久しぶりに安心して、ぐっすり眠ってしまったせいで、目を覚ましたのは翌日の昼だった。宴を逃してしまったことに後悔しつつ、寝起きの重い体を起こす。私が持ってきた荷物はいつの間にか丁寧に整頓されていて、ベッドの横にはいつも着ていた服が畳まれていた。 服に袖を通し、大魔道士の杖を背負って外へと出る。天を仰ぐように両手を広げると、視界には久しぶりに見る青々とした空が広がっていた。その日を全身に浴びるように背伸びをして深呼吸をする。体調は……悪くはない。 テントの外にいた衛兵に、イレブンとグレイグさまの居場所を尋ねれば、王が居るテントへ向かっていったと返ってきた。謁見の邪魔をしてはいけないなと思い、彼らを待っている間に久しぶりに会ったイシの村人やデルカダール兵と再会の喜びを分かち合いながら、村を一望できる丘の上──リタリフォンの隣へとやってきた。村人から貰ったた野菜くずを食べさせながら、彼にもたくさん助けられたな……と思い繰り返し撫でてやる。 「リタリフォン、君も無事で良かったね」 あの状況で厩舎から逃げ出したのか、はたまたグレイグさまと共に世界樹に向かっていたのかは判らないが、此処まで辿り着けるなんて、もはや奇跡としか言いようがない。私の言葉に「当然だ」と答えるように、リタリフォンは高らかに鳴いた。 幾分か時間が経った頃、グレイグさまがこちらにやって来た。「此処に居たのか」と零すその背には、昨日までは無かった黒い大盾が背負われている。先ほど王のテントに呼ばれた際、御恵贈にあずかったのだろう。それはデルカダール王が認めた最強の騎士に与えられるものだということは知っている。 「やはり、その盾を受け取るのはグレイグさまであろうと信じていましたよ」 手を借りて足場の悪い坂道を進む。向かうはデルカダール王が居られるテントである。王に会うことができたならば、旅に出る覚悟を告げようち決めていたが、グレイグさまに反対されるかと思うと何となく言い出せずにいた──「私もイレブンの力になりたい」と伝えたら、彼はどんな反応をするだろうか。 「とても緊張します」 「王は心優しいお方だ。そこまで固くなるな」 ぽんと背中を叩かれた。……グレイグさまは慣れているだろうが、私はあまり慣れていないのに。 未だ万全の調子でない所為か、時折力が抜ける足を踏みしめて歩く。木の階段を上り、国章である双頭の鷲が刺繍されたテントの前に着くと、大きく深呼吸をして入り口を潜った。 ベッドに腰掛けてこちらを見るその人の威厳に、思わず足が竦んだ。目の前にいるのは、私の知る王でありながら、私の知る王ではない。ユグノアの悲劇の直後に拾われた私の記憶は、王の中には完全に無いわけで……つまりは、王の目には、双頭の鷲を背負った顔も知らぬ小娘がいきなり現れたことになる。 王に謁見するのはこれほどまでに緊張するものなのか。正面からピリピリと感じられる重圧に耐えながらも、王の前で片膝を立てて跪き、頭を下げた。 「お初にお目にかかります。デルカダール城の宮廷魔道士を務めておりました……名前と申します」 「名前……か。もっと良く顔を見せてくれないか」 静かな、それでいて重い声に恐る恐る顔を上げ、決して逸らしてしまわぬように真っ直ぐに、その目を見る。 王は暫くして、満足そうに微笑んだ。それは、魔王に憑りつかれていたあの頃の王では考えられないような慈愛に満ちていた。 「儂に起こったことについてはもう知っているようだな。そなたにも多大な迷惑をかけた」 王はそう言って深く目を瞑ったあと、私の背にある杖を見て、何かを察したような表情をした。 「先代の宮廷魔道士、エーゴン・クリンクは儂の旧友じゃった。あやつの妻が亡くなって、祖国に戻ると言われた時に、半ば無理矢理引き留めてデルカダールの城付き魔道士として任命したのだ……」 「……そう、だったのですか」 私が宮廷魔道士であると申し上げた時点で、先代はもうこの世には居ないと気づいていたのだろう。王が十六年で失ったものは私には考えられないほど重大ものだった。 そういえば先代は、それこそ死の間際まで、己と王との関係について何も仰っていなかった。今思えば、それは王がもうすでに先代の知る王ではなくなっていたから、余計なことを言うまいと触れないでおいたのだと思う。 「大切な友の忘形見だ、危険に晒すのは惜しい……だが、どうか力を貸してはくれないか」 しわくちゃの、それでいて豆痕だらけの手が目の前に差し出された。民のために自らの危険を顧みず、勇敢に剣を振るった手。私はそれを、迷うことなく掴んだ。自分も勿論そのつもりだと言わんばかりに立ち上がる。グレイグさまが動揺したような気がしたが、王の意志は彼の意志。私もこれで迷いなく、進むことができる。 「私は勇者イレブン、グレイグ将軍と共に世界の平和を取り戻すために戦い抜くことを誓います」 「……名前!」 「よくぞ言ってくれた。グレイグ、あとは頼む」 私を止めようと声を上げたグレイグさまだったが、王の頼みとなると断りきれずに、胸に手を当てて頭を下げていた。まさか、王に謁見してここまで話が進むとは思わず、安心して体の力が抜けてがくりと傾くと、背後に控えていたグレイグさまがとっさにやってきて支えてくれる。あの城から抜け出して一日も経っていない所為で未だ体力も回復していない。王の手前情けない姿を見せてしまったと思ったが、王もこちらを心配するように見つめていた。 「無理をさせたな。今はゆっくり身体を休ませると良い……」 「失礼致します」 王の気遣いに驚くも、ここは甘えておとなしく下がっておくべきだと判断し、頭を下げる。すると、先程差し出された手が肩に添えられた。 「名前、最後にもう一度顔を見せてくれないか」 何かを懐かしむような声だった。記憶のない間に亡くなった親友を、思い出すような柔らかい青灰色の瞳は、ロトゼタシア一の大国を治める王ではなく、モーゼフ・デルカダール三世というひとりの人間のものだった。 「ふむ……イレブンと同じ、澄んだ目をしておる。……これだけは覚えておけ、儂はそなたのことを大切な娘のように思っておる。決して、無茶なことはするな」 「……はい」 これ以上王と目を合わせていたならば、きっと泣いてしまっていただろう。今日初めて会った人なのに、とてつもない安心感を覚えた。それはまるで、私がお城にやって来た日に先生に対して感じた想いそのものだった。深く一礼し、グレイグさまと共にテントを出るまで、あの瞳はまっすぐこちらを向いていた。 王のテントを出て、私に充てられたテントまでグレイグさまと一緒に歩く。 グレイグさまは、私を旅に同行させたくなかったと思っている……それは隣を歩いている今でも空気を伝って伝わってくる。そんなものだから自然と口数は減り、テントに入る頃にはもうすっかり話し辛くなっていた。声をかけるべきかと悩んでいた中、先に口を開いたのはグレイグさまだった。 「良いのか、本当に」 「なんとも皮肉なことですが、世界を覆う闇の力を受けて、私の身体も昼夜問わず動きます。お役に立てるのなら是非……皆と戦うのが夢だったんです」 大樹が地に落ち、世界に闇の力が蔓延ったことで、私の中の魔物も十分エネルギーを受けて満足しているようだ。今まで日に当たるだけで燃えるように熱くなった体は、今は健康的である。 「私とてデルカダールの一兵士です。もう、生半可な気持ちでこの国章を背負っているわけではありません」 イレブンたちとも、グレイグさまとも、ずっと旅をしてみたかった。私に生きる道を与えてくれた二人に、どうしても恩返しをしたかった。……そして私の中の「魔物」と決別する為にも、私は此処を発たねばならない。 「ひとまず、俺とイレブンは直ぐに此処を発ち、ナプガーナ密林を抜けてドゥーランダ山へ向かう予定だ」 「私は……」 「今はゆっくり休んで、体調を整えてくれないか。そうだな、色々と落ち着いたらまたここに戻って来よう。そうしたら、今度は一緒に旅をしよう」 「絶対、戻ってきてくれますか」 「約束する」 その言葉をもう一度確かめたくて、手を差し出せば、グレイグさまはそれをきつく握ってくれた。掌を伝う熱い体温を、何度も何度も握り返す。私の気が済むまでは……と思ったのか、グレイグさまも手を離そうとすることは無く……やがてテントの外からイレブンの声がして、ほぼ同時に手を離した。 「じゃあ、行ってくるから……名前は早く元気になってね」 「……必ず帰ってくる」 「うん、気をつけて行ってらっしゃい」 旅の無事を祈るように、静かに手を合わせる。二人が出て行ったテントは、どこか物寂しくて、ひとりきりだった昨日までの生活を思い出すようで……思わず涙を零してしまった。 |