×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -

信じて待て
──それは懐かしい記憶だった。夢の中でしか語られぬ、遠い思い出の日々。
自分の背丈ほどもある麦は、今年も黄金色の稲穂を風になびかせながらバンデルフォンの大地を彩っている。家に帰れば、母が焼いたパンの芳醇な香りが鼻を掠めた。急いでテーブルに駆け寄って、バスケットの中に入っているまだ温かいライ麦パンを口に含んだ。野生の甘酸っぱい果実と自家製チーズが混ぜられたそれは、頬が落ちてしまいそうなほど美味しくて。私はこの味が大好きだった。故郷の温かい記憶を思い出させるような、このかたいパンがどんなにやわらかく高級なパンよりも優しい味がしたのだ。──


目が覚めれば石を抉った粗雑な天井が目に入った。かつて謀反者としてここに囚われていた時と同じ目覚めの光景に、反射的に飛び上がるように起き上がれば、ホメロスさまがベッドの端に腰掛けてこちらを見つめていた。部屋に散らばる兵士の服や破壊された洋箪笥を見て、そうしてようやく目が覚める前の出来事を思い出す。この世界では私は囚われてはいない。ホメロスさまを狙って地下牢にやってきた魔物と闘って、不慣れな魔法を使った私は自身の魔力を枯渇させてしまいそのまま力尽きて意識を飛ばしてしまったのだった。

「イレブンたちは……!」

私のもとにあの魔物たちが来たということは、ウルノーガは確実に動いている。そしてその魔の手は、勇者の剣を持つイレブンたちに忍び寄っているはず。今の彼らにウルノーガと対等に戦えるだけの力量が果たしてあるのだろうか、いくら大樹の力を手に入れていないとはいえ彼の力は絶大である。撃ち破る可能性が無いわけではないが、こちら側も甚大な被害を受けることは覚悟しておかねばならないはず。

「今しがた上から音が響いてきた」

ホメロスさまがそう漏らすと同時に、思うように動かない身体に鞭を打ち半ば這うようにしてベッドから出た。今向かえばまだ間に合うかもしれないと、頭で考えるよりも先に手が伸びて、床に乱雑に転がっていた大杖を掴む。

「もう闘いはじめている……!私、イレブンたちを助けに行ってきます!」
「待て」

立ち上がり駈け出そうとした瞬間、ホメロスさまに手首を掴まれて身体は大きく後ろに仰け反った。バランスを崩してぐらりと揺れた身体を衝撃から護るように、ひざを折ってしゃがみこんでしまう。宙に固定された右手を振りほどこうと軽く抵抗するも、ホメロスさまはそれを許さなかった。

「その身体で渦中に身を投じたとて足手まといになるだけだ」

彼が人の心配をするとは珍しいこともあるものだと思ったが、だからといってここで止められるわけにはいかない。足手まといにはなるかもしれないが、それ以上に厳しい実戦で培った過去の経験が必ずやイレブンたちに必要であると感じていたのだ。接近はせずとも呪文でアシストをすることができれば、そう思うと助けに行かないなどという考えは思い浮かばなかった。

「判っています、でもこのままではイレブンたちもただでは済みません」

手首は未だに掴まれたまま、上手く力を入れられない脚でぐっと地面を踏みしめながら立ち上がった。ホメロスさまをジッと睨めば、あちらも睨み返してきた。いや、睨むと表現するよりかは、まるでこちらを問い詰めるような瞳だった。強く見開かれた瞳孔は、まるで私の視覚を通して心の奥底まで見透かしているようで。ごくりと唾を飲めば、ホメロスさまの薄い唇からゆっくりと言葉が紡がれる。

「時を渡って漸くここまで辿り着いたと思えば、自ら殺されに行こうとは。とんだ物好きも居るものだ」
「な、何故そのことを」
「……やはりな」

まさかホメロスさまの口から時渡りに関することが飛び出してくるとは思わずに、否定する余裕も無く素の反応のまま言葉を返せば、ホメロスさまは何か逡巡するように目を伏せたあと、どこか納得するように深く頷いた。

「単なるお伽話とも思ったが、これならばお前の先を読むような奇妙な行動に納得がいく。そしてその痣も」
「これは……」
「電撃呪文を唱えた時に右手の甲に勇者の紋章がくっきり浮かび上がっていた。それで確信した……少なくともひと月ほど前まではその右手に痣など無かっただろう」

伸ばされた人差し指の先端には、先の戦いでボロボロに破れたグローブの隙間から覗いた、大きな痣。それは紛れもなく勇者ローシュ伝説に描かれた「勇者の証」、そしてイレブンの左手にくっきりと刻み込まれたそれと同じものだった。何故私の右手の甲にこの痣があるのか、ホメロスさまは私がこの痣を持つ可能性を考え、そして実に不可思議でありながらも真実であるこの結論に辿りついた。私はと言えば、まさかホメロスさまの口からそんな夢想的な言葉が出てくるとは思わず、暫く何と言葉を返せばよいのかも判らずに肯定も否定もせずにいた。ずいぶんと間抜けな顔をしていたことだろう。

「上階は危険だ、お前は此処に居ろ。せめてその身体がまともに動くようになるまでは私も動かん」
「イレブンたちが、兵士たちが怪我を負ってしまいます」
「普段ならば、奴らもデルカダールの兵もお前が思っているほどヤワではないと宣いそうなところだが。今日は随分と弱気だな」
「……私は、また仲間を失ってしまうことが怖い」

ウルノーガの魔力による大樹の暴風に巻き込まれ、肉体を失ったベロニカの最期の姿が脳裏に蘇る。私はもう二度とあのような悲劇を起こしたくない、起こって欲しくない。最悪の事態が起こった時に、私がその場に居なければ絶対に後悔してしまう。そして、かつてのように後悔の檻に閉じ込められ、罪悪感に苛まれたままこの世界でも死んだように生きていくことだろう。ならば私は応援に向かわない考えは無かったのだ。私にとってはこの世界の彼らでも、彼らにとっては世界にたった一人の大切な仲間、絶対に失うわけにはいかないのに。

「ならばこの盤面では迂闊に身を乗り出さないことが妙手だ。急いては事を仕損じる」

何故ホメロスさまは冷静でいられるのだ、彼にとっては所詮他人事だから、幾らイレブンたちが苦しもうと関係無いから、だから私の心情も理解できるわけがないのだと思わず叫びそうになる。声に出してはならないと、目の前にある冷たい瞳を強く睨みつけて抵抗することで、なんとか激情を抑える。だがホメロスさまは私のその八つ当たりにも近い表情を見てもなお眉一つ動かさずに淡々と言葉を連ねた。

「お前が前に出ればそれを庇う役が必要だ。逆にあの中にお前を易々と囮に使うような者は居ないと考えているが」
「ですが!」
「少しは冷静になれ」
「っ……!」

声のトーンが下がった。冷静になれのその一言で、焦燥でぐちゃぐちゃに掻き乱されていた頭の中がピシッと凍ってしまったかのように思考が停止する。そうして、自分が今まさに周りが見えずに振る舞っていたことをようやく自認した。ホメロスさまが冷静なのは、他人事だからではない。仮に他人事であるならば、私の腕を掴んで制止するなどという無益なことはしない。きっと目の前にいる彼こそが、本来のホメロスさまだったのだ。嫉妬に狂い強大な闇の力に支配され、己の力量を見誤り慢心していた過去の彼とは違う。状況を客観的、論理的に分析し、その揺るぎ無い見解に基づいて淡々と物事を熟す。己の感情を誇示せず、常に冷静沈着にものを考える理知的な人物。それこそがデルカダールの民から認められた軍師ホメロス本来の姿であるのだと。そう気づくやいなや全身に滾っていた力がスッと抜けたようだった。

「そう、ですよね。私がイレブンたちを信じなければ……彼らも私を信じて戦ってくれているはずなのに……」

再び地べたに座り込んでしまえば、己の無力さから滲む涙が滴るまでに目尻に溜まった。それでも、もう一度立ち上がろうとは思わなかった。自惚れかもしれないが、彼らもきっと私の身を案じながら戦ってくれているのだろう。それなのに私はときたら今まで背中を合わせて戦ってきた仲間を信じずにどうするのだと、己の無力さに対する後悔にそっと蓋をした。今はただ、この世界が迎えるべき運命を信じてひたすら耐え忍ぶ時だ。