10000 | ナノ
 まるで、終わらなかった宿題を抱えて学校に通うような気分だった。

 天気は快晴、船からの眺めは最高のはずなのだけれど。南へと一直線に走る船は寄り道をする気配もない。わたしはデッキの上で憂鬱な溜息をこぼしていた。冬の潮風は冷たくて、頬を撫でていってもなんの慰めにもならない。寒い。当然デッキに出るような物好きはいない。ひとりぼっちだ。

 シンオウで図書館司書の仕事に就いて約一年。……ホウエンからの『帰ってこい』という催促を無視し続けて約一年。

 別に悪気があるわけじゃない。ただ、なんとなく会いたくなくて、話したくなかっただけだ。まだそれに足るように自分が成長してないというのもある。ただの力不足と言えるかもしれない。今回はマユミさんの仕事のお手伝いで仕方なく帰るのだ。多分、彼らに会うことはない。会いたい、と本当は思っている。しかし、まだ会うべきではないんじゃないかと心のどこかの臆病な自分がぶつぶつと呟く。
 言い訳をぐるぐる考える頭はどんどんマイナス思考に傾いていって、お腹の底がきゅっと緊張する。

「隣、いいかな」

 黒い海をじっとにらみつけていたから、その人が近づいてきたのに気づかなかったらしい。気づいていたら、近づかれる前にそっと離れていたのに。今は誰とも話したくない。話しても、まともな返事ができる気がしなかった。

「今日は一段と冷え込んでいて、いい天気だ」

 わたしが何か言う前に、その人は勝手に私の隣に肘をついて勝手に話し始めた。変な人だな、というのはなんとなく奇妙な格好から予想していたが、この一言で予想が確信に変わった。この人、変な人だ。

「私には夢がある」
「はぁ」
「それは、風を手に掴むかのごとき試練だ」
「はぁ…」
「それは、本当に気まぐれで思う通りにならず、一見勝ち目はない」
「はぁ…」

 女の人かな、と思って隣の人の表情をちらりと見ると、やっぱり情熱にあふれた表情をしていらっしゃる。女の人だな。

「勝ち目ないんだったら諦めた方がいいですよ」
「そう。諦めようか迷ったことは両手両足を足して千掛けても足らない。しかし私は、まだ夢を諦めていない。……君だってそうだろう」

 なんとなくドキリとして、わたしは思わず彼の瞳を見返した。誰かを彷彿とさせる水色の意志が籠もった瞳は、まっすぐにわたしを捉えていた。潮風が耳にあたって痛いのも忘れて、わたしはしばらくその目を見ていた。その人は、わたしの瞳になにかを確認したかのように満足げに頷き、「若者はそうでなくては」と偉そうに呟いた。わたしとそう年は変わらないように見えるが。

「……夢を見るってタダじゃあないんですよね。その過程でたくさんの人にお世話になって、お世話して、それで迷惑かけて、迷惑かけられて」
「ああ。私も大事な友人にいつも迷惑をかけている。だが、彼はよくしてくれる。君がうらやましいと笑ってな」
「いい友達ですね」
「友達とはそういうものじゃないか。そうだろ。会えばわかるよ」

 この人は、どこまで見越してわたしに話しかけてきたのだろう。変な人だなぁ。

「どこまでゆかれるんですか」
「私はクチバまでゆこうと思ってる」
「思ってるって…予定とか無いんですか」
「そんなもの、夢を叶えるためには不必要だ。本当にアレは気まぐれなんだ。そして北風みたいに厳しい」
「わたしの友達も厳しいです。強いし」
「なら、君も強くなればいい。そんなに難しい事じゃないさ。単純なこと」

 言いながら、その人は白い手袋を泳がせ胸元からトランプを取り出した。慣れた手さばきでそれを切ると、束をわたしに向かって差し出す。

「引いてくれ」

 わたしは一番上のカードを迷い無く引っこぬいてやった。裏返すと、スペードのキングがそっぽを向いていた。意味ありげに笑っている手品師にカードを渡せば、興味深そうにそれを眺めた後、また胸ポケットにトランプをしまってしまった。どうやら占いなどではなかったらしい。

「なんですか、今の」
「ちょっとした羅針盤だ。君と私のな」

 びゅうびゅうと風が吹いた。わたしはなんだか心もとなくて何か話そうとしたが、言葉が喉でつっかえてうまく出てこなかった。隣人も今度は黙っていたので、それで丁度よかったのかもしれない。北の黒い海は誰かをとがめるみたいに渦巻いていた。

「これから先」と、しばらくして隣人は口をひらいた。

「これから先、君を待っているのは夢ではなく厳しい現実だ。そこから目をそらしてはいけない」
「……はい」
「しかしね、だからこそ夢を忘れてはいけないと思う。夢は心の中にそっと咲かせるものだ。……人によってはなかなか芽がでてこないが、君はきっと違うだろう。きっと立派な花になる」
「そうなるよう、努力します」
「花はわがままだからちゃんと尽くさなくてはいけない。手入れをさぼったり、思わせぶりなことをしてその芽を腐らせてもいけない。世話をしたからといって必ず芽がでるわけでもない。人によっては世話をすることすら諦めている。そこに、種がないんだと諦めてな。だから私たちで見返してやろう。種なんかなくたって、芽はでるんだって。夢なんだから」


 クチバの港で、お互いに幸運をと手を振った。
 不思議な手品師はまるで誰かに言い聞かせるようにわたしに不思議な言葉を落としていった。わたしに向けての言葉でもあったけれど、自分のための言葉でもあって、そして誰かに伝えられなかった言葉なのだろうと思う。だからあの人は、ずっと夢を追いかけていたのだ。自分が夢を追いかけ続けていることを示すために。そして種があってもなくても、その芽は必ず心に芽生えると伝えるために。

 結局、わたしはマユミさんのお手伝いが終わってからミナモシティとトクサネシティに行った。何を期待したわけではなかったが、再会はなかった。二人とも花の世話で忙しいのだろう。今度電話が来たら何を話そうか。今回帰ってきたのは秘密にしておこうと思う。ミクリの拳骨はくらいたくないし、ダイゴがさびしそうにしてる顔も見たくない。やっぱり口うるさく催促されるくらいでいい。もう少し私の芽が大きくなったと思ったら、その時に会いに行こう。

 あの日から、北風の吹く日に不思議な夢をみるようになった。
 ふかふかの少し盛り上がった地面に、誰かが種を蒔く夢だ。その誰かの顔は起きてからだとどうも思い出せないが、なぜか確信があった。


 あなたの夢の芽が、いつか花を咲かせますように。



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消化遅刻どころではない。すみませんお待たせしました!
めめさんフリーリクエストありがとうございました!!

最後に、これを読んでくださったすべての人へ、
あなたの夢がいつか実り種をつけたとき、素敵な夢の種を蒔けますように!