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「落ちましたよ」


声に振り返ると、栞を片手に持った女性がこちらに歩いてくるところだった。ここの司書だろうか。しかし見かけない顔だ。もしかしたら新人なのかもしれない。歳も私と同じか、それ以下だ。まだ幼さの影が残る顔立ちをしている。
彼女が手に持っているのは、間違えようもなく私の栞。どうやら落としてしまったらしい。


「ありがとう」
「いえ、」


礼を言い、栞を受け取ろうと一歩踏み出した、その瞬間。


「……っ、…」


ひどい眩暈に襲われた。
きた。いつもの、眩暈だ。しかしいつもより強烈で、私は瞼を閉じる。
暗闇の中、何かが私に呼びかける。私のものではない名前で、しかし確かに私を呼んでいるのだ。




――…『落ちましたよ』


脳裏を過ぎるのはどこか懐かしい微笑みと、差し出された栞。本。揺れるカーテン。差し込む日差し。平和な光景。
そこで交わされる、誰かとの会話。
ああ…知っている。私はどうしようもなく知っている。この声も、景色も………




「……あ、の。…大丈夫、ですか?」


はっと目を見開く。
ここはどこだ。

顔を上げると、心配そうに覗き込む先程の女性の顔があった。どうやら、私がふらついて倒れそうになったところを支えてくれたようだ。


「…ああ、すまないね」
「わたしは平気です。…それより、まだ顔色が悪いです。ちょっと座って休んだほうがいいですよ」


もう大丈夫だから、と私が言うのも聞かずに(しかし不思議と嫌悪感はなかった)、彼女は本棚の脇に置かれた椅子に私を座らせるとパタパタとどこかに駆けていった。そのうち戻ってきそうな彼女を放ってその場を離れるわけにもいかず、私はぼんやりと本に溢れる空間を眺めていた。



自分が自分でなくなる瞬間を知っているだろうか。

例えるなら、そう、長い夢を見た後のような、記憶の海に沈んでゆく感覚だ。自分の中にある、誰かの記憶。それは昨日のことのようにも、遥か昔のことのようにも思える。そこの自分は、間違えようもなく自分自身であるけれど、自分とは決定的に違っている。

前世や、生まれ変わりというものを私はあまり信じていないのだけれど、ならば私の中にあるこの誰かの欠片をどう説明すればいいのだろう。


(…今回のデジャヴュはいつもより強かった…)


先程の場面をもう一度脳内で再生する。私が落とした栞を、彼女が拾ってくれた。それだけ。以前にもそんな事があったような気がする。しかし、その"以前"とは、いつだ?

(わからない)

わからない。わからない。胃の中でぐるぐると何かがとぐろを巻いているような気分だ。気持ちが悪い。頭が痛い。






「あの、お水です。どうぞ」


媚びるようないやらしさを一切含んでいない、透明な春の陽射しのような声だった。まだ会話という会話もしていなかったが、私はすぐに、それがさっきの彼女の声だとわかった。

差し出されたガラスのコップを受け取り、口に運ぶ。流れ込んできた冷水は、食道を経て胃に至る。それだけで随分と楽になった。そう礼を言うと、彼女はホッとしたように微笑んだ。

「よかったです。とても苦しそうでしたから」
「いつもはここまで酷くないんだが」
「いつも、なんですか」
「たまにだけれどね」
「……あっ、」


彼女は職員用のエプロンからなにやら取り出し、私に向かって差し出した。


「栞!危うく渡し忘れるところでした」
「ああ…私も忘れかけていたよ。ありがとう。」


今日はこの子にお礼ばかり言っている気がする。別に悪いことではないが、他人とあまり関わりをもたない私としては珍しいことだった。
彼女を見る。するとなぜか微妙にそわそわとした雰囲気である。なんだろう…何か、してしまっただろうか。


「…どうかしたかい」
「あ…、あの、」
「なんだい?」
「いえ、その…なんだか初対面の人にいきなりこんな風に話すのも、なんだか照れ臭いんですけど……、本が、お好きなんですか…?」
「ああ…」


好きか嫌いか、と言われれば好きだ。修業の息抜きにもなるし、著者達の言葉や理論は、ジャンルに関係なくどれも興味深い。元来私は思索を楽しむ傾向にあるから、本を読むのはとても楽しい、と思う。
そう伝えると彼女は嬉しそうに笑って、わたしも好きです、と答えた。その「好き」のベクトルは間違いなく本に向かっているはずなのに、なぜか私はどきりとしてしまう。我が事ながら馬鹿げている。


「その栞、」

と言って彼女は私の手の中で鈍い光を放つ栞を指差した。


「かなり使い込まれているから。きっと本が好きな人の栞なんだろうな、って。拾ったとき思ったんです」

それは違う、と私は思った。この栞は、ただ単に古いだけなのだ。いつからか、気づいた時には私の上着のポケットに入っていたもの。愛用していたわけではない。
薄い金属の栞を指で撫でながら、しかし私は彼女の言葉を訂正しなかった。彼女があまりに嬉しそうに笑うから、否定の言葉が出てこなかったのだ。

代わりに、私の口から零れて来たのは、どうしようもなく下らない文句だった。

「今度、お礼にお茶をおごらせてくれないかい?…いいコーヒーの店を知っているんだ。本でも読みながら」


……なんて下らない、ありふれた口説き文句だろう。確実に人生の汚点となったろうな、と思う。
彼女も拍子を抜かれたようにぽかんと私を見ていたが、ぷっと吹き出してまた笑った。


「意外と軟派な人なんですね」


でも、本にコーヒー垂らしたらタダじゃ済みませんよ。


これが、私と私の友人との出会いだ。



フレンド・フレンド
(Friend...or...?)












……


『落ちましたよ』


……



『本が、お好きなんですか?最近よくいらっしゃいますね』
『いや、そこまでではないが…。ここの図書館は素晴らしいな、と思って。』
『まあ、国で一番大きな図書館ですから。…でも意外です』
『何故?』
『あなたは、波導使いなのでしょう?この前、女王様がお話していた』
『そうだが…波導使いが本を読むのは、意外なことだろうか』
『ああ…いえ、失礼ですよね。でも、兵士の方達がここを訪れることなんて滅多にありませんから。ちょっと珍しくて』
『……君も、兵士が嫌いかい』
『なぜ、……。』
『いや、なんでもないんだ』
『もしかして読みました?わたしの波導』
『…すまない。ただ、視えやすいんだよ。そういう…負の感情というものは…』
『わたしが嫌いなのは兵士ではありませんよ』
『………』
『…わたしが嫌いなのは、この戦争です』
『…君は、…』
『わたし、孤児だったんです。両親とも、二十年前、隣国の空襲に巻き込まれて死にました。わたしが生まれて間もない頃だったので、二人の顔は覚えていません。その後孤児院に預けられたわたしは、まあいろいろあって貴族の友人に拾っていただき、ここにいさせてもらってるんですけどね。…戦争は、何も生み出しません。ただ無力な人々が失うだけです。……はぁ。なんだか変なの。初対面の人にこんな話するなんて』
『…すまない』
『……。優しい人なんですね、兵士なのに』
『私は波導使いだ』
『どちらもそう変わりませんよ。国に雇われて戦っているのでしょう?この国の場合は防衛と言ったほうがしっくりきますが。でも、何かを守るためには、何かを傷つけなくてはなりません。結局、どちらでも同じですよ』
『…君は厳しいな』
『友人の受け売りですけど』
『友人…』
『わたしを拾ってくれた貴族の次期頭首です。彼も今年の春、徴兵されました。じきにわたしも呼ばれるでしょう』
『君も?』
『恐らく諜報部隊か奇襲部隊でしょうね。女だから、何も知らない敵は殺すのを戸惑うでしょうし。相手の油断も誘えます』
『……そうか。君も兵士だったんだな』
『…結局は、同族嫌悪なんです。最悪ですね、わたし』
『君が戦わないですむ方法はないのか』
『今、国は深刻な人員不足におわれています。もともと武力の"ぶ"の字も知らない国でしたからね。使えるものなら、女子供だって使うでしょう』
『……もし、私がこの戦争を止めることができたら、そうしたら君は戦わなくて済むのだろうか』
『もしそんなことができたら、…ですけど』
『…そうか』
『戦争を終わらせることは、戦争を続けることよりずっと難しいですよ』
『わかっている』
『……あなたが何を考えているのかはわかりませんが、決して、ご自分を犠牲になさるようなことはないようにしてくださいね』
『…それはなぜ?』
『…、嫌、なんですよ。もうこれ以上、わたしの知っている人がいなくなるのが』
『…そこは"わたしの恋人"と言うところじゃないか』
『…はぁ?あなたばかですか?ばかでしょう!ばかなんですね!?いつわたしがあなたの、…こっ、恋人になんてなったんですか』
『おや、違ったかい』
『違いますよ!…ただ、あなたがいないと、ここが少し寂しくなるじゃないですか。それだけです』
『それは残念』





遠い日のカバリエの約束


(君が私を好きになってくれたら)
(世界を救ってやろうかな)


……

(これは誰の記憶ですか?)
2013/06/01


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