君が俺のことを覚えてなくとも俺は君のことを愛している(忍人×千尋)
女王陛下重篤との報せを聞いたのは、遠征から戻ってすぐのことだった。
一月ほど橿原宮を空ける長期の遠征を終え、ようやく愛しい妻に会うことが出来ると思った矢先のことである。
忍人は逸る気持ちを抑えて身を清め、一人臥せり続けている千尋の寝室へと駆けつけた。

「千尋!」

冷静な忍人らしからぬ焦った様子に、千尋の傍に控えていた風早が腰を浮かせて入り口を振り返った。

「忍人……戻ったんだね」
「風早っ!お前がついていながら、どうして千尋がこんな目に!」

胸倉を掴もうとし、ぐっと手を握り込む。
風早に八つ当たりをしたとしても、千尋の状態が回復するわけではない。
眉を寄せて唇を引き結び、風早の横を通り過ぎる。
寝台の真横に膝をつくと、忍人は眠り続ける千尋の頬にそっと手のひらを当てた。

「……千尋」

肌の色は悪くない。多少やつれただろうか。金の睫毛が縁取る眦に掛かる髪をそっと払うと、忍人は一拍置いてから膝を伸ばし立ち上がった。

「先ほどは取り乱してすまなかった。風早、経緯を説明してくれ」

ひたと風早を見る忍人の目は常と変わらず落ち着いて静かなものだった。
命に別状はなさそうだと判じたのだろう。
己を殺す精神の強さと、状況を見極める目の確かさは戦場に立っていた頃と何も変わっていない。
風早は忍人に椅子を勧め、自身は茶を淹れるために部屋の隅に置いてある茶器のところへと足を向けた。

「君が遠征に出て、十日ほど経った頃かな。突然千尋が倒れたんだ。すぐに巫医を呼んで調べたんだけど、これといった外傷もなければ病気の症状もなくてね。原因を突き止めるまでに、倒れてから三日ほどかかったよ」
「それで、原因は?」

かちゃかちゃと茶器が音を立てる。
次いで豆茶の香ばしい匂いが部屋にふんわりと漂い始めた。
昔から親しんでいた風早の豆茶の香りに、棘棘としていた気持ちが徐々に丸みを帯びてくる。
風早が落ち着いているのだから、千尋は大丈夫だろう。
忍人はそう思って身体の力を抜いた。

「どうやら呪詛をかけられたみたいなんだ。どこの誰がどうやって、というのはまだ分かっていない。でも那岐が言うんだから間違いないと思う。今は呪詛を解除するのに柊と那岐が力を尽くしているところだよ」
「……呪詛か」
「身体に害を及ぼすようなものではなくて、精神に―――今のように眠り続けるような、そういう類のものらしい」
「だが、時が経てば身体は衰弱していくだろう。一刻を争う事態ではないが、軽視も出来ん」
「そう、忍人の言う通りだよ。でも俺たちが身代わりになれるわけでもないから、今は柊と那岐を信じて待とう」

はい、と手渡された茶を啜り、忍人は昏々と眠り続ける千尋の顔をじっと見詰めた。
早く目を覚まし、忍人を見て笑って欲しい。
無事に帰ってきたことを伝えたい。
そうして、互いを確かめるために抱き合いたい。
蒼い瞳が忍人を映してふわりと甘く緩む様を、今すぐにでも見たかった。

「…千尋、……どうか、目を覚ましてくれ」

風早がそっと後ろを向いて目を背けた気配を感じながら、忍人は千尋の薄く開いた薄桃の唇へ自分のそれを重ね合わせた。



その翌日、千尋の寝所の隣で眠っていた忍人を叩き起こしたのは兄弟子の声だった。
起きてみれば何故目が覚めなかったのかと思うほど騒然とした声や音が耳に飛び込んでくる。
長旅の疲れが溜まっていたのか、いつもより深く寝入っていたのだろう。
だとしてもこれは失態だと寝台から飛び降りた忍人に、兄弟子―――柊は薄く笑ったままの唇を開いた。

「我が君がお目覚めになられましたよ」
「っ!?」
「少しずつ術の効力を薄めていった那岐の努力が実ったようですね。まだ完全には解呪は成っておりませんが、これでまずは一安心といったところでしょう」
「そうか……」

ほっと胸を撫で下ろす。
柊のやや嬉しそうな口ぶりからすれば、身体の方も健康なのだろう。
すぐに身支度を整えて千尋に会いに行こう、そう思いながらも何かが引っ掛かる。
そうだ、千尋が目覚め、何の問題もないのであれば、なぜ采女ではなく柊が報告に来たのか―――胸騒ぎを覚えて柊に目を遣れば、柊は変わらず薄っすらと笑みを浮かべたままだった。
どくり、と心臓が軋むように跳ねる。

「柊、貴様……まだ、俺に言っていないことがあるんじゃないか?」

すう、と低い声が落ちた。
笑う柊の顔はまるで張り付いた面のようで気に障る。

「おや、ご明察。流石は葛城将軍ですね」
「茶化すな!」
「ふふ……いえ、君がそうして取り乱すのは中々珍しいことですから、つい」
「柊…ッ!」
「我が君がお目覚めになったのは事実。そして、呪詛がまだ残っているのも。だからでしょうね、我が君は―――」

柊の言葉がすっと耳に入り、頭の中を掻き乱した。
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
心が否定するのも、理解を拒むのも、忍人にはどうすることも出来ない。
寝間着のまま室を飛び出し千尋の寝室へと駆け込むと、そこには身体を起こし寝台に腰掛けた妻の姿がある。
世話をする采女に笑い掛ける顔は、見慣れた千尋のものだ。
肩を滑る金の髪も、蒼い瞳も、忍人の知る千尋その人に他ならない。

どくん、どくん、心臓が今にも口から飛び出しそうなほど、強く早く打っている。
からからの喉から搾り出すように「千尋」と声を出せば、千尋はぱっと顔を忍人へと向け少し首を傾けた。
そして。

「あなたは……?」

そう言って、大きな蒼目をぱちりと瞬かせた。

「陛下、この方は貴方様の、」
「千尋……本当に、忘れてしまったのか?」

采女の言葉を遮り、忍人は千尋へと一歩ずつ近づいていく。
しかし見上げてくる千尋の目は忍人に対する愛情をなくしており、ただ不思議そうに忍人を眺めるのみだった。

「はい。あの……すみません、記憶が何だか混乱してるみたいなんで、分からないんです」
「……そうか」
「そのうち必ず思い出すって柊が言ってました。だから、きっとあなたのことも思い出してみせますね」

にっこりと快活に笑う千尋の様子からは悲壮感はなく、前向きな千尋らしさが窺えた。
寧ろ、即位してからはあまり見られなかった年相応の元気さがそこにある。
忘れられてしまったことは胸が張り裂けそうなほど苦しかったが、千尋が笑っていてくれるならばそれでいい―――忍人は感情を押し殺して無理矢理笑みの形に唇を持ち上げた。
きっと思い出してみせる。
その言葉を信じて、今は耐えるしかない。

「ああ、…期待している」

そうして忍人は、自分が夫であることを明かすことなく一月ぶりの逢瀬を終えた。
みだりに情報を与えて更なる混乱を招くような真似はしたくなかったからだ。
周囲にも忍人が王婿であることを伏せるように指示し、忍人はただの側近、将軍職に就いている者として千尋に接することなった。
言い様のない寂寥が常に胸の中にあったが、一時の感情に流されて千尋の心を掻き乱すのは本意ではない。
千尋の心を守るのも、夫である自分の役目であると忍人は強く自分を律した。

そして忍人が夫であることを伏せたのにはもう一つ理由がある。
千尋が忘れてしまった事柄は大きく二つあり、一つが忍人のこと、もう一つが自分が王であるということだった。
流石にそれを忘れたままにしておくことは出来ず、千尋は王に関する知識を一から叩き込まれることになっていた。
そこへ夫の話などどうして持っていけるだろう。
慣れない王の執務に戸惑うであろう千尋に、それ以上の無理を強いることはどうしても出来なかったのだ。

万が一忍人のことを思い出さなかったとしても、また最初から始めればいい。
忍人は軍部の仕事を片付けながら、愛しい妻を思って口許を緩める。
忍人が愛したのは千尋の記憶ではなく、千尋自身だ。

「忍人、仕事中に悪いけど、ちょっといいかな」

思いを馳せているとふと声を掛けられ、忍人は筆を置いて執務室の入り口に目を向けた。
立っているのは青空のような髪を持つ同門の仲間。
滅多にこんなところにはやってこない男に少しだけ驚きながらも「どうした、風早」と応える。
記憶が戻らず四苦八苦している千尋に付きっ切りになっている風早がわざわざ軍部に足を運ぶ理由が分からなかった。

「千尋のことで、お願いがあるんだけど」
「お願い?千尋に何かあったのか?」
「いや、何もないよ。呪詛の方も相変わらずだしね」
「……なら、一体何だと言うんだ」

そもそも、千尋に関して忍人が出来ることは身辺を守る程度のことで、それ以外には殆どない。
ただの将軍が千尋の下へ足繁く通うわけにもいかず、一日に一度朝議で顔を見る程度だった。

「息抜きに付き合ってあげてくれないか?ここのところずっと根を詰めているからね、たまには羽を伸ばす時間があってもいいと思って」
「俺では息抜きにならぬだろう。覚えてもいない男と二人で過ごして緊張はすれど肩の力など抜けるはずがない」
「君を指名したのは他ならぬ千尋だから、大丈夫だと思うよ」
「……千尋が、俺を?」

思いがけない言葉にじわりと目を瞠る。

「千尋は君のことを忘れたかもしれないけど、心のどこかでちゃんと覚えているんじゃないかな」

どうしても思い出したいそうだよ、と笑う風早に、忍人は僅かに赤らんだ耳を隠すように髪を掻き上げた。
さらりと闇色の髪が指の間を零れ落ちる。

「……すぐに向かう。用意をして待つように、千尋に伝えてくれないか」

満面の笑みで頷いた風早に、忍人は顔を隠すべく俯き、急いで目の前の仕事を片付けるために筆を取った。



それから半刻ほどで仕事に区切りをつけた忍人は、千尋を宮の外へと連れ出していた。
そう遠くへ行く時間はないが、近くを散策するくらいならば充分に出来る。
毎日執務室に篭りきりで外に出る暇もないのだから、せめてこの一時くらいはと思ったのだ。

二人で出かけてすぐはぎこちなかった空気も、程なくしてすぐに打ち解けたものとなった。
久しぶりの外出だからかあれこれと饒舌に話す千尋はやはり忍人が知る千尋より幾分か幼く感じられる。
王である自覚がまだはっきりと持てていないのかもしれない。
憂うべき事態ではあったが、今はその方がいいような気がした。
異世界から豊葦原に来て、ずっと駆け抜けてきたのだ。
しばしの休息と思っても罰は当たるまい。

「本当にいい天気ですね、忍人さん」
「ああ。これだけ暖かくなれば、もうじき桜も花をつけるだろう。三輪山の桜は覚えているか?」
「はい!凄く綺麗でしたよね、満開の桜が風に乗って雪みたいに散って、辺り一面が薄桃色になってたなあ。それで、花びらを取ろうとしてはしゃいでたら、確か……誰かに怒られて……」

ふと思案する千尋に、忍人が笑う。

「あれは、君が上を見ながら走り回って転びかけたからだ」
「あ……」
「その後は下を見ながら歩いて、今度は木にぶつかりかけた」
「あれは、下を見て歩けって言われたから、それで……」
「極端すぎるんだ、君は」
「…だって。何かあっても、きっと守ってくれるって分かってたから、です」

千尋の言葉に思わず足を止める。
忍人のことは覚えていないというのに、一緒に過ごした時間やそのときの感情は覚えているというのか。
何かを言おうと思っても言葉が詰まってしまって出てこない。
喉の奥にあるのは千尋への思いだ。
じっと見下ろす忍人に、千尋は戸惑いながらも薄く目尻を淡紅色に染めた。

「忍人さんのこと、全然思い出せないのに分かるんです。私……ずっとあなたのことが好きだったって。桜の思い出も、こうして思い返すだけで凄く幸せな気持ちになる。誰が隣にいたのか、誰と過ごしたのか、そんなことも分からないのに」
「……千尋」
「私、思い出したい。忍人さんのこと、ちゃんと思い出して…それで……」

千尋の目がじわりと潤む。
揺れる蒼目に忍人の喉がこくりと上下した。

「あなたに好きって言いたいの」

真っ直ぐに、射抜くように。
まるであの弓を構えて黒い龍に立ち向かった、あのときのような。
確固たる意志を持ち絶対に譲らないのだと全身で忍人に訴えてくる、その姿に胸が震えた。
千尋の心はきっとあの頃のまま、直向に忍人を思い続けていてくれているのだ。

「……君は、自分の立場を分かっているのか。国の王である君が、俺なんかに軽々しくそのようなことを言うべきではない」

軽率だ、と言えば、千尋は軽く唇を尖らせる。
王としての自覚はあるのかと忍人に散々怒られ続けた、あの千尋の姿だった。

「……と、本来ならば言いたいところだが」
「え?」
「それが許される立場に、俺はいる。そして君も」

細い腰に腕を回し、驚く千尋を抱き締める。
久しぶりに抱いた身体は少しだけ細くなっており、会えずにいた時間を思い、愛しさが募った。

「思い出せなくても、覚えていなくてもいい。君が俺のことを覚えてなくとも、俺は君のことを愛している」
「っ……!」
「そして、俺は君にこうすることを許された男で―――君の夫だ」
「おし、ひとさん……」

はらり、と涙が散る。
頬を滑る雫に苦笑し、忍人は優しくそれを指で拭った。

「泣かないでくれ。君に泣かれるとどうしていいか分からない」
「だって、だって!忍人さんが、私の…っ」
「黙っていてすまなかった」

丸い額にそっと唇を押し当てれば、みるみるうちに赤くなる千尋の何と初心なことか。
記憶をなくしても思いは残っているというのはどういう心地なのだろう。
眦の涙を軽く吸って、忍人は千尋の華奢な身体を抱き直した。

「許してくれるか?」

耳元でそっと囁けば、千尋がぽふりと頭を預けてくる。

「ずるいです、忍人さん……そんな風に聞かれたら、許せないなんて言えないもの」

背中に添えられた小さな手がきゅっと忍人の衣を掴む。

「―――千尋」
「好きです、忍人さん。あなたを好きだって心が騒ぎ立てるの。記憶がなくても、私の全部が忍人さんを好きだって覚えてる。だから忍人さん、もし思い出せなくてもずっと私のこと好きでいてくださいね」
「当たり前だ。君は俺の妻で、俺の最愛の人だ。この気持ちは君に忠誠と愛を誓ってから変わらない。これから先も、ずっと」
「……忍人さん」

触れ合う唇に互いの熱が上がる。
今すぐにどこかに隠して抱いてしまいたい衝動を抑えて甘やかな唇を何度も味わい、忍人は遣る瀬無い息を吐いた。



後日、呪詛はいつの間にか勝手に消え、竹簡片手に成功でしたねと満足げに笑う柊の姿を見た那岐が鬼道をぶっ放した、というのは別の話である。


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「君が俺のことを覚えてなくとも俺は君のことを愛している」
シチュが一時的な記憶喪失で、エロを希望とのことだったのですが、
どうしてもエロと記憶喪失が結びつかずにエロを断念しました。
力不足この上ない感じで本当にすみません…


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