霊水の洞窟を抜け、ダーハルーネに戻る頃には、水平線から太陽が顔を出していた。あたりに朝の白い光が満ちるにつれ、魔物が巣食う私の身体は鉛のように重くなる。今すぐにでも宿屋に駆け込んで、柔らかいベッドの上に横になりたい。カーテンを閉め切って、深い闇の中で眠りについてしまいたい。だが、私はまだ戻るわけにはいかなかった。イレブンたちを助けるための手立てがまだひとつも無いのだから。 「海の男コンテスト」で船が出せないとはいえ、ダーハルーネの朝は賑やかだ。明け方に船を出すその生活が体に染み付いているせいか、或いは海の男コンテストで皆が興奮しているせいか。どちらにせよ、名前にとっては有難いことだった。他の町ならば、日も完全に昇り切らないような朝早くに町長の家を訪ねるなど無礼にも程があるが、此処ならば問題あるまい。 だが、町長の家を訪ねることができたとはいえ、問題はその先にあった。申し訳なさそうに眉尻を下げる町長ラハディオに、何度も頭を下げたのだが、結局船を出す許可は得られなかったのだ。最終手段として、デルカダール王国の名を出し、なんとか説得を試みたのだが、彼は最後まで首を縦に振ることは無かった。ラハディオに何度も申し訳ないと頭を下げられたものだから、これ以上の強硬手段を取るのも躊躇われ、何も得られぬまま帰路に着いた。冷たい石畳の上を歩きながら、デルカダールとの外交関係について貿易規制を設けるところまでをチラつかせても良かったのかもしれないと憂悶していたが、いくらロトゼタシアいちの大国とはいえ貿易手段を絶ってしまえばタダでは済まない。私利私欲の為にダーハルーネを敵に回してしまえば首一つだけでは済まないと思い悩めば、結局イレブンたちの力になることはできなかった。 「どうも、うまくいかないな……」 ダーハルーネに来れば、そしてイレブンたちと接触することができれば、必ずや彼の力になれると思っていたのだ。彼らに事情を伝えてダーハルーネから逃げてもらう、それができなければ私が無理やりにでもドッグを解放してもらう。そんな自己中心的な妄想に自惚れていたことが悔しくてしょうがない。 双頭の鷲が刺繍された黒色のマントは、この往来の中ではひどく目立つ。町行く人は私を見かければ、ある者は嬉々と声を上げ、またある者は羨望の眼差しで此方を見つめる。だが傍から見れば随分と偉そうに見える私も、中身を見てみれば、この地位を苦労して手に入れたわけでもなく、人望も無い……結局は薄っぺらい人間なのだ。私ひとりの力では、何もできやしない。 悔やむだけで何もしないよりかは行動に移したほうが良いだろうか、やはりドックに戻って無理にでも掛け合ってみようか。どのみち、イレブンたちがダーハルーネに戻ってくれば、デルカダールの者に見つかってしまうだろう。このままだと船を出せる見込みはあまりないが、私が何か動きさえすれば……最悪賄賂を使えば、船を出させることもできるかもしれない。 だが、許可を得ないまま船を出した人は、その責任を負わねばならない。もしその人が私の名前を出してしまえば、このことはたちまちデルカダールに、将軍や王の耳にまで届いてしまうことだろう。そうなってしまえば私個人だけでなく国の体裁をも落とすこととなる。感情が渦巻くまま、段々と姿を現す太陽に合わせて身体の調子も悪くなり、結局は何もできぬまま、私は予約した宿へ引き返す羽目になってしまった。 宿屋に戻り、部屋のカーテンを閉め切った。それでも厚い布の隙間から漏れる太陽の光が鬱陶しく、ブランケットを被り光を完全に遮断する。普段ならばもう夢の中に居る時間だが、今日は眠れなかった。イレブンたちは、今頃どうしているだろうか。起きた頃にはことの全てが終わっているだろうに、こうも心配でおちおち眠れやしない。 日が昇り、町がいよいよ賑わってきた頃、此方に向かってくる足音が聞こえたかと思えば、すぐドアがノックされた。怠い身体を起こすのも億劫だったが、扉を隔てた向こう側に居る人物が嫌でも分かってしまったものだから、仕方なくブランケットを被ったまま立ち上がった。 「おはようございます、ホメロスさま」 「ご苦労、何か成果は得られたか」 そんなもの、無いに決まっている。私は昨日、ホメロスさまと相対した行動を取っていたのだ。だが結局は何も得られるものはなかった。その悔しさを思い出してしまい、唇を小さく噛み締めていれば、ホメロスさまはそれを「何の成果も無かったことを悔やんでいる」と勘違いしたのか、一言「そうか……」と漏らした。 土産だと渡された紙袋の中には、早朝に焼いたのであろう、まだ温かいライ麦パンが入っていた。鼻を擽る芳醇な香りに眠気が薄れ、被っていたブランケットを脱ぎ、ベッドに腰掛けてパンを一口齧った。先程まで心を覆っていた不安が、少しだけ消えたような気がした。この味を噛みしめると、何処と無くあたたかい気持ちになるのだ。 パンを食べている間、ホメロスさまが今日の作戦についての説明をしていたが、私はといえばそれを半分聞き流しながら、イレブンたちの動向を懸念していた。 「万一奴らを捕えることができなければ、夜の指揮はお前に任せる」 「……判っています。ですが、私では慣れない町で兵を率いる技量など持ち合わせておりませんので、どうかホメロスさまが悪魔の子を捕えてくださいますよう」 「無論だ」 冷や汗をかきながらも、偽りの言葉を述べれば、ホメロスさまは冷たく笑った。まるで奴らを捕まえられることに揺るぎない自信を持っているようなその表情に、私の不安は一層大きくなった。 扉が閉まる音がすると同時に、強張っていた全身の力が抜けたようで、ふらりとベッドに倒れこんだ。イレブンたちは、そろそろ霊水の洞窟を抜け、泥と湿性植物に足を取られながらこの港町へ向かっている頃だろう。私もこのような身体でなければ少しでも手助けをできたものの、今は横になっていても全身が重く、息が上がるほど苦しい。どうか彼らの誰一人としてデルカダール兵に捕まる事無く、上手く逃げ切れますように……と、深く目を閉じながら彼らの無事を神に祈った。 ** イレブンたちのことを心配し過ぎたせいか、はたまた外から聞こえるやけに耳障りな喧騒のせいか。普段は侍女が居ないとなかなか起きないような眠たがりな私が、珍しく日が沈む前に目を覚ました。赤々と燃える太陽に目を細めながらも、カーテンを捲って外の光景を見やれば、町の人が揃いも揃って「海の男コンテスト」のステージの方向を見ながら指をさしたり大きな声をあげたりしていた。その表情は困惑や恐怖に満ちていて──あの場所何かが起こっていると瞬時に察したのだ。 まだ上手く動かない身体でも応援に駆けつけるべきか、もう既にイレブンたちとデルカダール側が鉢合わせていると見てドッグにもう一度解放を掛け合うべきか。決めあぐねている間に、焦燥に駆られた身体はもう鷲の刺繍が施されたマントを纏っていて。急いで階段を駆け下りれば乱暴にドアを開けて外に出たのだが……。 「名前か」 「ホメロスさま!イレブ……いえ、悪魔の子は!悪魔の子は見つかりましたか?」 いざコンテスト会場へ向かおうとすれば、遠くに見慣れた白銀の鎧とそれらを取り囲むように歩く兵士たちが見えたものだから、急いで彼らに駆け寄った。先頭を歩いていたホメロスさまに声を掛ければ、返事の代わりに不機嫌きわまりない表情が返ってきた。今日は殊更お怒りのようだ──それを見て、イレブンたちはまだ無事であることが判り安堵の息を漏らす。しかし、広場であった騒ぎは何なのか、町の人々はどうして声を上げていたのか、それらを聞こうと口を開けば、ホメロスさまは私の言葉を遮るように声を張り上げた。 「悪魔の子は」 「ここにいても時間の無駄だ、急いで帰城し計画を立て直す」 城に戻るということは、手段は分からないが彼らは無事我々の手から逃れることができたということか。これまでに無いようなホメロスさまの不機嫌さは、グレイグさまが前に悪魔の子を取り逃がした時に、攻め立てたこともあってのことだろう。 ホメロスさまは一足先に城へ戻ると言い残し、キメラのつばさを放り投げていた。私も宿に置きっ放しの荷物をまとめ、チェックアウトを済ませば、兵士と合流する為に先程の場所へと急いだ。 兵士らはキメラのつばさでデルカダールに戻ろうとしているところだった。私に気づいた青年が荷物を持つと駆け寄ってきたため、「お疲れさまです。ありがとう」と声を掛ければ、不安そうに顔を顰めながらそっと耳打ちをされた。 「クラーゴンを?」 「巨大なイカのような魔物です」 「それは知っているのだけど、いまいち信じられなくて」 「自分もです……」 ホメロスさまが巨大な烏賊の魔物──クラーゴンを操っているように見えた、確かに隣に並ぶ兵士はそう呟いた。悪魔の子たちが船に乗って逃げようとしている時に現れたクラーゴンは、明らかにホメロスさまの声に従うかのような動きを見せていたのだと。そもそも、クラーゴンは船路である内海に棲まう魔物ではない。過酷な外海に生息し、その脚で何隻もの船を沈める者だ。ホメロスさまのその姿を見て、今まで彼のことを信じて疑わなかった兵士たちの間にも不信感が生まれている。当然のことなのだが、ホメロスさまはどうして強硬な手段に出たのだろう。今日この時にどうしても悪魔の子を捕らえたい理由があったのか、或いは取り逃がすわけにはいかないという絶対的な矜持がそうさせたのか……。 しかし、ホメロスさまが魔に魅入られていたのは知っていたものの、あのクラーゴンを操ることができるとまでは思っていなかった。基本的に魔物というものは、自分よりも格上の者に出会ったと本能的に感じれば、その者を襲うことはしない。さらに強い力を見せつけられれば、相手が例え魔物でなくても服従するような純粋な心を持っている。クラーゴンがホメロスさまの指示で動いていたということは、彼はあちら側でも魔物を束ねるような崇高な立場にあるのだろう。 「このことは皆知っていますか?」 「あの場にいた兵士は知っています。誰も口には出しませんが……」 「報告ありがとうございます。この城にも魔物と手を結んでいる者がいるかもしれませんので、このことは今後一切口外しないほうがよろしいかと」 大勢の人が入り乱れるデルカダールでは、もはや敵か味方かを判別することは難しい。さらには最高指導者が黒幕ときたものだ、都合が悪い存在となればあれこれと理由をつけられて牢の中に放り込まれかねない。安易に行動すれば、いつ何処で誰に露見するかも判らないのだ。 長話も怪しまれるかもしれないと、残った兵士たちを集め、ルーラを唱えてデルカダール城へと向かった。帰城すれば門の前にはホメロスさまが居て、一言「遅い」と不機嫌な顔をされた。いつもならば間髪入れず謝るものの、先ほどのこともあってか上手く謝罪の言葉が出てこない。 「……」 「名前」 いつか私に向けてくれた優しい眼は、小さな孤独を埋めてくれた澄んだ金色は、此処にはもう無いように感じる。寧ろ、夕焼けに反射する眼光が、鋭く私を突き刺すような憎悪に満ちているようにも見えたものだから、思わず怯んでしまった。 「い、いえ……少しぼーっとしてしまいました。何でもありません」 「少し休憩を挟んでから次の作戦会議だ。今度こそ悪魔の子を捕らえねばならん」 ホメロスさまはそれだけを告げると、夕闇に照らされた城内へ消えて行った。私もそのあとを追って自室へと戻る。 私は今日、この人と敵対する確たる証拠を耳にした。いずれ私たちはこの人を殺すのだろうか、それとも殺されてしまうのだろうか……どちらかの道に進むことになるだろう。その時に私は、ホメロスさまに剣を向けることができるのだろうか。そう考える度に、ホメロスさまとの小さな思い出が邪魔をするのだ。強盗に攫われた私を助けに来てくださったこと、喫茶店に赴いて食事を共にしてくれたこと、一緒に演劇を観てくださったこと、例えそれらが全てホメロスさまの策であろうとも、幽かに得られた暖かい気持ちは未だに忘れられずにいた。 |