兄*1








あいつと家族になったのは、確かそう、小学校高学年になった頃だから……もう5年以上前になるのか。出会った当初は、名前を覚えていたかすら怪しかった。
新しく家に来た母親だと言う女は、あたしとの距離を測りかねているようだった。それはあたしもだったから、できる限り関わらないように、空気でいるように努めた。それは慣れた行為だったし、あたしも楽だった。
祖母の処に居るときに比べれば、食事の作法を間違えても一日書庫に監禁されることも頬を叩かれることもないというだけで幸せだったし。どこに居ようと、本は相手をしてくれたし。
それに、空を見上げればそこには島があって……あたしの宛先不明の苛立ちは全部そこに送りつけていたから、生活に不満は特に無かった。

中学生になって、二つ年上の義兄は生徒会長になっていた。そいつは成績もとても良くて、その頃にはあたし以外はきちんと家族になれていた。父は見たことも無い笑顔を奴とその女にだけは向けていたし。
自分がもうただの邪魔者なのは理解できていた。が、それも含めて別に、不満ではなかった。慣れって怖い。

ある夏の夜のことだった。中学1年生になって、2,3ヶ月経った頃だったか。あたしはいつものように自室の床に座り、外の音をシャットアウトするためにパソコンから適当な洋楽をヘッドフォンで引っ張っていた。英語が聞き取れないうちは、思考は集束し一箇所に向かうから。
手元には推理小説かなんかの本がいくつか散らばっていて、空に雲は一つもなくて、ちらりと視線を上げた窓からはいつもより島がよく見えた、ので。
結構な音量で叫ぶ女の甘ったるい声を聞きながら、あたしは立ち上がり窓を開けて空を眺めた。そして島に中指を立てる。

「っの、意味不明島め……」

「×、×××××」

同時にあたしは後ろに気配と声を感じ、振り返る。と、それは義兄で。驚いて固まった一瞬でヘッドフォンを奪われてしまった。

「ブリトニー・スピアーズ?思春期の通過儀礼にしちゃ、まあ真っ当か」

「は?……何なのよ、何の用」

「辞書借りたくて。でも今は、あの島についての世間話でもしたいかな、と」

あたしはその言葉におどろいて硬直する。奴は肩を竦めて笑った。

「何?見えるのが自分だけだと思ってた?」

「いや……、……うん、思ってた。……小学生になる前に祖母に話してから、given nameはいらない子の理由リストが増えたから。てっきり相当珍しくて、相当異端な証拠かと」

奴は驚いた顔をしてから眉根を下げて……、二人で窓の下に座り込んで、しばらくの間話をした。今までにおそらく片手で足りるほどの回数しかしなかった会話を。
島のこと、家のこと、親のこと、学校のこと、趣味のこと……。たぶんお互い誰にも話していなかったことを、たくさん、たくさん、……たくさん。

「お前、大丈夫か?家の空気。お前にとっちゃあ最悪じゃね?」

「別に?仮面家族ってのは想像するだけで吐き気するし。それに、箸を取り落としても殴られない暮らしって、案外良いものよ」

「え、お前も?……俺も、この家に来るまではあったわ、そういうこと。結構キツいよな」

聞けば、元父はDV男だったらしかった。自分が殴られるのは平気でも、母が殴られるのは辛いと唸っていたのをよく覚えている。

「だからさ、再婚はすごい嬉しかったよ。お前の親父さんはすごい良い人だし……俺までちゃんと家族扱いしてくれる。
この暮らしが、続けばいいな……」

目はいつも遠くを見つめていた。不思議な表情だと思った。

「お前は?何で殴られたりしてたんだ?」

「んー……普遍的でこの世の総てに合致する理由よ。つまりは生まれてきたから、かな」

「根本的だな、それは」

「でも真理よ。あたしはね、不義の子なんだって。父が1年のできちゃった結婚で作った子供。離婚届とあたしだけを残して消えた、淫蕩女の子。本当に父の子なのかすら、わからないんだって」

「……そりゃあ完全にアンフェアって奴だろう。お前には一切合財関係の無い話だ。
それを理由にお前を詰ったり、そんな事を子供に教えるのは確実に許されない行為だけどな」

「そりゃあねえ。でも頭に血が上った女はそこまで気が回らないわ」

父の実家は田舎の名士だったから、特にあたしは存在そのものが恥だったのだと知ったのは小学校に入ってからだ。口さがない大人の発言は無邪気な子供の悪意になってあたしを苦しめた。もう慣れたけど、理不尽さというものは一番自尊心を傷つけるから。
それでも父が私を育てることができない以上、祖母の家を離れることはできなかった。苦痛と感じなくなるまで、その苦痛は続いていた。

「なあ、さっきから気になってたんだけど、お前俺の名前把握してる?」

「アンタこそ、あたしの名前知らないでしょ」

「やっぱばれてた?
俺は奏。女みたいな名前だって、よく親父に殴られたよ」

「あたしはgiven name。名前が理由で殴られたことは、流石に無かったわ」

「よし、把握したな。これできちんと兄妹だ。胸張っていいぜ」

「あはっ、一体誰によ!」

ひとしきり笑って、互いのことをたくさん知って……。
それからあたしたちは親友になった。義兄妹で、家族で、そして親友。親たちは目を白黒させていたが、本当の『家族』を得られた以上その他はどうでもいいことだった。
自分を理解してくれる相手。それだけあれば、後はとにかく生きていける。それは、このときに得た教訓だった。

「なあ、俺、高校さ。楢鹿に行こうかと、思ってるんだけど……」

「えっ……」

それを奏が教えてくれたのは、私が中1の、あいつが中3の二学期に入った頃だった。突然の告白だったけど、当然のことだったから、あまり驚かなかった。
あたしたちは気付いていたのだ。父が巧みに隠そうとしても、母と呼ぶべきあの人が夜な夜な泣くのは止められないから。
父の兄、伯父に当たる人の商売が傾きどころか転覆状態で、父が若かりし頃になし崩しに判を押した保証人の鎖から逃れえぬ日が近付いていることくらいとっくに気付いてた。
いくら隠そうとしても会話は耳に入る。下校中に声をかけてくる見るからに怪しい借金取りと思しき男のことは、奏と話し合って誰にも言わないことにしていたが。
だから、できるだけ早く金を稼げる人間になることは、彼の望み……『永続的なこの暮らし』を続けるための最低ラインだったのだ。

「そう。じゃあ、一年間は全く連絡も取れなくなるのね」

「そうなっちゃい、ますねえ」

「まあ、そうなるよね。理解できるよ。あたしも、高校は楢鹿のつもりだし」

「それは、俺とおんなじ理由?それとも、ここから逃げたいからか?」

「さあ?どっちでも同じでしょそんなん。にしても、一年間わが子の顔も見られないなんて知ったら……あの人泣くよ」

「そうだなあ……でもそりゃー我慢してもらうほかねえしなあ」

「この、親不孝者。まっあたしの言えた義理じゃないけどー」

あたしはそう言って笑った。奏も笑った。
そうして雪が降りだした頃、母親役の彼女の涙ながらの制止を振り切って奏は願書を提出する。
入試はあってないようなもので、四月、彼はそう遠くない楢鹿へ旅立つことになった。
仕事で来れない父に代わり、あたしは一人で見送りに来た。学校は当然のようにサボって。母の筈の彼女は、奏が家を出ることにずいぶんご立腹らしく家から出なかった。

「で?あたしに何か言い残すことはある?」

「あー……たぶんここは適当に冗談かっ飛ばして、とりあえず笑いに変えるべきなんだろうけど。
本気でお前に頼みたい。……母さんを」

「……いざというタイミングになっちゃったら、家出でもしてもらう?たぶん、借金取りから逃げるには離婚が一番手っ取り早いけど」

「違う、茶化さないでくれ。母さんはそこまで弱くない。あれでDV夫から子供一人連れて逃げ切った女だ。
でも、母親だから、守るものなしに強くなれないんだよ……だから」

頼む。あの人を、頼む。
そう言って、親友が、兄貴が、あいつがあたしの手を握るから。
仕方ないなあ。ったく、仮面家族は嫌って言ったのに。
ため息を吐いて、苦く笑って、それであたしはそれを受け容れた。
必死に家族らしく振舞った。本当の親子みたいに。一緒に買い物に出かけて、一緒に料理をして。父も驚いていたけど、あたしにも笑顔を見せるくらいにまでなった。だから、結局女にとってのわが子には勝てないってこと、忘れちゃってたのよね。
そう確か、3月に入って、彼が戻ってくるはずの日。その日までは信じてた。その日までは……忘れてた。

彼はその日、5tトラックに轢かれて、跡形もなく吹っ飛ばされた。
体は遺体と呼べる状態じゃなかった。唯一大きな部分は左腕。それだけを燃やして灰にして、なんとか墓には納めたけれど……。

背中を震わせて泣く彼女を、なんとか慰めたくて。あたしは声をかけようとした。たぶん、それが失敗だった。

「どうして!?どうしてよ!!どうしてあの子が死なないといけなかったの!!?」

いや……違うな。失敗はそもそも、生まれてきたことだ。普遍的で、やっぱり総てに合致する答え。それでも彼女の顔はぐしゃりと歪んでいるのだから、ああもう。

「どうしてあの子が死んで、どうしてあなたが生きてるのよ!!どうしてよぉ……ッ!」

本気でそう思うなら、なんで貴女が傷ついた顔するのよ。あたしを疫病神と、悪魔の子と思うなら、なんで貴女が傷つくの。そんな顔されたんじゃ、あたしは被害者面もできないじゃない。

「どうして……どうしてぇ……ッ!!」

父は何も言わなかった、否、言えなかった。彼が死んだことで、なぜか大量に金が転がり込んだからだ。政府から。
それで高飛びした伯父の借金は払えたし、手元にも十分すぎるほどの金が残った。あんなに奏を、あの人を、そして父を追い詰めた借金が数百万ぽっちだったと知ったとき、あたしは呆れることしかできなかった。
そして察しの良いあたしはまたも気付く。あたしが居ちゃこの家は、もう回らない。うまくいかない。母娘になろうとしてくれていた彼女はもう諦めてしまったらしく、ノイローゼになっていた。

「お前は、強い。……金は残しておく。一人でも、生活できるだろう」

父は彼女を永野の祖母宅の傍の精神病院へ入院させた。そして自分は祖母宅で生活を始めたようだった。弁護士業はどこでもできるから。
一方あたしは数千万が入った通帳片手に、中3にして一人暮らしを余儀なくされた。中学は大体引き落としだから、馬鹿をやらかさなければ問題は無かった。
それは決して嫌な暮らしではなかった。むしろ気楽ですらあった。元々関わるまいと生きていたから、誰も居なくても凄まじい変化は訪れなかったし。
だけど。
…………だけど……。







※永野=長野
埼玉は最玉だもんね

ちなみに「触」は夢主の入り込む隙がなさそうだったのでスルーしました。外典は関係があるので書きました。

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