5.3


もし汝の兄弟罪を犯すさば、これを戒めよ。もし悔い改なば之をゆるせ
 ――イエス=キリスト


「三人ともやめてくれ。今更何を言われても私は動じないが、ケンカなら外でしてくれ」

 最も怪しいのは夜神粧裕。そう言われて竜崎をどつき、椅子から落とした花子と、床に転がった竜崎が喧嘩を始め、月が慌てて仲裁に入る。騒ぐ三人を咎めた総一郎が、疲れた声で言うのを聞き、花子は渋々、竜崎の胸倉から手を放した。彼女が距離を取るのを注意深く観察し、竜崎も蹴り上げようと構えていた足をゆっくりと下ろす。

「どうしたんだよ、花子……らしくないぞ」

 休戦状態に入った二人に、月も大きく息を吐いた。苛立ちを含めて妹を睨む。花子はばつが悪そうに、兄から顔を逸らした。

「おまえ、殴り合いなんてしたことあったのか?」
「……ないけど、やり方は……まあ、殴るだけだし」
「僕ともやったことないじゃないか」
「うん」

 倒れた椅子を起こし、三つの椅子を神経質に並べながら、花子は横目で、嫌そうに竜崎を見遣った。

「……嫌いなんだ、そいつ」
「おかしいですね。会うのは今日が初めてだと思ったのですが」

 花子が並べた椅子に、竜崎は軽やかに飛び乗った。その衝撃で、ぴっちりと並んだ椅子が乱れる。花子が眉を逆立てるのを、竜崎は無表情ながら、挑戦的に見上げた。親指を噛む。

「それとも何か、私を嫌う理由があ」
「靴下を履かないような奴は嫌いだ。シャツも染みだらけ。爪の間にゴミも詰まってるし、髪もボサボサ。不潔。汚い。隣に座るのだって本当は我慢がならない」
「……」

 総一郎と月は、顔を見合わせ、同時に竜崎に視線を向けた。花子が言うほど酷い状態だとは思わない……が、彼らの家は身なりを整えることが普通であるし、神経質な花子が文句を言うのもわからなくはなかった。

「嫌いだから殴るとは実に暴力的で、愚かな論理です。私があなたにとって適切な格好をしていないことは理解しましたが、それはあなたの価値観であって、他人に強要すべきものではありません。自分の価値観に合わないからと殴りかかるのは、暴君です」
「椅子を蹴りはしたけど、まだ殴ってはいない。女に胸倉を掴まれただけで、ずいぶん五月蝿いね。言わせて貰えば、父を倒れるまで働かせたあんたに好意的な態度なんて取れるわけがない。加えて、さっき母さんの前で無駄に恐怖を煽るようなことを言った上に、Lだと名乗っていない……捜査対象ではないと言ったはずの粧裕を怪しいと言い出す、こちらに対して不必要にストレスをかけるようなことを言ったあんたに非がないと言うのなら、その厚顔無恥さを恥じて、Lだろうがそうじゃなかろうが、あんたは人前に顔を出さないほうがいい」
「言い過ぎだ、花子」

 第二ラウンドに突入しかねない二人に、割り込むように月が真ん中に並んだ椅子に座った。月を挟んで睨み合う花子と竜崎、困ったように眉を下げる月。子どもたちを眺め、総一郎はふっと目つきを和らげた。

「キラは悪だ、それは事実だ……。しかし最近、私はこう思うようにもなっている……」

 総一郎の声に、竜崎と月が彼に向き直った。喧嘩相手を失った花子もまた、最後に竜崎を一睨みすると、大人しく椅子に座り直した。

 総一郎は、その皺の一本一本に厳しさと疲労を滲ませていた。声は掠れて頼りない。無理もない、彼がどれだけの重荷を背負っているのか、ここにそれを知らない人間はいない。しかし、それでも彼の声にはブレがない。肉体が追い詰められようとも、強い覚悟に揺るぎはなかった。覚悟とは、すなわち正義。これまで彼がしっかりと握りしめてきたもの。それを阻むものが現れようともけっして曲げず、信じ続けてきたもの。

「悪いのは、人を殺せる能力だ」
「……」
「そんな能力を持ってしまった人間は不幸だ。どんな使い方をしても、人を殺した上での幸せなど、真の幸せであるはずがない」
「夜神さんの言う通りです。もしキラが普通の人間で、その能力を手に入れたのなら、まったく不幸な人間です」

 花子はそっと、目を伏せた。
 花子は、そう思わない。
 何が幸せかは、当人にしかわからない。
 殺すことが本当の幸せに必要ではないと、殺したことのない人間が、どうして言い切れる。

 花子から見て、いや、誰から見ても、総一郎は正しい人間だ。幼い頃から、花子はそれをちゃんとわかっていた。そして、きっと自分は、そうはなれないのだろうと言うことも理解していた。しかし、月は違う。父に憧れ、父を追った月は、いつも正しいことを選んでいた。人には優しく、意地の悪いことをしてはいけない、正直でなくてはいけない、公平でなくてはいけない。
 息苦しいと思ってしまう。花子にとって、彼らの正義は美しく憧れこそすれ、けっして心地の良いものではなかった。整いすぎているのだ。彼らの正義を遵守することは、普通の人間には難しい。それが彼らにはわからない。彼らにとって正しいことを選ぶのは、難しいことではないから。いつだって、息をする様に、正しいものを選ぶことができるから。
 花子にはそれができない。
 生まれた時から、今も、ずっと間違い続けている。

「さすが、お父さんだね。……その通りだと、私も思うよ」

 花子は兄とともに父を激励し、尊敬する言葉を口にしながら、両の手を強く握りしめた。膝の上で、力が入りすぎたために血の気を失った細い指に、気がつく者はいない。
 竜崎さえいなければ、花子は総一郎の言葉を受け入れなかったかもしれなかった。言い返していたかもしれなかった。己の手ではなく、兄の手を握りしめながら。

 間違うことは、不幸なのだろうか? 正解であることが常に正解なのだと、一体誰が決めたのだろう?

 総一郎や月が正解を選び続けるその横で、花子は正しいことを、選ぶことができなかった。選ぶことが、最初から許されていなかったと言ってもいい。
 だから彼女は、間違い続けることを選んだ。

 いまとなってはもう、それを不幸だとは思わない。兄の罪を確信したあの日、花子はこれこそが天命であり、己の使命なのだと信じた。間違うことは正解だった。たとえ世界中の人間に石を投げられようと、己が選んだ道を悔いることはないと、彼女は確信していた。
 けれど。
 花子は思い返す。これまでの兄を。

 月は美しい子どもだった。生まれてからずっと、彼は正しくあり続けた。
 いまだって、そうなのだ。彼は正しくあろうとしている。
 自らの罪を認めるのではなく、自らの罪に世界を合わせることで、正しいことを選び続けられる人間だと、思おうとしている。

 それが途方もない罪であることは、花子とて十分理解していた。しかし、どうして兄を責められるだろう。
 月は正しいことしか知らない。間違っていることはすべて、花子が持っていってしまったから。正しくないことを選ぶことも、それを許されることも、彼は知らないのだ。知らないまま、大人になろうとしているのだ。だから、罪人を殺すのだ。己の間違いを、正しいことに変えるために。
 これは、月の罪なのだろうか。それとも、月と共に生きてきた人間たちの罪なのだろうか。

 花子は誰にも知られぬように、そうっと横目で月を伺った。兄の横顔は、きれいだった。自分が罪を犯すことなど、考えたことがないかのように。

 花子にとって、間違うことは苦痛でなく、不幸でもない。けれど、月にとって、間違うことこそが苦痛であり、不幸だと言うのなら、月が選んだことがすべて、正解になればいいと思う。
 月がこの先何をしようと、花子だけは月を許す。彼女がキラを告発することはあり得ない。兄の安寧のためならば、どれだけの人間が、どれほど惨い目に合おうと、知ったことではなかった。彼が、彼自身を肯定し続けられるのならば、それでいい。許されてほしかった。罪はすべて、私がもらえばいいのだから。


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