「すごい、これがシルビア号!」 「個人の所有する船」と言われて、てっきり普通の何の変哲もないような木造商船を思い浮かべていたが、目の前にあるのは初めて見るほど大きな船。船体には気品の良い金の装飾があしらわれていて、船首から長く伸びるバウスプリットからは紅色の三角帆が優雅に風になびいている。 シルビア号の整備士兼操舵手のアリスに挨拶をして、小舟で沖に停めてあるシルビア号へと向かう。大きな船へ足を踏み入れ、さっそく甲板から辺りを見やる。 「わあ……!あたり一面の大海原!なんだか夢みたい」 空との境界まで、無限に続く青。燦々と降り注ぐ太陽の光を受けて、水面がゆったりと揺らめく。 「あら、名前ちゃん船は初めて?」 「記憶にある中では、こんな大きな船は初めて。デルカダールに初めて来た日も船で移動したみたいなんだけど、昔のこと過ぎてイマイチ覚えていないんだ」 それこそ、町にあるような小さな船くらいにしか乗ったことがない。成人するまでずっとお城にいたし、自由に出歩くようになっても移動先は誰かの移動呪文に着いて行く形で広げていった。 アリスが小舟を回収すると、船はゆっくりと動き出した。舵をとっているのは、この船の所有者であるシルビア。つくづく、この人は何でもできるなと思ってしまう。 「シルビア、船も動かせるのね」 「勿論!アリスちゃんひとりじゃ回らないじゃない?それに、この船はアタシが一目ぼれして買ったものだから、自分で動かしたかったってのもあるわね」 鼻歌を歌いながら舵柄を持ってくるくると回す。すると、さっきまで割と安定していた足元が突然地震のように大きく揺れた。思ったよりも大きな揺れに、とっさに近くのものに捕まるが、それでも揺れは収まらずに結局床に手をついてしまった。それを見たシルビアの右手を借りて、また何とか立ち上がる。 「ごめん、ありがとう」 「いいのよ全然。船に慣れるまで時間はかかるもの」 「申し訳ないけど、どこか横になれるところ借りるね」 「客室もちゃんと人数分あるし、好きなところを使ってちょうだい」 「うん」 乗り物酔いのような吐き気を感じながら、壁伝いに船の中に入る。座って滑り落ちるように階段を下りながら、船の中を散策する。大きなホールを抜けると、調理室、控室、船庫、シャワー室、その奥にもう一つ階段があったのでこちらもやっとのこと降りると、こちらの先が控室だった。 「う……」 私以外の皆は慣れたように船の上に立っていた。海の上でも度々魔物に襲われるから、はやく慣れて皆の助けになりたいと思うが、一体どれくらいの時間がかかるのやら。適当な控室の扉を開けて、それを閉めぬままベッドに倒れ込む。上を向いても横を向いても吐き気がする……船酔い用の薬でも調合すれば良かった。楽しい船旅しか考えていなかった一刻前の自分を叱咤したい。 もういっそ眠ってしまいたいが、気持ち悪さで眠ることもできずに小一時間じっとしていると、開け放ってある扉からちらりとロウさまの顔が見えた。 「名前よ、薬を煎じてきた。飲めるか」 「ロウさま……ありがとうございます」 気持ち悪さに耐えつつも、なんとか起き上がって、壁に寄り掛かる。ロウさまは、薬草が詰まっているガラスのポットの中身を濾して、澄んだ薄緑の液体を取り出した。カップに入れられたそれを手渡され、一気に飲み干す。 「すみません、気を遣っていただいて……」 「なんのこれしき。船は慣れるまでが大変じゃからな、もし気分が良くなったら甲板に来るが良い。皆で今日の夕食を釣っているからの」 「分かりました、ありがとうございます」 ロウさまが扉を閉めると同時に、私はまたベッドに潜りこんだ。いくらロウさまが煎じてくれた良い薬でも、効くまでに多少時間はかかる。それまで、先程の状況プラス胃に液体が入った状態で相変わらずの揺れに耐えなければならない。 「はあ……」 誰か、どうにかして助けて欲しい。自分にラリホーもかけられないし、全くもって打つ手がない。せめて睡眠薬でも持っていればいいものを、とりあえず何かないかとバッグの中身を漁る。 「……あ」 掴んだのは、怪しげなピンク色のオブジェがついた瓶。グロッタのカジノで交換したものだった。これを飲めば、酔っ払っているようなふわふわした感じになって、船酔いの気持ち悪さも忘れられるのではないだろうか。具合が悪い時に飲むものではないと思うが、そうも言っていられないほど気持ち悪いのだ。 「ちょっとだけなら、大丈夫……よね」 瓶を開けると、鼻をつくような強烈に甘い──それでいて私が好む匂いがした。よくよく見ると、あの牢獄で飲まされていたものよりも少し濃い。あれはお酒か何かで薄めてあったのだろうか。全部飲みきってしまうのは流石にまずいと思い、一滴だけ指に垂らしてぺろりと舐めてみる。途端に、身体がそれに反応するように熱くなった。もっと欲しいと、その欲求に耐えられなくなって、もう一滴、もう一滴と口に運ぶ。もうそろそろ体の自由がきかなくなるというところで、飲みすぎたことに気づき、慌てて瓶の蓋を閉めた。 ふらりとベッドに倒れて、視界がどんどん狭くなる。しだいに瞼が重くなり、それを受け入れるように静かに目を閉じた。 火照る体の熱を感じながら、思い出したのはこれを初めて飲んだ時のことだった。それから、まるで紙芝居を見ているかのように、記憶の中にあるホメロスさまが次々と映し出される。取っ付きにくかった、まだ若い頃、強盗に拘束された時に助けに来てくれた時、初めて出かけた時、それは次第に、血の気を失ったような青白い肌をもった彼に変わっていく。そこで、突然ぷつりと視界が切れる。 「お前が殺した」 何もない真っ暗闇の中で、耳元で誰かが囁いた。男性の声か、女性の声か、それすらも判別がつかない。意味が分からないと、そう言おうと思ったが、まるで金縛りにあったように体が動かなかった。 ** いつまで経っても起きない名前の様子を見に行ったゴリアテが、心配そうな顔をして帰ってきた。聞けば、苦しそうに、うわ言のようにホメロスの名前を呼んでいるという。とても「ツッコミ」で起こそうと思えるほどの様子ではないということで、今度は姫さまが名前の部屋に向かったが、数分後に同じような顔をして帰ってきた。船酔いがよほど酷かったのだろうか、しかし昼にロウさまが酔い止めの薬を煎じて飲ませたと仰っていたが……。 結局、名前を起こすのは自分の役目になった。正直、二人の顔をみてあまり気は進まなかったが、昼食どころか夕食を終えても帰ってこないようでは心配である。ホールを抜けて小さな階段を下りた先。ゴリアテの字で「名前ちゃん」と書かれたブラックボードが下げられた扉をノックする。期待していなかった返事も返ってくることは無く、ゆっくりと扉を開けた。 「……」 姫様が掛け直してくれたのだろうか、相変わらずの寝相の悪さがにじみ出ている体勢の上から、まだ乱れていないブランケットが被さっている。このままだと身体を痛めてしまうだろうと、布団をずらして、せめて普通の人が寝る体勢に戻してやろうと手足を動かす。触れた皮ふの温度は、いつもより暑かった。熱でもあるのだろうか。 「ほ、めろす……さま……」 己の手が強張った。名前に触れた手を思わず手を離してしまう。その寝言がゴリアテの言っていたものであると理解した。拾えないほど小さな声から、寝言かと驚いてしまうほど大きな声まで、呟いているのは苦しそうな呻きとホメロスの名前だった。 ふと、自分はこの空間に居ても良いのだろうかと思ったが、このまま起こさなければここに来た意味が無い。辛そうな声に胸を痛めながら、両肩を揺さぶって声を掛ける。が、起きる気配は無い。そういえばソルティコで仲の良い使用人と会っていたことを思い出し、申し訳ないとは思ったがバッグを漁る。そうして、見たことがあるような粉を取り出すと、ひとつまみしてぱらぱらと振りかけた。 「……う……ん」 「やっと起きたか」 寝返りを打って、うんと背伸びした名前は、やっと眠たそうに目を開けた。 「魘されていたようだが、大丈夫か?」 「ん……」 随分と寝たはずなのにますます顔が疲れ切っているようで。一体どんな夢を見ていたのだろうか、まさかとは思うが夢の中で苦しそうに名前を呼ぶことに一種の不信感を覚えてしまう自分がいる。 「あれ……」 怠そうに上半身を起こして、ヘッドボードに寄り掛かりもう一度背伸びをしたところで、名前はやっと自分が今起きたということを認識したようだった。 「もう……夜」 「そうだが」 「何故起こしてくれなかったんですか……」 「何回も起こした、自分の寝起きの悪さを忘れたわけではあるまい」 具合が悪そうでとてもゴリアテのツッコミは使えず、マルティナ姫も起こしに来たがお手上げ状態だったと言うと、名前は申し訳なさそうな顔をした。少し、冷たく言いすぎてしまったのだろうか、あのうわ言が気になってしまって、気づかないうちにじんわりと態度ににじみ出ていたことに気づく。 「眉間、しわ寄ってますよ。どうしたんですか?まさか私が起きなかったから怒っているとか」 「いや……」 ぐいっと詰め寄られて、少し後ずさってしまう。何か話を逸らそうと、別な話題を考える。じっと、彼女のほうを見ていて、昨日から大事そうにつけている青いピアスが目に入る。それを見て、先程の不信感が一瞬だけ安らいだことに気づいた。 「どんな夢を見ていたんだ。ずいぶんと苦しそうに唸っていた」 「聞いちゃいますか、それ」 「いや、言いたくないなら言わなくても良い」 「別に言いたくないわけではないですけど……ホメロスさまの夢ですよ」 どんな夢だと聞きたかったが、これ以上詮索すると不自然に思われてしまうだろうか。しかし、話を終わらせる「そうか」の一言が口から出てこない。 「楽しかったころの夢です、まだ魔王とか勇者とかそんなの関係無くて。そんな頃のホメロスさまが、段々と今の姿に近づいてきて……それから、」 言葉が詰まった。苦しそうに、眉根を寄せる名前を見て、もう話さなくて良いと言うしかなかった。 「私は……今のホメロスさまのことはきっと嫌いだと……思います。だから安心してください」 それはまるでこちらを安心させるという言葉よりかは、名前自身を安心させようと必死になっている言葉のように聞こえた。ただの夢なのに、彼女にとっては「ただの夢」では収まりきれないような物事のようだった。 「これ、飲んでみてください」 返事も何もせずに黙り込んでいたせいか、名前も心配そうな顔でこちらを見てくる。そして、手渡されたのは床に転がっていたピンク色の液体が入った瓶だった。何処かで見たことがあるものと思ったが、また何故名前がこれを持っているのかも、飲めと言っているのかもよくわからず、そうこう考えていると時間もかかると思いすぐにふたを開けて数滴口に入れてみた。 「……」 「どうですか?」 「苦い、ような……なんともいえない味だ」 口の中に入ったその液体を、舌をゆっくりと動かして味わってみるが、何とも言えない味だった。いきなりどうしたと、そう言おうと思い目を向けると、名前の透き通るような目とぴたりと視線が合った。 「私とキスをしても、苦いでしょうか?」 驚くよりも先に、飲み込まれるような感覚だった。 「苦い……と思うが」 そう言うと、名前は夕飯を食べに行きましょうと立ち上がった。大事そうに、瓶をバッグにしまって。 船体に揺られてふらふらと進む自分よりも小さな背中を追いながら、ふと思った。「判らない」と答えていたら、彼女はきっと遠いところへ行ってしまっていたような気がした。 |