5.楽園に嘘つきはいない


おれのそばにいるのは、ふとった男だけにしてほしい、髪はきちんとなでつけ、夜はよく眠るような男だけに
あのキャシアスはやせて飢えた顔つきをしている、あの男は考えすぎる、ああいう男は危険だ
 ――ジュリアス=シーザー 第一幕第二場


 春。リビングには新しく、真新しいスーツに身を包んだ二人を真ん中に、東応大学の正門で、家族が並んでいる写真が飾られている。
 受験戦争を乗り越え、月と花子は晴れて大学生となった。月だけでなく、花子も無事に合格したことを大袈裟に喜ぶ母親に、花子は半眼になった。「私だって、頭が悪いわけではないんだけど」無論、全教科満点というとんでもない記録を叩き出した月に遠く及ばないことは自覚している。

 全教科満点、というと。講義室の後ろの席で一人、花子は講義を受けていた。まばらに埋まった席に座った背中は、多くが眠るように丸まっているか、もしくは隣人とのお喋りに夢中になっているようだった。しゃがれた一本調子に混ざる、密やかな話声。午後一番の授業だ。小春日和と言うにふさわしい陽気もまた、眠気を誘う。心地よい微睡に身を預ける生徒の群れの中、花子は神経質に背筋を伸ばして座っていた。教授の言葉を所々書き留めながら、左の指で下唇を弄る。

 先日の入学式で、月が新入生代表の挨拶をすることを、花子はあらかじめ聞いていた。もう一人、新入生代表がいるということも、月から聞いた。「あれって、成績が良かった人がするんじゃないの?」首を傾げる花子に、月が首肯する。「だろうね」「全教科満点なんて化け物が、私の兄貴以外に存在する?」「それ、僕を化け物って言ってるのと同じだぞ」
 花子は入学式で月と並び立った人物を思い返した。名前は流河早樹――この時期に、夜神月に近づく、有名アイドルと同姓同名の、流河早樹。これを疑わないのなら、一体この世の何を疑えるというのか。

 相変わらず人付き合いの悪い花子は噂話を耳にした程度だが、入学式を済ませて以来、月と流河はそこそこ上手く付き合っているらしい。今朝、月がテニスウェアとラケットを引っ張り出していたのも、流河の誘いによるものだそうだ。月の腕前を知っている花子は、どうするんだか、と他人事のように考えた。ちなみに、花子はテニスと卓球が滅茶苦茶下手くそだ。

 自分はいま、どれくらい疑われているのだろう。流河早樹は毎日のように月に付きまとっているようだが、奴から花子への接触は、今のところない。月への疑いが大きいのは確かだろう。しかし花子への疑念だってゼロではないはずだ。
悪夢を見て起きた夜、花子はわざとキラ信者に捉えられそうな話をした。それには二重の意味がある。月の油断を誘うことと、警察側に疑いを持たれること。月ならともかく、まさか花子が監視に感づいていたとは誰一人思いもよらないに違いない。あれを聞いていたとしたら、素直に花子がキラ側の考えを持っていると思うだろう。

 隣に人が座る気配がした。もう講義も終盤だ。一体誰が、と目を上げようとしたところで、隣に座る人物の足が視界に入った。……足? 花子は顔を顰めた。どうして足が椅子の上にある?

「夜神花子さんですね」

 顔を上げる。横に座った男は講義資料どころか筆記用具の類も持たず、じっと花子を見つめていた。覗き込むように己を見つめる顔があまりに近く、花子はぎょっと大きく身を引いた。後ろ手に付いた手が大きな音を立て、前に座った数人が振り返る。「ああ、すみません」隣に座った男は、悪びれもせず、飄々と頭を掻いた。

「驚かせてしまいましたか」
「いや……」

 暴れ狂う心臓を抑え、花子はどうにか冷静な態度を繕った。どっと噴き出した汗が、背中を冷やす。震えそうになる手を押し留め、彼女は椅子に座り直すと、視界から男を締め出すように顔を伏せた。男は花子の態度も意に返さず、より身を乗り出して、花子を覗き込まんとする。

 非常に、とても、奇妙な男だ。ぼさぼさの黒髪、洗い晒しのカットソーには、紅茶を溢したような薄い染みが、模様のように散らばっている。薄い唇に血の気はなく、まるでパンダのような酷い隈と相待って、もはや死人のようでさえあった。両手とも、親指の爪だけが極端に短い。噛み癖でもあるのだろうか。彼は椅子の上に足を上げ、膝を胸に抱え込むようにして座っていた。履き潰したスニーカーを浅く突っ掛けた足は裸足である。その指がこれまた奇妙に長く、モゾモゾと動いているのが目の端に映り、花子は悲鳴を噛み殺した。身の毛がよだつ、とはこういうことを言うのだろう。気持ち悪い。ただ純粋に気持ち悪い。
 流河早樹。……L。

「はじめまして。私は流河早樹という者です。警察庁夜神総一郎局長の娘さんであり、夜神月くんの双子の妹である夜神花子さん……でお間違い無いですね?」

 会話に応じる気はなかった。いくつかシュミレートはしていたものの、この不意打ちに耐え得るだけの器量は花子にない。一度戦慄いた心臓を落ち着かせるのは容易でなく、彼女はただひたすら、流河から逃れようと俯いた。机の下で、汗ばんだ掌を握り込む。そんな花子を、流河はじっとりと見つめている。

「人違いでしたか? 間違うはずがないのですが」
「……」
「ずいぶん青い顔をしていますね。ご気分が悪いんですか? 医務室に行った方が? それとも、何か疚しいことでもあるんでしょうか?」
「……初めて会う人間に、疚しいも何も」
「でしょうね」

 追求から逃げられない。観念した花子が顔を上げる。流河は目を彼女に縫い留めたまま、青白い顔ににっと口端を吊り上げた。

「すみません。花子さんは繊細なので、話しかけるときは気を付けるよう夜神さんに言われていたのですが、失念していました」
「……父と、どこで」
「優秀な兄を持つ傍ら目立った特技はないように思われる……が、夜神総一郎さんの推薦をもって、誰にも漏らさないことを前提に、あなたにお伝えしたいことがあります」

 か細い疑問の声に、流河は答えなかった。畳みかけるように言葉を重ね、隅のような瞳でじっと、瞬きひとつせず、花子を見ている。
 喚く心臓に耐えられなくなった花子は、流河を視界に入れないよう、背けた。それを、流河が無理やりに覗き込もうとする。彼はぐいぐいと机に乗り上げ、仕舞いには花子に覆い被さらんばかりの体勢になった。周りの目がちらほらと二人に向けられるも、顔を伏せている花子には見えず、流河はそんなことを気にも留めない。

「伝えたいことって、」
「私はLです」

 耳元で囁かれた言葉に、花子は動きを止めた。思わず顔を上げる。流河はその鼻先で、じっとりと花子を見つめている。瞳孔の動き、発汗、呼吸、何一つ見逃さないために。
 花子が唇を震わせた。言葉を象るような動きに、流河の目が鋭く細まる。
 さあ、何を言う。

 ジリリリリリリ

 ベルが鳴った瞬間、白黒の映像が急に色づくかのように、わっと雑音が弾けた。席を立つ音、荷物を纏める音、それに混ざる幾多の雑談。室内が一気に音で満ちる。
 はっと、我に返った花子は、強く流河を押し退けた。もともとかなり不安定な体勢だった流河は、衝撃に耐えられず、椅子から転げ落ちた。鈍い音が響く。頭を強く打っただろう音に、周囲が気の毒そうに彼を見遣った。
 手早く荷物を纏めた花子は、床に転がったまま茫然と自分を見上げる流河を、凍えるような目で見下ろした。先ほどまで彼女を覆っていた怯えは、見る影もない。高慢に顎を上げる。元より人好きのしない人相だ。流河に目を向けた何人かは、花子の形相に、そっと視線を逸らした。

「……靴下も履かない人間の言うことは、信用するなと、父にきつく言われているので」

 髪を靡かせ踵を返す。ヒールの音も高らかに去っていく花子の背中を、流河は文字通り、指を咥えて見送った。



 



 奴は、一体何の為にあんなことを。
 さすが日本一の学校と言われるだけあって、学生数は多い。どこにいっても見える他人の姿に、花子は半ば諦めながらも、ひどく苛ついていた。これは、高校の比ではない。どいつもこいつもうじゃうじゃと、煩わしい。

「ねえねえ、テニスコート行こうよ!」
「えっなんで?」
「新入生の夜神くんが試合してるんだって!」

 廊下ですれ違った女子学生たちを横目で追い、花子は一瞬逡巡するも、我関せずといった様子で歩みを進めた。我が兄ながら、よく目立つことだ。あれだけの人間に目立つなという方が難しいのだろうが、その気質だけは他人のようにさえ感じる。

 廊下を抜け、中庭に出る。比較的人気の少ない影にあるベンチに腰を落ち着けると、花子は足を組み、その上で頬杖を突いた。指先で唇に触れる。

 まさかLだと名乗り出るとは……。世間で噂されているLとは、けっして人前に姿を現すことのない、謎に包まれた探偵だ。それがこんな、人の出入りが激しい大学に現れ、加えて正体を明かすなんて。
 意味がないと言うことはない筈だ。ならば、その意味とは一体。

 花子は流河がLであると、疑っていなかった。と言うより、彼の告白がなくとも、花子には分かりきったことだった。
 やはり、疑われているのだ。花子はそう考えた。捜査の対象でない者に名乗り出るなどあり得ない。問題は、花子の他にどれだけの被疑者がいるかだ。花子と関係のない人間が疑われているのであればその情報を得る術はないが、夜神家全員に行われていることかどうかなら簡単に分かる。
 とりあえず、帰ったら粧裕に、不審人物からの接触がなかったか訊かなくてはならない。
 その時、ポケットに入れた携帯電話が震えた。画面を確認する。月からだった。通話ボタンを押し、耳に当てる。

「テニスの審判だったら遠慮しておく」
「そうじゃない、花子、今どこだ?」

 軽口を叩く花子に、月が焦った声を被せる。花子は眉を顰めた。どうも、様子がおかしい。

「大学の中庭。何、どうしたの?」
「財布は持っているか?」
「持ってるけど」
「なら、すぐに通りに出てタクシーを拾うんだ。場所は茨木病院。部屋番号は、また後で連絡するよ。僕もまだ着いていないから」
「え、病院?」

 予想外の単語だった。花子の心臓が高く鳴る。強張る身体が、急速に冷えていく。電話を持つ手が震える。
 花子の裏返った声に、幾分か冷静さを取り戻したらしい。月は浅く息を吐いて、先ほどより落ち着いた声で言い聞かせた。

「いいか、落ち着いて聞けよ……父さんが心臓発作で倒れた」



 



 タクシーが停車するなり、花子は病院に飛び込んだ。エレベーターのボタンを、押し潰さんばかりに叩く。扉が開ききるか否かのうちに駆け出すと、受付に身体を投げ出し、噛みつくように尋ねた。「夜神、総一郎の面会に、部屋は?」面会者の名簿に名前を書き殴り、早足で病室に向かう。

 花子が病室に辿り着いた時、総一郎はベッド上で身体を起こしていた。その脇に、幸子と月が並んでいる。そしてもう一人。

「キラ事件の捜査本部の長……。キラに狙われる理由は十分すぎる。キラによる殺人未遂……まあ0%とは言えませんね」
「ありえないね」

 入ってきた娘を、総一郎と幸子が振り返った。「花子……」顔を強張らせていた幸子が、娘の姿を見てほっと息を吐く。それに微笑みかけ、花子は三つ目の椅子の上で膝を抱える男を睨みつけた。

「殺人を失敗する……それも、捜査本部の人間を殺すのにしくじるような奴なら、もうとっくにキラは捕まっている。まあ、世界一の名探偵が、その程度だって言うのなら、ありえないと言ったことは謝るけど」

 流河はむっと顔を顰めて花子を見上げた。高低差のためか、上目遣いで睨み上げるような目線であったが、花子は高圧的に腕を組んでそれに返した。語気を強める。

「キラ事件からこっち、お父さんは働き詰めだった。今まで倒れなかったのが不思議だよ。確証もないのに、余計なことを言わないでくれる?」
「それはどうもすみませんでした」

 飄々と頭を下げる態度が気に食わない。反射的に舌を打った花子を、幸子が咎めた。素直に謝る気になれず、子どものようにそっぽを向く。家族の前で無神経なことを言う方が悪い。

「幸子、ふたりが来てくれたし、私はもう大丈夫だ。家に戻りなさい。粧裕には何も言うんじゃないぞ。これ以上心配させたくない」

 総一郎の言葉に、幸子は未だ不安を隠せない様子であったものの、頷いて立ち上がった。もう粧裕は帰宅しているだろうし、誰も帰ってこなければ、心配するだろう。月と花子に一言残し、病室を出ていく。扉が完全に閉まり、花子は幸子が座っていた椅子に腰を下ろした。

「だから、休んでって言った」

 恨めしい目つきで己を見る娘に、総一郎が眉を下げた。

「私の心臓が止まるところだったよ」
「すまない……いま思えば、上司……部下に葛藤し、いつキラに殺されるかもわからぬ恐怖と戦いながら、ろくに寝ずに無理をしてきた」
「そして息子さんと娘さんが疑われていたのでは、精神的にも参らない方がおかしいくらいです」
「なにそれ」

 続く流河の言葉に、花子が眉根を寄せた。

「第一、なんであんたがここにいるの?」
「ですから、昼間言った通り、Lなので、夜神さんのお見舞いに」
「世界一の名探偵だなんて大層に名乗っている人間が、こんなところで油売ってるわけがない」

 ぴしゃりと言い切った花子は、同意を求めるように月を見た。けれども月は苦く笑って首を振った。横目で流河を見遣る。

「僕も、入学式の時にLだと言われたよ……まあ、本当かどうかはわからないけどね」
「お二人とも、けっこう疑り深いんですね。……先ほど申し上げた通り、私はお二人をキラではないかと疑っているので、より近くで捜査をするために、こうして同じ大学に入学しました」
「そんなことまで父に?」
「はい、すべて話してあります。私がLであることも」

 げんなりと、態とらしく項垂れた流河の言葉に、双子は揃って父を振り返った。子どもたちの視線を受けた総一郎が、重々しく肯く。

「そうだ。第三者にわからないよう我々は竜崎と呼んでいるが、間違いなくLだ」
「……竜崎、ね」

 花子は目を眇め、流河―竜崎を見遣った。酷い猫背に浮き出た背骨。筋張った手足、不健康な顔色。隈。これが、L。
 花子の敵。
 絶対に死なせてはならない人間。

「で、竜崎……息子と話してみて疑いは晴れたのか?」
「いえ、キラ事件に対し適切なことを言いすぎるので、かえって疑いが深まったと言うのが本音です」

 にべもなく答える竜崎に、月が彼を、あまりに気遣いがないと諌めた。総一郎が、本当のことを言われた方が気が楽だと言って、それを遮る。

 一体どれほど、本当のことを言っているのやら。花子は竜崎が言っていることを、まるで信じる気にはなれなかった。月を疑っていると言うのであれば、それはかなり確信に近いところでではないのか。世界の切り札とも謳われる人間が、わざわざ顔を晒し、正体を明かす相手が、ただの容疑者で留まるはずがない。
 そしてそれは、花子にも言える。

「それに、花子まで疑われているなんて……」

 月は、竜崎を挟んで座る妹に、気遣うよう目を遣った。妹は腕を組み、目を伏せている。
 月にしてみれば、妹を巻き込むのは本意ではなかった。Lが疑うならば、まず自分だろう。その確信があったからこそ、キラが警察関係者であり、かつ学生の身分である可能性を露骨に示唆したのである。

「……あんたさっき、二人って言ったね?」

 花子が伏せていた目を上げ、竜崎を見た。

「私と月が疑われて、粧裕が疑われていない……。一家全員が容疑者ということではないんだ?」
「ええ、そうですね」
「なら、いい」

 花子が笑った。竜崎が、彼女を睨む。

「家族が疑われていないのなら、自分たちが疑われていてもいい……不思議な理屈ですね」
「気に障ったのなら、謝るけれど」

 花子は、まるで舞台役者のような仕草で胸に手を当てた。態とらしいほど、本意ない、といった表情を浮かべて腰を折る。

「月はもちろん、私もキラではないから、どれだけ疑われようと、あんたの時間が無駄になるだけで、痛くも痒くもないね。粧裕……妹や母が不審者に付き纏われていないなら、とりあえずは安心した、というつもりで言ったんだけど」
「そうですか……。私としても、花子さんがキラでないのなら、とても嬉しいです」

 睨み合う彼らに、月と総一郎は、困惑したように視線を合わせた。慇懃無礼な態度こそあれ、竜崎がこのように他人に突っ掛かるのを、総一郎は初めて見た。そして花子がこのように噛みつくのも、彼らにとっては非常に珍しい光景だった。月と花子が喧嘩をしたのは、記憶が定かな限りでは、小学生時代が最後だ。粧裕への小言は多いものの、妹をよく可愛がっている花子は、彼女の我が儘には非常に甘く、大抵のことは許してしまう。人付き合いを厭うと言え、花子は自分から喧嘩を売るような性格ではない。その彼女が、これだけ攻撃的になるとは、一体竜崎に何があるというのか。

「まあ、疑いといっても、本当にわずかなものです。もう一度説明しておきます」

 爪を噛み、花子を睨め付けていた竜崎は、彼女からふっと視線を逸らした。FBIが死亡した状況、キラが本部の情報を得ていたこと、レイ=ペンバーとその婚約者について、書類を読み上げるかのように淡々と述べていく。

「……その尾行の対象に僕らが入っていた。これなら疑われてもしょうがない……いや、流河の言う通り、他に疑う対象がいない」

 ……なるほど。
 じっと聞き入っていた花子は、誰にも聞き咎められないよう、静かに息を吐いた。

 容疑者はもう、かなり絞られている。月と花子以外にいないと言っていいだろう。これが月にとって理想的な状況かどうか知る術はないが、花子にとっては悪くない。しかし。
 これだけ絞れている状況で、Lはまだ月がキラである証拠を掴めていないのだ。いくら月が警戒していないとは言え、その脇から花子が月が持つキラとしての証拠を抑えることなどできるのだろうか。
 慎重にならなければ。この二人が、いかに優れているのか。花子はよく知っていた。
 必要なのは、狡猾さだ。誰よりも強かに、息を潜めなくてはいけない、敵に私が見えなくなるまで。良心を捨て、二枚の舌を持つのだ。
 必ず勝つ。世界中の、何を裏切ってでも。


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