02

   この頃、鷹久の体調が良くない。いつも床に臥せっているため、鴨太郎はともかく、花子は鷹久に会わせてもらえなかった。どんなに仲がよくとも、具合が悪いときにまで会わせてはもらえない。落ち込む花子を、鴨太郎はいつも慰めてやった。
   その鴨太郎も、剣の稽古が忙しいと言って、近頃はなかなか遊んでくれなくなった。だからといって、ふたりとばかり遊んでいる花子を変人扱いしている少女たちに、仲間に入れてくれと言う気もなく、花子は家に籠って、不貞腐れていた。


   その日、花子は散歩に出ていた。出掛けに家の団子をいくつか頂戴し、頬張りながら歩いていく。その内に、花子は思いついた。
   そうだ、これを鴨太郎に届けてやろう、いまは道場で稽古をしているだろうから、稽古が終わるまで待って、終わったら一緒に河原へ行って食べよう。
   我ながらいいことを思いついたと満足し、しかし花子は道場へ向かう前に、一度家に戻った。鷹久への見舞いの分も、持っていこうと思ったのである。裏口から、するりと家へ入ると、両親は店に出ており、兄と弟もどこかへ行っていた。好都合だと、花子は戸棚から三人分の団子を取りだし、お気に入りのハンカチで包むと、意気揚々と道場へ向かった。


   道場に着くと、丁度稽古が終わったところらしかった。家路につく門下生の間をすり抜け、花子は遠慮がちに道場の中を覗く。ちらほらと、居残り練習をする生徒たちがいたが、そこに鴨太郎の姿はなかった。もう帰ってしまったのだろうかと肩を落としたとき、道場の角から、よく見知った顔が飛び出した。
「姉さん?」
   見知らぬ人の多い道場にやって来たことと、鴨太郎のいないことに落胆していた花子は、弟の顔を見ると、曇っていた表情をぱっと華やがせた。しかし、弟の方は花子を見るや否や、顔を引きつらせ、冷や汗まで掻いている。
   顔色の悪い弟を見て、花子は心配そうに弟に近寄った。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもないんだ」
「でも、顔色が」
 「なんでもないったら」
   しきりに心配する花子を、弟は頑なに拒否した。道場の角を曲がったところに何かあるのだろうかと、覗き込もうとする花子を両手で突っぱねる。はじめは心配していた花子も、だんだんと意固地になって、終いには弟の両手を潜り抜け、するりと道場の角に回り込んだ。
   そこには、数人の子供たちがいた。中には、竹刀を握っている子もいる。その中心で、鴨太郎が蹲ったまま、目を見開いて花子を見ていた。花子もまた、呆然と鴨太郎を見つめる。
「な、なにを……」
   しているのかと。訊こうとしたが、花子の声は震えていて、それ以上は言葉にならなかった。鴨太郎を囲んでいる子供たちの中には、兄の姿もあった。兄は、ばつの悪そうな顔でひとつ舌打ちをすると、黙って花子の横を過ぎ、花子をちらりとも見ようとしなかった。弟が、慌ててその後についていく。ふたりにつられるように、他の子供たちも花子を一瞥し、何を言うわけでもなくその場を後にした。花子と鴨太郎だけが、身に染みるような沈黙のなか、取り残された。
   花子はショックだった。花子は兄弟と仲がよく、たまに喧嘩はするものの、本気でお互いを傷つけたことなど、一度もなかった。いつもなにかと花子の世話を焼いてくれる優しい兄がこんなことをしていたことも、花子に一言も弁解せず去ってしまったことも、また花子によくなついている弟が、自分の知らぬところで、兄と共に友人を傷つけていたことも、すべてが悲しかったし、悔しかったし、恐ろしかった。
   花子はふらつきながら鴨太郎の傍に行き、ぺたりとその場に座り込んだ。鴨太郎は蹲っていた上体を起こし、近くに投げ出された眼鏡をかけた。レンズには僅かなヒビが入っていたが、鴨太郎は花子の前では眉ひとつしかめることはしなかった。今度はどんな言い訳をしようかと、眼鏡を割ったことに怒るだろう母への文句をぼんやりと考えながら、鴨太郎は努めて優しく花子へ声をかけた。
「道場に来るなんて、珍しいじゃないか。きみは、人の多いところが苦手だろう。なにかあったのか?」
   しかし花子には、鴨太郎のように平静を装う余裕などなかった。女の子というものは、男の子より遥かに暴力沙汰に疎い。ましてや花子は、鴨太郎が多くの子供たちに疎まれているのは知っていたものの、誰かに暴力をふるわれているところなど、初めて見た。
   鴨太郎は、花子のそんな世間知らずなところもよく知っていたため、花子が受けた衝撃の大きさも、大方予想がついた。無理に言葉を促そうとはせず、黙って花子が落ち着くのを待つ。花子は何度か、息を吸って吐いてを繰り返すと、唇を震わせ、か細い声で謝った。
「……ごめんなさい」
「なにを謝っているんだ。きみは何も悪いことはしていないだろう」
「でも、」
「いいんだ」
   なおも謝ろうとする花子の声を、鴨太郎は些か乱暴に遮った。
「きみが謝ることは、何もない」
   花子は思った。この、優しく強い友人を傷つけるものはすべて、いなくなってしまえばいいのに。


   それからふたりは河原へ行き、並んで団子を頬張った。鷹久の分を鴨太郎に渡すと、鴨太郎は礼を言って、大切そうに懐にしまった。
   鴨太郎の顔には、小さな擦り傷やら切り傷がたくさんついていて、花子はそれをひとつひとつ、自身のハンカチで拭ってやった。その事に礼を言い、鴨太郎は花子に貰った団子を頬張る。伊東家は比較的裕福なのだが、鷹久の治療代のため、菓子などの嗜好品は稀にしか買って貰ったことがない。だから、団子を食べるのは暫くぶりなのだが、今現在食している団子は甘いだけで、少しも旨いと感じなかった。それは花子も同じなようで、団子を小さく噛み千切り、小さな声で言う。
「おいしくないね」
「そんなことはない」
   鴨太郎はとっさに嘘をついた。団子が口内の水分を奪ったせいで無償に茶が飲みたかったが、そんなことは一切顔に出さず、鴨太郎は残りの団子を一気に食べた。
「おいしいよ」
   事実、いつもなら旨く感じるはずなのだ。鴨太郎は、花子と鷹久と、共に団子を食べるのが好きだった。花子は団子を食べるときはいつだって笑顔だったし、それは鴨太郎も鷹久も同じであった。とにかく、三人で食べる団子は格段に旨いのだ。
「ごめんね」
   花子がまた、ぽつりと謝った。先程から鴨太郎を見ようともせず、じっと自身の膝ばかりを見つめている。
   鴨太郎は腹が立った。花子が謝る度に、苛々と胸の内が波風立つように落ち着かない。
   鴨太郎は、元より自尊心の高い子供であった。それが、仲のいい少女にあんな情けない姿を見られ、その上謝られ続けているのだ。鴨太郎は、花子に謝られる度に、自分が情けない奴のように感じた。それが、我慢ならなかった。
「謝るな」
   思ったより強い声が出た。花子がぱっと顔をあげる。自分を見ているふたつの目を感じながら、今度は鴨太郎が花子を見なかった。
「どこにだって、ああいうつまらない人間はいるものだ」
   人の才能を羨み妬み、ひとりでは立ち向かう勇気もないから、群れを作る。つまらぬ人間だ。事実、あの少年たちはそうであったし、それを知っているからこそ、鴨太郎は抵抗しなかった。理不尽に降ってくる暴力を、鴨太郎は感受しながら、心の内では嘲笑っていた。
   馬鹿なやつらだ。そんなに、この僕が羨ましいのかと。
「鴨太郎ちゃんは、悲しくないの?」
   花子が、そっと訊いた。悲しそうだった。鴨太郎は、直ぐ様それに答える。
「ああ。悲しくなんて、ないね」
   嘘だった。けれども鴨太郎は、それが自分の本心だと、信じて疑わなかった。それほど彼は、自身にその嘘を吐き続けていた。
「江戸に行くんだ」
   鴨太郎は唐突に言い、やっと花子を見た。あまりに唐突だったからか、言葉の意味を飲み込めず、花子はぽかんと口を開けている。それが面白くて、鴨太郎は笑いながら、その目尻に溜まった滴を、指で拭ってやった。
「道場の先生が、許しをくれた。僕は江戸に行く。江戸で、僕を認めさせてやるんだ」
   鴨太郎の目には、ある種の灯が灯っていた。野望ともつかぬ、悲願ともつかぬ、けれどもそれに酷似していた。その灯が鴨太郎の目を爛々と輝かせているのを見て、花子は不意に怖くなった。
「私もつれていって」
   そう言ったのは反射で、鴨太郎だけではなく花子も僅かながら驚いた。けれど、これが自分の本心なのだ。花子は身を乗り出して、鴨太郎を見つめた。
「私も、つれていって」
   鴨太郎は、突拍子もない花子の言葉にしばし目を丸くしていたが、やがて優しく笑って、首を横に振った。
「だめだよ。連れていけない」
「どうして」
「花子を連れていったら、兄上がひとりになってしまうじゃないか」
   だったら、鴨太郎はひとりになってもいいのか。花子はそう言いたかった。故郷を離れ、友を置き去りに、彼は何を望んでいるのだろう。
   本心を晒してしまえば、鴨太郎は花子についてきてほしかった。そして、それが不可能だということもわかっていた。だから、花子の言葉が嬉しかったし、彼の意欲をいっそう掻き立てた。
   花子はいつだって、鴨太郎のことを考えていてくれるのだ。
「花子はここにいてくれ。いつか、迎えに来るから。そしたら兄上と3人で、また遊ぼう」
「いつかって、いつ?」
「大人になったらだよ」
   いまにも涙を溢しそうなほど、瞳を潤ませた花子を元気付けるように、鴨太郎は優しく笑って言い聞かせた。包んだ掌は、自分のものより一回りも小さく、柔らかかった。
   花子はそれ以上、つれていってくれと駄々をこねはしなかった。ただ、滴の溜まった瞳を、ぱちぱちと瞬かせ、小さな声で、大好きだよと言った。鴨太郎は、ありがとうと返した。


 いつの間にか、日は沈みかけていて、ふたりは赤い光に包まれていた。あたたかい。晴れた五月の夕方は、空気も澄んで、とても気持ちのいいものだった。
「花子、帰ろう」
   鴨太郎に手を引かれ、花子は立ち上がった。ふたりは手をつないだまま、家路につく。
   何も話さなかった。話したいとは思わなかったし、ただ黙ってお互いの掌を感じていたかった。
   ふと、鴨太郎は河原を振り返った。夕日に赤く染まった川の水面が、きらきらと眩しい。
   鴨太郎は、自身の故郷が好きだった。しかし、もう自分が帰ってこないだろうことも知っていた。いつか母に言われた言葉が棘となり、鴨太郎の胸を刺す。傷口が段々と膿んできているのを感じながらも、鴨太郎はそれを放っておいた。
   美しい故郷だ。けれどもう、帰ってこない。あと一週間もすれば、自分はここを離れるのだ。
「鴨太郎ちゃん」
   足を止めた鴨太郎を、花子が呼んだ。鴨太郎はゆっくりと振り返り、なんでもないんだ、と花子に笑う。
「花子」
「なあに?」
「迎えに来るよ」
   自分はもう帰ってこない。だったら、どうやって花子を迎えにこようか。
   鴨太郎は、考えるのをやめた。なにも、答えは今出さなくてもいいのだ。時間は気の遠くなるほどあったし、彼らには大きな未来が待っていた。焦る必要はない。自分に言い聞かせるように、鴨太郎は呟いた。
「約束だ」
   今はただ、この掌を握っていられるだけで幸せなのだから。


2011/12/11



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