに、水でも飲もうと台所へと向かおうとした時だった。 「そのようなところで何をしている!」 「ひ……!」 熱のせいもあって台所へと続く食堂の入り口でふらふらしていると、後ろから鋭い怒号が聞こえて思わず竦みあがってしまう。風邪をひいている為に普段は着慣れない通気性の良い麻の服を着ていたせいで、不審者に思われてしまっただろうか。 「ほ、めろす……さま……」 そっと後ろを振り向けば、そこには数年ぶりに見る姿があった。長い間会っていないせいで、もう声も忘れてしまっていた。長い金髪も、端正な顔も確かにホメロスさまそのもので、あまりに急な再会に驚き固まってしまう。 そんな私とは裏腹に、ホメロスさまは気が抜けたように「なんだお前か」と呟いた。 「具合が悪いのではなかったのか」 「み……水を取りに行こうと思いまして……」 そう言うと、ホメロスさまはつかつかとこちらに歩み寄って来たかと思えば、それ私の横をすり抜けて台所の方へと向かっていった。慌ててその後を追おうとすると、手で制される。 「お前は部屋で待っていろ、私が持って行く」 「でも」 「いいから戻れ」 言いかけたうちにまた言葉を重ねられて、私は大人しく部屋に戻ることにした。食堂から出ると、ホメロスさまのつけている髪油か香水の匂いがほんのりと感じられて、ああ、たしかに嗅いだことのある懐かしい香りだと頭の中でぼんやりと考えていた。 ベッドに入って待っていれば、ホメロスさまが水と一口大の焼き菓子を持ってきた。相変わらず口の中に居座る苦みが不愉快で、それらを貰うとすぐさま焼き菓子を口に含んで咀嚼し、水を一気に飲んで胃に流した。 「体調はどうだ」 「まだ気怠いですが、ずいぶんと良くなった気がします」 ホメロスさまは部屋にあった椅子を引いてベッドの傍へと移動させると、そこに座った。何をするわけでもなく、ただ私の様子を見ているようだ。私が過去と違う行動をとったことで、ホメロスさまの行動をも変えてしまったのかと考えていると、彼の手が伸びてきて私の手の甲にそっと触れた。 「あの、ホメロスさま」 「手袋などしていたか?」 「……冷えると思いまして」 こういう時のホメロスさまの洞察力は鋭い。しかし、さすがに私の手の甲に勇者の痣があることは想像できないだろう。少し不自然ではあるが、冷えるからつけているということで一応は納得してくれたようだった。 「そ、そういえば!グレイグさまから、ホメロスさまが私に用があるとお聞きしたのですが」 これ以上黙っていてホメロスさまに何かと考える時間を与えるのも怖くなり、こちらから本題とも言えるこの話題を出してしまった。過去では、私がホメロスさまの私室へと訪れ、そこで上着を手渡されてバルコニーに出てから話したことである。 「そうだが、……いや、良いか。ここでは誰にも聞かれるまい」 ホメロスさまは何かを考えるように口もとに手をあてたあと、私の髪をさらりと撫でた。そこで、暗闇の中に浮かぶ目と目が合った。冷たい手の温度を感じた瞬間、その瞳から過去の様々な記憶が蘇る。地下牢に訪れたホメロスさまが、相変わらず普段と変わらないような瞳で硬いベッドへと押し倒した時の、あの鳥肌が立つような肌の感触が思い起こされて、とっさにその手を払った。 「っやだ!やめてください……」 気が付けば、強い拒絶を示していた。牢に入ってからのホメロスさまの行動が一切の愛情も無い、私を手籠めにするための行動であったのだと知った今、別に他意はないような今の彼の仕草でもすべてがわざとらしいものに見えてしょうがなかったのだ。 「なぜ、そのような目で私を見る」 ただ、何故だろう。私はこの時までホメロスさまのこういった軽くスキンシップの中に、この人の繊細さを垣間見ていたのだった。それも、今の私による拒絶によって無くなってしまったが。 ホメロスさまはこちらへと伸ばしていた手を引っこめると、こほんと咳払いをしてから人前に出るような口調に切り替えて話し始めた。 「まあ良い……話というのは他でもない、お前の今後に関わることだ。つい今朝、ユグノアから戻ってきた兵士からとある報告があったのだ。どのようなものであるか判るか?」 これは、私が地下牢に入れられることになった表向きの名目に関してだ。私がユグノアでカミュたちを庇ったところを、どうも誰かに見られていたらしい。ホメロスさまに直接報告するあたり、私かグレイグさまの隊に紛れ込んでいた魔物である可能性が高い。 ここでそ知らぬふりをしても、ユグノアで悪魔の子の手助けをした証拠が無くても、ホメロスさまの権限を使えば私を牢に入れることなど容易いことである。ここは素直認めたところでこちらが不利になることは無い。むしろ彼を説得させるためにも認めておいた方が得策だ。 「私が……悪魔の子らを庇ったということですか」 「我が国は世界に災いを呼ぶ悪魔の子を長年追ってきたはずだ、その行為は立派な反逆罪に成り得ることは知っているな」 「そこで脅しをかけて、私を引き込もうと?」 「話が分かるのであれば、こんな回りくどい真似は止めだ」 そう言ってホメロスさまは立ち上がると、冷たく笑いながら私の顔を覗き込んだ。 「本題だ名前、お前を育てるうちに情が湧いた。本来であれば何も言わない予定であったが、特別に選択肢をやろう。私と共にこちら側へ来るならば、お前のこの罪は不問に付すことにする」 「どちらにせよ、私の運命は「ホメロスさまの中では」変わらないでしょう。あなたはただ、私の気持ちを確かめたいだけ」 彼のの頭の中では、私は魔物に身を堕とすことは確定事項なのだ(そんな彼の予想に反して、私がもともと居た世界の勇者イレブン一行は魔王を倒すことができたわけだが)。つまり、ホメロスさまが私にこのような無意味な問いかけをしたとて未来が変わるわけではない。私がその絶望に感けて首を縦に振るかを見ておきたかったのだろうか。 「逆に問います。こちら側に戻って来る気はありますか?」 「無い、もう今更何を言われようと私の気は変わることはないだろう」 分かり切っていた答えが返ってきた。今この状態で彼を止めることは厳しい。やはり当初から計画していた通り、ひとまずここから逃げ出し、命の大樹で彼を説得するしかなさそうだ。最悪、剣を交えることも考えておかねばならない。 「ならば、この話はおしまいです。ただ、これだけは聞いてください。……私はあなたを救いたいと思っています。それだけは、頭の片隅にでも置いておいてください」 「くだらんな」 冷たく言葉を吐き捨てて部屋を去って行くホメロスさまを見届けたあと、すぐさま身体に鞭を打ってベッドから起き上がると、普段着に着替えて未来から持ってきた荷物をまとめ始めた。ひとまず明日の会議が終わる前にここから逃げ出してしまわねば。牢に入っても私の呪いは勇者の力を得たおかげか綺麗に消えているため、結界の外に出ることはできるのだが、いかんせん私が悪者になってしまえば城から逃げ出すこと自体難しくなってしまう。 もう少し過去の世界に来ることができたのなら、私はこの場に持ち込むことなくホメロスさまを説得することができる望みはあったはずだ。それでも何故、時の番人は私をこの世界へと巻き戻るオーブを壊させたのだろう。今、世界の未来を変えるきっかけが此処にあるとでも言うのだろうか。それでも私にはさっぱり想像がつかなかった。 |