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「#幼馴染」のBL小説を読む
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滅びた世界の片隅で
地下牢獄に、カツン、カツンと単一のリズムが響く。それは、もう何年も聞き慣れた彼の足音だ。部屋にあった保存食と、岩の隙間から湧き出る水でなんとか食い繋いでいた私は、もう起き上がる力も残っておらず、ベッドで寝返りをうって、その音の主を出迎えた。

「……ホメロスさま」

予想通り、部屋に入ってきたのはホメロス さまだった。そこには既にデルカダール王国の将軍という姿は無く、身に纏っていた白銀の鎧は、私には到底理解ができないような大変趣味の悪い衣装に変わっていた。
そんな変わり果てた姿の彼でも、久しぶりに生きている者に出会えたことで、少しばかり安堵したのも事実だ。その反面、彼の端正な顔は私を見た瞬間にくしゃりと歪められた。

「何故だ、何故魔物の姿になっていない。……勇者はまだ生きているのか?」

べたついた前髪を払われて、顔を覗き込まれた……私の中の「魔物」を窺うように覗き込まれた瞳は、血のように真っ赤に染め上げられていた。暫くして、私になんの変化も無いことを確認すれば、不機嫌そうに舌打ちをされる。彼の言葉を聞く限り、私が魔物になることを制限している者はイレブンのようだ。私の母体である勇者の力が存在していれば、どうやら魔物を封じ込めることができているらしい。

ホメロスさまは相も変わらず私の持つ闇の力にご執心なようだ。シーツとブランケットを無理矢理剥がされると、骨張った手をぐっと引かれた。それが何の合図なのかは知っている。知っているが、抵抗することはおろか座ることもできずに、そのままホメロスさまの方へ倒れ込んでしまう。

「……う……」
「生憎だが、今は人間の食べ物を持ち合わせていないのでな」

腰に手を回され、反対側の手は私の心臓部へ翳された。それから、身体の中に何かが注がれる感覚。異物感は無く、身体に馴染み溶け込むそれに、私の中の「魔物」はいつもよりも鼓動を増していて、まるで喜んでいるようだった。その感覚に気を取られていれば、いつの間にか腰を支えていた手は消えていて……自力で座ることができていたことに気づいた。

「身体が、動く……」
「少しばかり魔力を分け与えただけだ。お前の身体は、魔物さまの呪いと共に生きている。食物を口にせずとも、その呪いの根元が死なぬ限りお前も死ぬことはない。呪いの根元は闇を食って育つ……私がこうして闇の魔力を注げば生きていけるというわけだ」

手を結んで、開いて、適度に動かして感覚を確かめる。青白くなっていた肌の血色も心なしか良くなっている気がして安堵したが、己の身体が魔力だけで生き延びる、ことができるほど侵されているかと思うと、複雑な気持ちになった。

ホメロスさまは玩具で遊ぶかのように、私の髪を弄んだ。ゆっくりと、闇の魔力に侵食される私の身体に、ごくりと喉を鳴らしている。彼が魔物になる前の姿を知っている私からしてみれば、それは薄気味悪いものだった。身体から溢れ出す瘴気も、人間味のなくなった薄青い肌も、赤を含んだ鈍く光る瞳も、それらが全て人間のものではなくなってしまったから。

「魔物に……なってしまわれたのですね」
「お前もいずれ、こうなるだろう」

青い血管の浮く手が私の喉元へと伸びてきて、細い指が気道を蝕むようにゆっくりとあてがわれる。その気味悪さに相反するように、私の中の「魔物」は恍惚とする。

「大樹は枯れ落ち、世界は闇に閉ざされた。本当ならば此処から出して世界を見せてやりたいが、それが叶わないのが残念だ」
「この城は、どうなったんですか。兵は、皆は生きているんですか……?」
「生きている人間は、誰も居ない」
「そんな……!」

半ば覚悟していたことだが、実際に言葉にされてしまうと、僅かな希望さえ見出すことができなくなってしまう。本当に誰も居なくなってしまったのだ。つい最近まで、元気にしていた彼らが、もうこの世に存在していないなど、信じられない、信じたくない。ホメロスさまが此処に来たということは、グレイグさまもホメロスさまを止めることができなかったということ。彼もまた同じように既にこの世界には居ないのだろうか。最後に顔を合わせた時、喧嘩別れをしてしまったことがひたすらに悔やまれる。侍女は、イレブンの仲間たちは……。
今直ぐにでも泣き喚いて、感情を吐き出してしまいたかったが、彼らが今必死に生きているかもしれないのに、泣いてしまうなんて失礼だと思い、嗚咽をぐっと飲み込んだ。

「私は暫くは此処に居るが、やるべきことが終われば魔王さまの下へ向かわねばならない」
「やるべきこと……ですか?」
「ああ、手始めにデルカダール領に居る全ての人間を滅ぼす」
「……っ!」

本気なのか、彼はいま何と言った?デルカダールに居る人間を滅ぼすと、そう言ったのか?涼しげな、何の躊躇いも無いような顔で……!怒りで震える手に伸びた爪を食い込ませ、手を出してしまわないように必死に耐えた。今まで怒りで我を失いそうになることなど無かったのに、激情に駆られて手を出すことなどなかったのに。私は無意識のうちにホメロスさまに掴みかかっていた。彼は一瞬驚いた顔をしたが、それもすぐ冷たい笑みに変わった。魔力が注入されたとはいえ、筋肉も削げ落ちた私の身体は己を支える力程度しか残っていない。ホメロスさまの服を掴んでいた手は剥がれ、力無くベッドに座り込んだ。今更彼をどうしたって、運命は変わらない。私では彼を止められない、ましてや魔王など……。

「勇者の死体を見るまで安心はできないが……大方理想通りに事が進んでいる、喜ばしいことだ。世界から大樹の力が完全に消え去れば、お前もやがて殆ど自我を失った魔物になる。それで完全に、我が目的は果たされるというわけだ」
「私が、私ではなくなってしまうのですか?」
「魔物は皆そうだ、人間とは違って上位の魔物に逆らわぬようになっている。そこには意識はあるものの自我は無い。同種同士の反乱が怒らないのもこのためだ。……安心しろ、魔物化すればお前の身体は私のもの。そこらの野蛮な下位の魔物のようには扱わん」

ホメロスさまの目的は、大樹によって創られた世界を滅亡させること。それを終えたら……人間を全て滅したら、彼はそれで満足するのだろうか。否、己の身を犠牲にしてまで野望を叶えようとするこの男の、底が見えない強欲は、きっとその程度のもので満たされはしない。退廃した世界で、ただ自我を持たない魔物を操るだけの機械的な毎日は、いつか彼の精神も蝕んでいくのではないだろうか。
一瞬だけ、「ざまあみろ」と思った己の心にそっと蓋をした。幾らホメロスさまの未来を案じたとて待ち受けているものは破滅だけ。ならば私は足掻いてみせる。

「私は、残っている希望に賭けます」
「勝手にしろ」

ただの強がりだと、そう思ってくれて構わない。私はもうホメロスという一人の人間も、それに付随した幸せな記憶も、全て捨てたのだ。凶悪な大罪を犯した彼は最早人間ではない、ただの魔物だ。だから、彼にどう思われようと、一向に構わない。

抵抗する私に力の差を見せつけるように、ホメロスさまは私の両手首を強く掴むと、そのままベッドへと押し倒した。薄いマットレスと湿気で薄くなったシーツはその衝撃を和らげることはなく、頭には鈍痛が走る。魔物になっても、その顔は相変わらず端麗なままだったが、唯一赤い瞳だけが妖しげな光を湛えていた。
尖った歯を光らせながら彼が舌舐めずりをすれば、それが何の合図かは想像がついた。ねっとりと絡められる舌を、抵抗もせずにただ受け入れる。そのうち呼吸もままならなくなり、慌てて息を吸おうとして品の無い声を漏らせば、ホメロスさまは私を見下すように冷たく笑った。顔に垂れる金色の髪に、擽ったさと不快感が相俟ったが、私はそれ以上に今までに無いような快感を覚えていた。魔物を魅入らせる赤い瞳の所為なのだろうか、大嫌いな人との口付けは苦痛のはずなのに、どこか興奮で胸を高鳴らせている自分が居る。このままでは、本当に堕ちてしまうかもしれないと思うほどに、ホメロスさまの身体に蔓延る闇が私を支配している。理性を押し留める為に目を瞑り、無反応に徹していれば、塞がれていた唇は漸く解放された。

「……新鮮味が薄れるな」
「ならば、私が魔物になった時は、さぞや飽きられるでしょうね」

嫌がって抵抗すれば、さらなる苦痛を与えられる。助けてと懇願すれば、彼の嗜虐性を刺激してしまう。反応を示さずに居るべきことが、最善の策であるということは既に学習している。己の身を守る為には、このような穢らわしい行為を素直に受け入れるという、最も罪深い手を取らなければならないというのは、何と馬鹿馬鹿しいことだろう。それでも、それ以外の方法がどうしても思い浮かばなかった。何もかもを失った私には、彼に楯突く勇気というものが、微塵も残っていなかったのだから。