「おはようございます、名前さま」 「うんおはよう……って、カノ?」 「私ですが、如何されましたか?」 「ううん、何でもない」 目が覚めた。視界には白い天井、少し視線を下げれば汚い部屋をせっせと掃除している侍女。横になっていたのは自室の柔らかいベッドで、手足には枷も鎖も何もない。昨日ホメロスさまのそばにいたいと告げたおかげだろうか、てっきり謀反の疑いをかけられてまた牢に閉じ込められても不思議ではないと思っていたのだが、ひとまず良い方向に未来を変えることができたようだ。 相変わらず魔王の呪いは消えていて、日が照っている間も普段通り行動できるものの、身体の変化をむやみに悟らせまいと夕食の時間に合わせて部屋を出る。資料を取りに会議室へと向かえば、そこにはペンを手に淡々と作業を熟すホメロスさまがいた。 「おはようございます」 「いつもの時間から軍議だ。遅れぬように」 「はい」 それだけ告げると、ホメロスさまはまた机に向き直った。ユグノアで私が悪魔の子とその仲間を庇ったという情報は勿論伝わっているはずなのだが、今は何も言ってこない。彼の心境は察しがつかないが、下手に掘り下げて投獄されるよりはこのまま何も聞かずに退室した方が良いと判断し、モヤモヤとする気持ちを抑えて足早に会議室を去った。 食堂は練習上がりの兵士たちで賑わっていた。空いている席を探してきょろきょろとしていれば、ふと遠くにいる見知った顔と目が合って大きく手を振られる。 「おはようオスカー、隣良い?」 「おはようの時間ではないが、おはよう。空いている、座りなさい」 そこに座っていたのは幼い頃からの顔見知りである中隊の長。御言葉に甘えて、隣に腰かけてテーブルの上にのったサンドイッチを自分の皿へと運ぶ。 「今日の昼ってさ、何か集まりとかあった?」 「……?何も無かったが」 「そっか、ありがとう」 異端審問の軍議となれば、上級の兵士は全員駆り出される事態になるだろう。今日の昼に何も無かったと言うことは、そもそもホメロスさまは私の謀反については触れるつもりは無いようだ。この件に後々触れることも難しいであろうし、罰を受けることは殆ど無いと判って良かったと思いながら夕食を食べ終えた。 ** 「グレイグさまは、どこにいらっしゃるのです」 「……奴は出ている。今日の軍議は私と二人きりだ」 会議室には先程と変わらずホメロスさまの姿しか無かった。二人きりというこの状況に緊張しつつも、彼と向かい側の席に浅く腰掛ける。普段ならばグレイグさまという緩和剤が居たからこそ、私が何も気遣わなくとも話し合いを円滑に進めることができていたのだが、受け身な私と何かを考え込んでいるように目線を下ろすホメロスさまの間には言葉は一切流れない。しかしこのままの空気で居るのも気まずく、壁に立てかけてあった世界地図を持ち出して机の上に大きく広げ、その上に駒を置いた。 「悪魔の子捜しの続きですね、次はどこへ向かいましょうか」 そう問えば、ホメロスさまはようやく口を開いた。 「その件についてなのだが……お前はとりあえず城に居ろ。捜索ついては我々が行う」 「何故です?」 「悪魔の子の行く先は予想がついている。広範囲の捜索では手を借りたが、今はその必要は無い。それよりも雑務が溜まっているのだ、そちらのほうを片付けてくれたほうが私にとってはありがたいのだが」 「私は奴隷ではありませんよ」 「報酬も休暇も与える。お前の選んだ道だ、今更聞かぬとは言わせん」 ホメロスさまは再び机に向き直り、忙しそうに羽ペンを走らせる。世界地図も駒も必要無いと言わんばかりに目もくれない。この城の軍師に命ぜられたのならば兵は従うのが普通なのだが、わざわざ私を呼びだしておいてこれで終わりでは軍議の意味が無いではないか。 「して、その本意は」 「何を言う」 「これしきの軍議のために私を呼んだのですか?」 彼がそんな無駄なことに時間を割くはずがない。あらかた、私の様子を見て別な話を切り出そうと考えていたのだろうか。そこでやっとホメロスさまはこちらを見た。普段の冷たい眼ではない、獣のように獰猛なギラギラとした目だ。 「どこまで知っている」 「……邪魔者はグレイグさま、でしょう」 グレイグさまを、イレブンたちを裏切るわけではない。これは私がホメロスさまの信頼を得るための、そして彼の行動を制限できる権利を持つための戦略だ。自らの正義を捻じ伏せたことに心が痛むも、致し方ないことなのだと己を落ち着かせる。ホメロスさまの心の闇に語りかけるように、厭らしく口角を上げ低い声でそう問えば、目の前の固く結ばれていた口はぐにゃりと歪んだ。 「ふっ、ふふふ、……ハハハ!まさかここまでとは、いやはや恐れ入った」 書きかけの書類を放り出し、ホメロスさまが勢いよく立ち上がった。自分の思惑通りに進んで愉快だと、何も知らぬ者を嘲笑するかのように。私のもとへ寄ってきたホメロスさまが姿勢を低くし、耳元に唇を近づけながら妖しい声で囁く。 「こちら側につくか」 「私はどちら側にもつきません。ただ、あなたと共に居るために動くまでです」 「後悔しても知らんぞ」 「何とでも」 共に生きる未来を掴むためならばホメロスさまの味方についたフリをするのも厭わないが、嘘だけはつけなかった。私が調子よく誘いに乗ってこないせいか、若干興奮は醒めたようだった。だが、あまりあちら側に足を踏み込めば、今度は取り返しのつかないことになる。自分の立場を守ったままホメロスさまに良く思われるのが最善、そして運命の時まで彼の油断を誘い一気に攻め立てる。今はそのために耐え忍ぶ時。 「お前は私と共に居ろ。やるべきことがあれば指示を出す。異論は無いな」 「はい」 顔を見合わせて強く頷けば、ホメロスさまは満足したかのように笑った。その幸福感が滲んだふわりとした表情がどうにも愛しく、思わず手を伸ばしてしまいそうになるのを必死に堪えた。私が望んだ彼の笑顔は、きっとこんなに冷たい表情ではない。 |