01

   故郷で、伊東鴨太郎の名を知らぬ者はいない。それほど彼は優秀だった。勤勉であったし、才能があった。
   それらが引き寄せるのは、なにもいい感情ばかりではない。妬みや嫉妬は、いつの世にも存在する。ときに寺子屋の子供から、ときに同門の門下生から、その粗悪な感情をぶつけられる鴨太郎を、花子はいつも遠くから眺めていた。
   花子の家は、村で唯一の茶屋で、花子には兄と弟が一人ずついた。そのどちらも、他の子供たち同様、鴨太郎に対してよい感情を持ってはいなかったが、花子は鴨太郎を好ましく思っていた。
   花子は、この世に生きる人間の大半より美しい容姿を持っていた。艶やかな髪は、まるで絹のようだと、美しい瞳は、ガラス細工のようだと言われて育った。しかし花子は、己の容姿に魅力を感じたことはなく、長いだけで真っ黒い髪はつまらぬと、いつも思っていたし、目だって黒目が大きく、人形みたいで味気ないと常日頃から感じていた。
   そんな花子であったから、幸運にも世の美人が皆持ち合わせているような傲慢を待つことはなかったが、かわりにある種の劣等感である恥じらいを持ちすぎていた。人前に出ることを好まず、けれども美しい少女。花子を追う視線は、どれも好色を纏ったもので、そんな不躾な視線を向けなかったのは、鴨太郎だけであった。自身に劣等感を持つ花子が、唯一コンプレックスを感じさせない鴨太郎に気を惹かれるのはあたり前のことで、また、恥じらいのせいで、鴨太郎に話しかけることなど、叶うはずもないのも、あたりまえであった。
   そんな花子と鴨太郎を結んだのは、鴨太郎の兄で、名を伊東鷹久という。
   病弱な鷹久は、花子と理由は違えど、人前に出る機会は少ない。元来穏やかで人の気持ちを汲み取ることに長けていた鷹久は、花子が弟と話したがっていることを知り、わざわざ弟を引き合わせてやった。鷹久と仲のよい鴨太郎が、兄と仲のよい少女に悪い感情を抱くはずもなく。遠出のできない鷹久を気遣い、三人はいつも伊東家の庭で遊んでいた。


   ある日のことだった。その日は、鷹久の体調が優れないとのことで、花子と鴨太郎は、村から少し離れた峠に来ていた。峠で花を摘み、鷹久に届けてやろうというのである。峠への道は、子供にはいささか急な登り坂で、鴨太郎は途中で何度も花子を助けてやった。
   やっとのことで峠に登りきると、ふたりは同時に、ばたりと草の上へ倒れた。どちらも汗をかいていて、前髪は額に張りついているし、頬は真っ赤だ。寝転んだまま、隣に倒れる互いを見る。最初に笑いだしたのは花子で、それがあまりによく響くものだから、鴨太郎もつい笑ってしまった。これがあの、恥ずかしがりやの花子かと。事実、このときの花子は、恥じらいなんて持っているのかというほどよく笑ったし、鷹久と鴨太郎の前では、花子はいつでも楽しそうに笑ってみせたのだ。
「鴨太郎ちゃん、早くお花を摘んで、鷹久のところに帰ろう」
「ああ」
   言うなり、花子はばっと上体を起こすと、そのまま夢中に峠を駆け回った。恥ずかしがりやの女の子とは、思えないほどのお転婆ぶりである。
   自身の名に、ちゃん付けされるのを、鴨太郎は嫌っていた。そんなことは、正月と葬式にだけ会いに来る、親戚連中のやることだと思っている。しかし、花子はなんの躊躇いもなく、鴨太郎ちゃんと呼んだ。一時はそれが嫌でたまらず、鷹久に相談したこともあったのだが、鷹久は、なんてことはない、そう言って朗らかに笑った。
「たしかに鴨は、そう言われるのが嫌かもしれないけど、花子にとって、それは愛情表現なんだよ」
「愛情表現?」
「女の子なんて、そんなものさ」
   なるほど。鷹久に言われると、自然とそう思えるから不思議だ。考えてみると、花子がちゃんを付けて呼ぶのは自分だけであるし、特別扱いだと思えば、悪い気はしない。そう思えるほどには、鴨太郎は花子に好意を持っていたし、村にいる他の、いつも手を繋いで行動しているような少女たちに比べて、大変好ましいと思っていた。


   鴨太郎は、しばらく駆け回る花子を見つめていたが、やがて自分も立ち上がり、花子と共に峠を駆け回り始めた。
   普段、他の子供たちと関わり合うことの少ない鴨太郎は、そのせいであろうか、年よりも幾分か大人びた振る舞いだった。そのことを本人も自覚していたし、また、そうあろうと努力をしていた。それが、他の子供たちの鼻についているのだと薄々理解はしていたが、鴨太郎は背伸びをやめようとはしなかったし、そうしようと思ったこともなかった。しかし、花子と鷹久と遊び回っているときだけは、鴨太郎は己の自尊心や虚栄心などから解放され、自由に振る舞うことができた。2人は、自分が大人びていなくても、ちっとも気にしない。2人は、村で神童と呼ばれている少年ではなく、伊藤鴨太郎の友人だ。花子も鷹久も、友人であり、家族だ。
   ふと、鴨太郎の前を走っていた花子は立ち止まった。
   振り向いたときに靡いた黒髪だとか、柔らかく細められた瞳だとかが眩しくて、鴨太郎の目は、くらりと眩んだ。
「鴨太郎ちゃん」
   花子が笑う。
   ああなんて幸せなんだろうと鴨太郎は思った。


2011/12/11




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