05

   伊東から文を受け取った一週間後、花子は単身江戸に出てきた。ターミナルは混雑していて、どこが出口だかもよくわからない。やっとのことで人の波を泳ぎ切り、外に出た花子は ほうっと息を吐いた。田舎から出たことのない花子にとって、これだけの人がいる場所は、生まれてはじめてだった。しばし道の片隅で息を整えてから、文に同封されていた地図を片手に歩き出した。
   伊東の手紙にあったように、江戸の呉服屋には冬物の着物が並んでいた。田舎の銀杏並木がやっと盛りという頃なのに、なんだか可笑しな感じがする。すれ違う町娘たちは皆、鮮やかな色合いの着物を纏い、綺麗な簪を挿している。花子といえば、若草色の大人しい着物に、髪は纏めただけで、挿してある簪も赤いトンボ玉が先についているだけの、至極地味なものであった。花子は急に自分が恥ずかしくなった。これでも、お気に入りの一着を選んで、髪だっていつもより丁寧に纏めたのだ。江戸の娘たちの、なんてお洒落なことか。もし、鴨太郎に冴えない娘だなどと言われたら立ち直れる気がしない。
   実際、彼が花子にそんなことを言うはずもないのはわかっていたが、それとこれとは別である。回れ右をして帰りたくなるのをなんとか堪え、なんとなく惨めな心持ちで花子は歩いた。


   目的地には、たいして迷わずに辿り着いた。思っていたよりも大きな屋敷で、花子は門を見上げるようにして立ち竦んだ。武装警察 真選組屯所。仰々しく達筆で書かれたその看板に、花子はくじけそうだった。伊東が話を通してくれているらしいので、臆する必要はない、見張りの人に話して、通してもらえばいい。わかってはいたが、元来人の多いところは好きでないのだ。知らない人に話しかけるのはもっと嫌い。けれど早く何か言わないと、さっきから門で見張りをしている人たちが、訝しげにこちらを見ている。
   本当のところ、見張りたちは若い女性が屯所の前にいるのが珍しく、いささか邪な興味を持って花子を見ていたのだが、花子がそれを知る術はない。彼女が自身の美しさに無頓着であるのは、相変わらずであった。
   何か困ったことでもあるのかと、門番が気を回して花子に声をかけようとした時、ちょうど見回りから帰ってきた男が、後ろから花子に声をかけた。
「なにか用か」
   花子が振り向くと、眼光の鋭い隊士がこちらを見下ろしていた。その後ろで、栗色の髪の少年が、怠そうに構えてこちらを伺っている。
「あ、あの、すみません、私、伊東鴨太郎の知人なのですが、えっと」
   つい言い淀んでしまい、羞恥から花子は頬を赤くした。田舎娘とはいえ、これでも成人女性だろうか。鴨太郎なら堂々と胸を張り、必要なことをきちんとした言葉で伝えられるだろうに。自身が情けなくなる。
「伊東の?」
   花子が自己嫌悪に陥っていることなどは微塵も気づかずに、瞳孔の開いた目を少しだけ見開いて、その隊士は無愛想に頷いた。
「話は聞いている」
   顔を真っ赤にして説明しようとする花子を遮り、隊士はまた無愛想に名乗った。
「土方だ」
「俺は沖田でさあ」
「あっ、山田花子といいます」
   深々と頭を下げる花子を、土方は内心驚いて見つめた。伊東から、知人がくることは聞いていたが、こんな純真そうな女が来るとは思っていなかった。これが伊東の馴染みだというのだから、世の中やっぱり少しおかしい。
   沖田は「へえ」と呟いて、いつものように人の悪い笑みを浮かべた。
「姉さん、伊東先生の家族なんだって?」
   花子は沖田の言葉に、驚いたように目を丸くした。
「伊東先生に聞いたんでさあ」
「鴨太郎ちゃんが」
   伊東が自分のことを家族だと紹介していた。彼が自分のことをそう思っていたことが照れ臭く、また嬉しくもあった。
   頬を染めてはにかむ花子をじっと見つめ、沖田もわずかに口元を緩める。
「お姉さん、きれいですねィ」
「いえ、そんなことは」
「褒め言葉は、素直に受け取っておくもんでさァ」
   花子にとって、容姿を褒められるということはさほど珍しいことでもない。けれど沖田の言葉は素直に嬉しかった。彼の丸い目が誰かを慈しむように穏やかだったからか、それが何の打算も下心もなく、素直に口に出された言葉だったからかもしれない。
「ありがとうございます」
「俺は本当のことを言っただけでさァ。さ、伊東先生のところに案内しますぜィ」
   早くしないと、先生が待ちくたびれちまいますぜぃ。沖田はそう言って、花子の手を取ると軽やかに歩き出した。
「俺は案内してきますんで、ちゃんと仕事しとけよ土方」
「おめーが仕事しろ」
   土方は不機嫌そうに言って、ちらりと振り向いた花子に、無愛想な顔で小さく頭を下げた。


「あっちが平隊士の部屋、ちなみにその奥は俺の部屋でさァ」
   真選組屯所は思っていたよりもずっと大きかった。慣れたようにいくつもの廊下を渡り、あちらこちらと説明する沖田の言葉に耳を傾け、伊東との昔話などを話しながら、花子は沖田にわからぬよう、そっと息を吐いた。
   こんな大きな武家屋敷は、生まれて初めてだ。花子の家は、ごく普通の家であったし、田舎では名の知れた名家である伊東宅だって、ここまで大きくはない。
「そういや、お姉さん。聞いていやすかィ?」
「何をでしょうか?」
   首を傾げる花子をチラリと見やり、沖田は何気ない口調を装って続けた。
「伊東先生はこの前の捕り物で、ちっと怪我をしちまいやして。いまは療養中なんでさァ」
「ええ、それは聞いていますけれど……」
   わざわざ話題に出すほどひどい怪我なんだろうか。心配そうに眉尻を下げる花子に、沖田は笑って首を振る。
「そんなに心配することでもありやせん。ただちっとばかり驚くかもしれやせんが、先生は元気だし、本人もあまり気にしてやせんよ」
   実際に花子が見たら、心配することでもないなんてとんでもないと言いそうだった。が、まあいいだろうと沖田は適当にごまかす。かわいい幼馴染をおろおろしながら宥める伊東が見てみたいという気もした。
   それにしても、だ。沖田は隣を歩く花子を横目で見やる。けっして大柄とは言えない沖田と並んでも、花子は十分小さかった。姉上はここまで小柄ではなかったなと沖田は小さな頭を見下ろす。まさか、あの腹黒男の幼馴染が、こんなに綺麗な女だったとは。外見のことでなく、中身の話だ。世界の汚いところなどまるで知らない、穏やかな春の日差しのような女だ。これと同じところで育ったあの男は、どうしてあんなにも腹が黒いのか。世の中やっぱりどこかおかしい。
   そろそろ本当に案内しようかと、わざわざ通らなくてもいい廊下ばかりぐるぐると回っていた沖田は、伊東の部屋に足を向けた。本当はもう少し話していたかったのだが、流石にこれ以上は怪しまれるだろう。それには伊東が犯した過ちに通づる懸念も多少あったが、それよりも花子から伊東のことを聞いておきたいという気持ちが強かった。せっかくの機会なのだから、からかいの種くらい見つけておかないと勿体ない。
「ここですぜィ」
   足を止めると、花子がいくらか緊張した面持ちで沖田を見上げた。
「伊東先生、幼馴染さんのお着きでさァ」
   沖田が襖に声をかけると、中から入ってくれと伊東の声がした。花子がぎゅっと、胸の前で両手を握りしめる。聞いた話では伊東と同い年というから、自分より年上なのだろうが、その少女のような動作に沖田は気づかれぬよう ひっそりと笑った。
「じゃあ、俺はこれで」
「ありがとうございました」
   丁寧に深く頭を下げる花子に軽く手を振る。
「お姉さん、次に来たときは一緒に団子でも食いやしょう」
   そこに堅物な参謀なんかがいても面白いかもしれない。花子は柔らかく笑って頷いた。少しだけ姉に似ていた。


   懐かしい声が聞こえ、それだけで胸がいっぱいになるのと同時に、心臓が痛いほど騒ぎ立てる。深呼吸を三回して、花子はようやく襖に手をかけた。そろそろと引くと、鴨太郎が笑った。
「怯えることないじゃないか」
「怯えてないよ。緊張しているの」
「どっちでもいいさ。はやくお入り」
   懐かしく、優しい声に励まされ、花子は残り半分を一息に引いた。
   部屋は鴨太郎らしく、きちんとまとめられていて、その中でも品の良さが伺えた。端の揃えられた書類の束に、書物は趣味のいい、綺麗な浅葱色に染められた麻糸で、きっちりと括られている。その部屋の中心に鴨太郎はいた。布団の上に体を起こし、じっと花子を見つめている。
   どちらとも、暫く無言だった。無言でお互いを見つめていた。花子も鴨太郎も、互いに会ったら何を話そうか、ずっと考えてきたというのに。
やがて、口を開いた。鴨太郎だ。
「花子」
   その声に、花子は駆け出した。はじめの緊張はどこへやら、鴨太郎の傍に膝をついて、両腕で精一杯彼を抱きしめる。鴨太郎も、花子の背に腕を回した。
「鴨太郎ちゃん」
   会いたかったのよ、ずうっと。そう震えた声で告げる花子の背を、鴨太郎は優しく摩る。
「僕も、君に会いたかった」
   花子は泣きながら笑って顔を上げた。しかし、すぐにその目が見開かれる。
「鴨太郎ちゃん、腕が」
「ああ。いいんだ、そんなことは」
   それより、と鴨太郎は優しく花子を見つめた。自身の片腕がないことについて、言いたくないというよりは本当に気にしていないようだった。
「婚約したんだって? おめでとう」
   鴨太郎の目が、花子の左手に注がれる。細い薬指には、小さな銀色の輪が控えめに光っていた。
「ええ。でも、誰に聞いたの?」
   困惑気味に花子が尋ねる。彼女にしてみればそんなことより、鴨太郎の怪我のほうが一大事なのだが、鴨太郎は嬉しそうに目を細めるばかりで、花子の心配など全く気づいていない様子だ。
「君に手紙を出したとき、一緒に兄上にも出したんだ。その返事が昨日届いてね」
   懐から、鴨太郎は一通の手紙を取り出す。そこには美しい筆跡で「親愛なる弟へ」と書かれていた。鷹久の字だ。
「兄上と君が結婚するなんて、本当に嬉しいよ。兄上なら かならず君を幸せにできるだろうし、君は兄上を支えることができる。ああ、そういえば、君たちは本当に昔から仲がよかったね」
「あら、でも鴨太郎ちゃんとのほうがよく一緒に遊んでいたわ」
「そうだった」
   懐かしそうに鴨太郎は目を伏せた。広い空に、花の咲き誇る峠。元気に駆けていく、黒い髪の女の子。
「まあ何であれ、僕が沖田くんに言ったことも、あながち間違えではないわけだ」
  鴨太郎は笑って花子の手をとった。そこに、かつて何かを掴もうと焦燥に駆られていた少年の面影はない。花子はじっと鴨太郎を見つめた。鷹久によく似ているその顔は、記憶の中の彼よりずっと逞しく、穏やかだった。花子が憧れた、強く誇り高く、優しい少年が帰ってきたのだ。おかえりなさい、鴨太郎ちゃん。小さく呟いて、花子は花の綻ぶように笑った。
「君にも兄上にも、話したいことがたくさんあるんだ。けれど、焦る必要はないね。だって僕たちは家族になるのだから」
   幸せな光を纏って、鴨太郎が笑う。


2012/10/03
ありがとうございました。



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