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もしも私が彼ならば
ソルティアナ海岸から見える海はどこまでも青く、遠くの水平線には帆船がゆらゆらと揺蕩っている。ツンと鼻を刺す磯の香りに、この海にもまた小さな生命が蘇ったのだと、そう思った。

アリスの漕ぐ小舟に乗り、シルビア号に足を踏み入れれば、覚束ない足元に懐かしさが込み上げてきた。甲板の手摺に掴まりながら海風を受けると、舞い上がった髪が頬を擽る。懐かしい……世界が平和になってまだ然程時間が経っていないはずなのに、これまでの冒険の記憶が酷く懐かしいものに思えるのは、きっと今の己を取り巻く環境が大きく変わってしまったからだ。
 
「シルビア号、出航よ!」

シルビアが高らかに声を上げれば、カラカラと錨を巻き上げる音と共に船が海を掻き分けてゆっくりと動き出した。ひとりで客室に篭る気にもなれなくて、皆が居るからと甲板に留まることにした。船酔いの所為か込み上げる不快感に軽くえずけば、それに気づいたカミュが心配そうに声を掛けてきた。

「名前、顔色悪くないか?」
「ああ……相変わらず船酔いには慣れないみたい。でも前よりは随分とラクになったかな」
「前……?」
「カミュが記憶を失ってた時にね」

私が初めてシルビア号に乗せて貰ったのは、黄金の氷山が聳えるクレイモラン領へ向かう時であった。このような大きな船に乗ったことなど、記憶に残る中では初めてで、船に乗っただけでも直ぐに吐き気をもよおした思い出がある。長らく船旅を続けたお陰で、船酔いも少しは治まったものの、足元がぐらぐらと揺れるこの感覚には未だに慣れない。
そんなことをぼんやりと考えていれば、唐突に船体が大きく揺れた。バランスを崩し、衝撃と共に床へと倒れ込む。ああそうだ、確か波が荒い時はこのように酷く揺れてばかりいたな。長らく陸の上で生活していたせいで、すっかり船での過ごし方を忘れていた。

「今日は波が高いな、さっさと中に入るか」
「でも……シルビア、一人で舵を取っていて寂しくないかな」

無意識のうちにそんなことを口走ってしまったけれども、結局のところ寂しいと思っているのは私だった。此処に無理やり留まる理由をつけるために、息を吐くようにシルビアを使った自分に少しばかり嫌気が差す。私たちの会話を聞いていたのであろう、シルビアがこちらへと顔を向けて、にっこりと微笑みながら片目を瞑った。「アタシならば大丈夫よん」と言っているようで――これで私には船の中に戻らない理由など無くなってしまったわけだ。

「行こうぜ」
「うん」

自分の周りに居る人間が少しでも減ってしまうと、孤独に対する恐怖は益々高まる。だが、そんな恥ずかしい弱音をカミュに伝えるわけにもいかず。シルビアや甲板に居る他の仲間たちと離れてしまうことを残念に思いながら、彼と共に手摺や壁に掴まりながら甲板を移動する。

「ん……?」

ふと、カミュが声を発したかと思えば、先程私たちが居た場所へ向けて慌てて駆けて行った。一体何事かと思って彼が戻って来るのを待っていれば、その手にはデルカダールの国章を模した双頭の鷲が彫られた黄金色のペンダントがあって……慌てて己の首元に手をやれば、目当ての物はそこには無く、間抜けなことにチャームだけが首にぶら下がっていた。どうやら、先程バランスを崩して転倒した際に、ペンダントの金具が外れてばらけてしまったらしい。

「ほらよ。このペンダントって、あのホメロスとかいう奴が持ってたやつだろ?」
「うん……ごめんね、嫌なこと思い出せちゃって」
「別に構わねえよ。大事なモンだろ、金具修理して失くさないようにしなきゃな」
「ありがとう」

カミュの手の熱が移ってほんのりと温かいそれを受け取れば、きつく握りしめてチャームと一緒にバッグへと閉まった。この世界にたった二つしかないこのペンダントは、かつてデルカダール王がグレイグさまとホメロスさまに授けたものである。絶対に失くしてはいけないものだ。カミュに感謝しつつも、あのまま気づかなければ海の底に沈んでいたかもしれないと思うと、大切なものが、何処か遠くへ行ってしまうという暗示を受けているようで、酷く手が震えた。
船内へ入る階段を抜けてホールに足を運べば、そこにはマルティナ姫が居た。アリスに工具箱を借り、ホールの大きなテーブルにペンダントを広げて、歪んだ金具を曲げて元の形に戻そうと奮闘していれば、姫さまが私の肩越しに手元を除き込みながら、懐かしそうに顔を綻ばせた。

「そのペンダント……いつだかグレイグが、お父さまに戴いたものなのだと言っていたわ」
「ええ、王が幼き頃のグレイグさまとホメロスさまに……デルカダールの未来を担う二人に授け賜ったものだと聞いております。これは、ホメロスさまのペンダントですけどね」
「今は貴女のものでしょう」

姫さまが仰る通り、今は私のもの。亡くなったホメロスさまのペンダントをグレイグさまに手渡され、突き返すわけにもいかずそのまま首に下げていたのだ。単純な金の塊であるからだろうか、それとも込められた「志」が重い所為だろうか、ペンダントは長い間私の後頚部を圧迫していたようだった。それらを外した今、スッキリとした開放感が嬉しい反面、寂寥感が湧いているのも事実で。
きっと、グレイグさまと私を繋ぐものが、これだけであるから。ペンダントを失くしてしまったら、グレイグさままで失くしてしまうような気がしたんだ。我ながら被害妄想の激しさに呆れてしまう。だが、「物」ごときで己の感情が大きく揺さぶられているのもまた事実。絶えず波に揉まれるこの船体のように、私の心は些細な言動で大きく傾いてしまうから、何か縋ることができるものを見出さなければならないと、無意識のうちにそう思っていたのだ。

「グレイグが貴女に持っていて欲しかったということは、共にデルカダールの未来を担って欲しいと、そう思ってのことかもしれないね」
「そう……ですね」
「あら名前、何故悲しそうな顔をするのよ。少し、こっちを向いてちょうだい」

言われるがまま身体を捻って後ろを向けば、細い指が伸びてきて私の頬を摘んだ。それから、無理やり笑顔を作るようにぐにっと持ち上げられる。

「グレイグは生きているわよ。確かに眠ってはいるけれど、だからと言って居なくなってしまったわけではない……こんなこと、私に言われなくても知っているだろうけど。自分で思うのと人に言われるのでは浮かんでくる心象も違うでしょうから」

グレイグさまは生きている。そんなことは知っている。私が懸念しているのは、このままずっと目を覚まさないこと、グレイグさまをこの世界に留めている生命のエネルギーが尽きてしまうこと。事実でもない、在りもしない未来を勝手に想像して勝手に悲しんでいるのだ。姫さまから見れば、可笑しく思われるかもしれない、だが私自身恐怖を覚えているのは紛れもない事実だった。

「きっと貴女は、自分を責めすぎて、目の前が真っ暗になっているのね。「自分のせいでグレイグの意識が戻らない」と、それだけしか見えていないのでしょう。でも、私たちからしてみればね、名前もグレイグも生きている……これ以上に嬉しいことはないのよ。名前が生き返らない、グレイグが禁術で犠牲になってしまった、そんな最悪の状態にならなかったことが奇跡なの。だからどうか、元気を出してね」

客観的に見れば、良いことなのだ。禁術を唱えた者も受けた者も、両人とも生きているということが、どれほど嬉しいことなのか――そこにウラノスの力が働いていたとしても――私には判る。だが、素直に喜べない。喜ぶことができるものか、元はと言えば己の所為で、グレイグさまは深い眠りについてしまったのだから。だが、私が喜んでも悲しんでも、当たり前だが状況は変わらないことも知っている。

「あまり考え込んでも変わらないわ。まずはゆっくり休んで、カンダタ海賊団を懲らしめるための戦術を練りましょう。まあ、私たちなら余裕でやっつけられると思っているけどね」
「はい……お心遣い、痛み入ります」

修理したペンダントを首にかけて、軽く引っ張れば、チェーンが首の薄い皮ふに食い込んだ。これで、また外れてしまう心配はなさそうだ。今日の夕飯を釣る為、釣竿を手に外へと向かったマルティナ姫の後を追って、私も甲板へと飛び出した。

**

朝早くに目が覚めた。客室から見える外の景色は、青い光に包まれている。窓に張り付いて外の様子を窺うが、まだ日の光が十分に届いていない所為で、水平線もはっきりと見えぬほどぼんやりとしていた。もう一度ベッドに入って朝まで眠りに就こうかと思ったが、眠たがりな私が珍しく目を覚ましたのだから、このまま起きていようと思い、普段着に着替える。シルビアが、今日の朝にはカンダタ海賊団の居る小島に到着するだろうと言っていたから、二度寝をして寝坊でもしてしまったら、皆に迷惑をかけてしまう。

「……シルビア」
「名前ちゃん?」

操舵室に赴けば、そこにはアリスではなくシルビアが居た。昨日から舵を握りっぱなしだ、ちゃんと睡眠を取っているのだろうか。不安になったが、久々に自分の船を動かして活き活きとしているシルビアに、アリスと交代したら?などと声を掛けることはできなかった。

「珍しいわね、こんな朝早くに起きるなんて」
「もうウルノーガの呪いも消えたから、ちゃんと朝に起きられるようになったんだ」

今までは、日の光を浴びる度に拒否反応を示していたこの身体も、ウルノーガの消滅と同時に呪いも消え「普通」の生活を送ることができるようになった。皆が起きている時間に、自分も起きていられることができる。昇る朝日を、目を細めながら待ち焦がれることができる。私が取り戻した当たり前は、想像以上に大きなものだった。

「もう少しだけ、此処に居て良い?まだ誰も起きていないから、寂しくて」
「名前ちゃんが良いなら、いつまでも居て貰って構わないわよん」
「ありがと」

霧が蔓延る朝の海を、ジャイロコンパスと世界地図を頼りに舵を切るシルビアを横目に、操舵室の椅子に腰かけて朝の海を眺める。いつまでも晴れぬ視界が、まるで私の胸の中を映し出しているような気がして。ああ、やっぱり私は弱い。こんな些細なことで、嫌な記憶はすぐぶり返される。

「ウルノーガとの決戦前夜、悪い予感がしたんだ。もしも、私の意識が魔物に乗っ取られてしまったら、私が私ではなくなってしまったら……斬って欲しいってグレイグさまに頼んだんだ」

他の誰にも告げていなかった心のうちを、グレイグさまにだけは伝えた。それは何もウルノーガとの決戦前に始まったことではなく、私が十六の夜にも一度告げたことがある。グレイグさまが犠牲になった事の発端は、きっと私の告白にあったと思う。私が最後まで己の身体のことをグレイグさまに打ち明けなければ、別な未来が待ち受けていたかもしれない。それでも過去の私は、グレイグさまに打ち明けたのだ。思えばあの頃から、私はグレイグさまの本質を見抜いていたのかもしれない。この人ならば、きっと私の願いを聞き届けてくれると、感じ取っていたのだ。

「でもグレイグさまは結局私を殺さなかった。だから私は、彼の剣で己の心臓を貫いた。その時、グレイグさまはどんな気持ちだったんだろう」

だがひとつだけグレイグさまの欠点をあげるとすれば、彼は優しすぎた。優しすぎるが故に、私を捨て切ることができなかった。百を救うために一を殺すことができない、一も百も全て救う方法を最後まで考えて、考え抜いて結局何もできないのが彼だ。そんなグレイグさまの目の前で、最後まで救う方法を模索していた私が自害したのだ。仲間の為に、世界の為に、私がそうするしかなかったとはいえ。グレイグさまの精神的なストレスはそれは計り知れないほど膨れ上がっただろう。

「きっと今の私と一緒……いや、それ以上にグレイグさまは苦しんだ筈だよね。だから命をかけて私に蘇生呪文を唱えた」

もし私がグレイグさまならば、きっと耐えられなかったと思う。どうしようもなく、遣る瀬無くて、もう自分の命とかどうでも良くて、禁術であろうと何であろうと命を賭して蘇生呪文を唱えていただろう。グレイグさまが隣に居ないだけでこんなにも荒れている私のことだから、彼の死を受け止めてただ生きていくことが許せない。

「今なら解る気がする。グレイグさまが、残された者がどのような気持ちでいたのか。目が覚めて、私を遺して眠ってしまったグレイグさまを散々責めたけれど、今は私も同じ気持ちでいるよ。もう一度、声が聞きたい。隣を歩きたい。まだまだ、やりたいことが沢山あるんだ。失くしかけて、漸く気付いた。グレイグさまは私のことを家族以上に大切に思ってくれている……この世界で唯一、私が心の底から好きだと思う人だよ」

そこまで吐き出したところで、ふと自分が失言じみたことを口走ってしまったことに気付いて、恥ずかしくて熱が昇って真っ赤に染まった顔を隠すように下を向いた。

「どういう「好き」なのかは……まだ判らないけど」

慌てて予防線を張るようにそう言えば、舵を切っていたシルビアが面白くてたまらないといったように、声を出して笑った。急いで顔を上げて彼の表情を窺えば、未だ笑みが治まっておらず、また恥ずかしさが込み上げてきた。

「ふふっ、グレイグが聞いたら絶対喜ぶわよ」
「わ、私が打ち明けるまで黙っておいてね……グレイグさまも、私と変な噂が立てられたら居辛くなるだろうし」
「もどかしいけどしょうがないわね」

この気持ちがどんな「好き」なのかはまだ判らないけど、きっと皆が面白がるような感情ではなくて、ただ単純に隣に居たいというものだと思う。もしグレイグさまの目が覚めたら、私はこの気持ちを彼に伝えるつもりでいた。後悔してからでは全て遅いと、たった今学んだばかりであるから。

「さあ、カンダタ海賊団ちゃんたちのアジトが見えたわよん!皆を起こしてきてくれるかしら?」
「うん、判った」

朝日はいつの間にか水平線の上に顔を出していて、水面を宝石のようにキラキラと光り輝かせていた。船の舳先は真っ直ぐ前に見える小島を指している。カンダタ海賊団をやっつけて、何としてでも黒胡椒を取り戻さなければ。腕を捲って意気込めば、操舵室を後にした。グレイグさまの目を覚ます手掛かりが、必ず在ると信じて。