4.溺れる夢を見ている


神は死んだ
 ――ニーチェ


 神様の夢を見た。
 花子は身体を起こした。カーテンの隙間から、明るい光が差し込んでいる。そのために、薄暗い部屋の中がよく見えた。きっと窓の向こうは、晴れているのだろう。

 ぼんやりとした頭で殺風景な部屋を見渡し、花子は自身を抱きしめるように、両手で腕を摩った。寒かった。部屋の暖房は、寝入ってすぐに切れたはずだ。冬の朝は寒い。晴れた日は余計に。
 けれども、それだけではないだろうと、花子は理解していた。心臓に氷を埋め込まれたようだ。身体が芯から凍っている。腕を摩っても、身体は少しも温まらない。そればかりか、どんどん熱が奪われていくような気がした。歯の根が合わず、ガチガチと不快な音を立てるも、止められない。
 悪いことが起こったのだ。花子の勘は外れない。それも、悪い予感だけ。「ああ、」恐ろしいことが起こったのに、違いなかった。

 すん、と花子は洟を啜った。ぽろぽろと、溢れる涙を細い指先で拭うも、涙は後から後から零れては、しっとりと花子の手を濡らした。涙ばかりが熱くて、花子は冷えていく。「ああぁ」

 目覚めたくなかった。目覚めたくなど、なかったのに。
 けれど。
 空は、祝福するように晴れ渡っている。今日は、素晴らしい日に違いなかった。



 



 あれでいて時間にシビアな妹が、起きてこない。
 月は朝食を摂りながら、壁時計に目を遣った。普段なら一二分の誤差こそあれ、とうに起きてきている時間である。ふざけた態度が目立つのと裏腹に、妹が神経質な人間だと知っている月は、訝しんだ。ここ十年ばかり、極度に体調を崩したときを除いて、妹が己の時計を狂わせたことはない。眉をひそめる。

 朝食を済ませると、月は花子の部屋に向かった。万が一寝坊しているのであれば、起こしてやらなければならない。放っておけば時間を守れなかった自分に腹を立て、起こさなかった月にも腹を立てるだろう。

「花子、起きてるか?」

 ノックをするも、返事はなかった。どうやら本当に寝過ごしているらしい。珍しいこともあるものだ。もう一度、今度は少し強く扉を叩く。返事はない。

「入るぞ」

 声をかけて扉を開ける。
 部屋は薄暗く、ひんやりとしていた。自分と同じ間取りの部屋であるのに、やたらと広く、素っ気無いように見える。窓際のベッドには膨らみがあった。月はベッドの脇に立つと、花子を揺り起こそうとした。

「もう朝だ。いつもの時間過ぎてるぞ」
「……今日は起きない」
「えっ」

 眠っていると思っていた花子は、どうやら起きていたらしい。布団が動き、膨らみの中から彼女が顔を覗かせる。その顔を見て、月は驚いた。目が赤く腫れていた。

「どうした? また嫌な夢でも見たか?」
「いや、違うよ」

 布団の中で花子が首を振った。その目から、はらはらと涙がこぼれ落ちる。
 妹の様子に、月は膝をついて彼女の顔を覗き込んだ。「なあ、どうした?」出来る限り、優しく尋ねる。大抵のことでは飄々としている花子が、目が腫れるまで泣くなんて。幼い頃以来だった。

「具合が悪いのか? 薬を持ってこようか」
「いらない」

 横になったまま、花子は月を見上げた。まるで似つかない顔をした、共に生を受けた彼女の兄は、端正な顔いっぱいに花子への気遣いと心配を滲ませている。

「……なんでもない。ただちょっと、起きる気にならないだけ。もう少ししたら起きるよ」
「そうか……」

 額に触れると、部屋が冷えているからだろう、月の手よりも冷たかった。熱はないようだ。昨日の様子を思い返しても、風邪をひいているわけではないだろう。月はそっと身を引いた。
 既にセンター試験も終わり、受験は佳境に来ている。花子も月同様、真面目な受験生だ。きっと疲れが出たのだろう。高校三年のいま、学校は自由登校だ。行く必要はないし、普段きちんと勉強しているのだから、一日くらい寝ていたって気を揉むようなことはない。

「何か、欲しいものは?」
「何も。母さんに、お腹が空いてないから朝ご飯いらないって言っておいて。起きてはいるって」
「わかった」

 予備校に行って自習をしようと思っていた月は、予定を変え、家にいることにした。よく晴れた日だ。妹が起きてきたら、気晴らしに散歩にでも誘おう。そう決めて立ち上がる。

「まあ、今日くらいゆっくりしろよ。最近根詰めてただろ」
「真面目な優等生だからさ」
「おもしろい冗談だな、それ」

 口ぶりはいつもの花子だ。少し安心して、月は花子に背を向けた。

「月」
「なに?」
「ありがとう」

 振り返る。妹は布団に包まったまま、自分を見上げていた。

「どういたしまして」



 



 階段を降りていく足音を聞きながら、花子は目を閉じた。兄のことを考える。
 優しい兄だ。ほんとうに、月は花子によくしてくれる。花子は月がいてくれてよかったと心から思うし、この信頼が一方的ではないことも知っていた。月にとっても花子は唯一無二なのだ。失うわけにはいかない、大切な。
 それでも別れは来るのだろう。来なければならない。

 携帯電話を手に取る。小さな画面で苦労しながら開いたネットのページには、今日の朝刊の記事が映っている。ボタンを押して、ページを閉じた。投げるように手放す。部屋の外に聞こえないよう、花子は枕に突っ伏した。あたたかな涙。嗚咽を噛み殺す。
 キラが月でよかった。今日だけは、ほんとうに、あのやさしい兄でよかった。


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