3.5


人間は聖書から残虐性や強盗、殺人を学んだ。残虐な神への信仰は、残虐な人間を創る
 ――トマス=ペイン


 真夜中だ。総一郎は仮眠を取っている。竜崎は一人モニター室に篭り、ずらりと並ぶ数多の液晶を見張っていた。
 夜神宅の監視が始まって三日目だ。現時点で怪しい動きはない。監視は五日間。今日で折り返しということになる。
 その今日も、何事もなく終わりそうだった。すでに時刻は丑満時を回っている。モニターは暗い。その奥では、家族四人が平和に眠っているはずだ。

 キラはいないのだろうか。些か集中を欠いて、竜崎はカップに残った紅茶を啜った。この家にキラがいるにしては、あまりに平穏すぎる。母親と末娘は、なるほどこれが平々凡々かと、平にも凡にも縁のない竜崎が思わず感心してしまうような有様だったし、長男は自室にテレビとパソコンを持っていたものの、犯罪者が報道される時間帯にそれらの出番はなく、潔白と言わざるを得なかった。長女はそもそもテレビを見ない。総一郎は、長女は朝のニュースは見ていると言っていたが、竜崎の見立てでは、彼女はニュースに耳を貸すことはあっても、テレビ画面には目をやらなかった。せいぜいが新聞をつまらなそうに眺めるくらいである。

 ただ、この長女、少しばかり様子が変わっている。総一郎の手前言い出さなかったものの、竜崎は彼女には何かがあると思っていた。キラかどうかまではわからない。だが、何かを感じさせるのだ、夜神花子は。
 カメラを取り付けた際、ワタリからの報告で竜崎は花子に違和感を抱いた。映像として彼女の部屋を見て、その違和感はより強さを増した。
 片付き過ぎている。夜神花子の部屋にはウォークインクローゼット、窓際にベッド、あとは大きな本棚と机、姿見が一つずつ。一軒家の中の一部屋なのだ、家具の数としては妥当だろう。しかし、家具の数というよりは、これしかない。クローゼットの中には制服と冬物の上着、下着が数セット。普段彼女が着ているだろう洋服は、数着しか見当たらなかったという。少女らしい小物はなく、机の引き出しには手紙が一通入っているのみ。あとは学校で必要な物が、鞄の中に収められているくらいだろうか。
 必要最低限を下回るような部屋の中で、本棚だけが、異質だった。カーペットもない寒々としたフローリングの室内に置かれた本棚は、ずっしりと重厚な造りをしていて、どう見ても部屋に合わない。厳しい顔つきのそこには、本がびっちりと――取り出すのに多少の力が必要になる程、ぴったりと詰められている。背の高い本も薄い本もバラバラに詰められているので、一見すると無造作なようにも見えるそこは、完璧に統治されていた。すべて、正しくアルファベット順に並んでいるのだ。日本語で書かれた小説は、わざわざ英訳された順番に肩を並べて。そして五段あるうちの、すべての段に詰められているページ数も揃えられていた。四千四百十三ページ。占めて二万二千六十五ページ。

 彼女が度を越した神経質であるのは明らかだ。帰宅後はすぐさま制服を脱ぎ、床の隅々、ベッドの下に至るまで、几帳面に掃除機をかける。総一郎の話では、夜神花子は週に一度は部屋を丸ごと掃除するという。部屋中の埃を払うくらいならば可愛いものだが、毎週窓を磨き、本棚の本を全て取り出して棚を拭き、電球のソケットまで拭くとなると、行き過ぎていると言っていいだろう。起きる時間も眠る時間も、平日休日問わず、ぶれることがない。幼少の頃から受験生となった今現在において、そのルーティンが崩れることはなかったそうだ。長期間の監視ができない理由はここにある。そもそもあまりに物が少ないため、彼女の部屋にカメラを仕掛けるのは、至難の技だったのだ。他の部屋に比べ、幾分か数も少なくなっている。

 かと言って、夜神花子が異常な言動をする人物かというと、そうでもなかった。聞くところによると彼女は過剰に人付き合いを面倒くさがるようだが、潔癖な人間の中には他人に触れることや距離を詰められることを厭う者も存在するので、そこまで不可思議なことでもない。家族共有のスペースに関しては別段その神経質さを見せることはなく、皮肉も言うが、冗談もよく口にする、わりに朗らかな人柄であるらしい。
 噛み合わない。花子を見て、竜崎はそう思った。過剰に物が少なく、整えられた部屋。家族の前での明るい振る舞い。崩されない日々の行動。そこに、歪があるような気がしてならなかった。僅かな違和感でも、隠し事をしているのではないかと疑うには十分だ。しかし引っ掛かるのは、その潔癖さもテレビを嫌厭する態度も、ここ最近の話ではないということ……。

「……ん?」

 物音がした。注意深くモニターを伺う。暗闇の中で、動く影がある。
 花子だった。跳ねるように身体を起こし、彼女は蹲るように胸を押さえた。盗聴器を通して、荒い息遣いが聞こえる。
 息を整えた花子は、ふうと大きく深呼吸をした。汗を拭うように、腕を顔に当てる。悪夢でも見たのだろうか。それとも。竜崎は身を乗り出し、暗闇の中ただ一人動く花子を凝視した。何一つ、見落とすつもりはない。
 落ち着いた花子は、ベッドから降りるとスリッパを履き、自室を出た。キッチンで水を飲む。
 水を飲み終えた彼女は、静かに階段を上がった。そのまま自室に向かうかと思われたが、彼女が向かったのは夜神月の部屋だった。扉の前に立ち、逡巡するような間を開け、控えめにノックする。

「うん……?」

 今度は月の部屋から、彼の声が聞こえた。小さなノック音に反応したらしい。彼はぼんやりと目を開けて、しばし宙を見つめていた。そこに再度、戸を叩く音がする。



 



「月……」

 花子か。妹の訪問に気がついた月は、その要件にも察しがついた。身体は重く、そのまま眠ってしまいたかったが、温かな布団から断腸の思いで身を引き剥がす。暖房の切れた部屋は寒々としていて、彼は身体を震わせた。

「花子か?」
「うん」

 暗い廊下に、妹は所在なさげに立っていた。白い顔が、ぼうっと浮かび上がっている様は、不気味でもある。月は扉を大きく開け、わざと腕を組んで花子を見下ろした。大袈裟に首を傾げる。

「いまが何時か、もちろん知ってるんだよな?」
「これは世界三大悲劇の一つなんだけど、私の部屋には時計がない」
「なら教えてやるけど、夜中の二時を過ぎてるよ」
「ああ、ごめん。お茶会は三時からだった?」

 兄の様子に、花子はほっと顔を緩めた。するりとその横を抜け、月の部屋に侵入すると、勝手に暖房を点ける。兄のこれがただのポーズであることを、花子はちゃんと知っている。花子が夜中に起きた時、月が花子を追い返したことは一度もなかった。

 花子は遠慮のない動作で、月のベッドに潜り込んだ。温い布団を頭から被り、顔だけを覗かせる。芋虫さながらの妹を見て、月は笑った。夜行灯を点ける。

「それで、またいつもの?」

 仄暗い部屋で、月は椅子に座り、妹を見遣った。花子はぐるりと目を回し、さもうんざりしています、と言わんばかりの顔をする。

「ああ、嫌になるくらい、いつもどおりの、あれさ」
「怖い夢を見て僕の部屋に駆け込むのも、いい加減やめてもらいたいんだけど。おまえ、もう十八になるだろ」
「いいでしょ、別に。減るもんでもない」
「睡眠時間が減るんだよ」
「それは失礼」

 とは言え、これは二人のルールだった。いつの間にか決まったこれを、月は破る気はない。
 彼は大袈裟に肩を落とすと、やれやれ、とポーズを取った。小さな子どもを相手にするように、人差し指を立てる。戯けた、けれども柔らかな声で、彼は花子に言い聞かせた。

「いいか。何度も言ったが、僕はおまえをどこかもわからないような場所に置いていかないし、父さんも、母さんも、粧裕も、そんなことはしない。おまえは誰にも、置いていかれたりしないよ」
「……うん」
「何か心配なことがあるのなら、なんだっていい、僕に話せよ。どんなことだって、手を貸してやる」
「うん」
「僕はおまえの味方だよ」

 おまえだって、僕の味方だろ。そう言って月が笑った。釣られたように花子も微笑む。
 これはいつもの文句だった。花子はいつも、同じ悪い夢を見る。月はそんな花子に、根気強く付き合ってやった。月がこの呪文を唱え、ようやっと花子は眠ることができる。
 妹の恐怖がどこからやってくるのか、月は知らない。置いて行かれることを、怖がっていることだけを知っている。家族の誰かが花子を置いて行ってしまったことなんて、一度だってなかったのに。何故妹がこんなことを恐れているのか、月にはわからない。
 月は目を伏せた。新世界を、早く完成させたかった。やさしい人間が悪意に怯える世界に、このまま妹を住まわせておくのは、いまの彼には抵抗があった。花子は神経質で、繊細なのだ。新しい世界ならば、理不尽に奪われることのなくなった世の中ならば、彼女もまた、穏やかに眠れるのではないかと思えた。

「ありがとう、月」
「どういたしまして。眠れそうか?」
「ん……、もう少し、話していてもいい?」
「いいよ」

 正直なことを言えば、もう眠ってしまいたかったのだが、それでも彼は妹の望みに快く頷いた。睡眠不足は敵と言え、監視カメラ対策は万全であるし、今さら多少勉強をさぼったところで鈍るような頭でもない。カメラ越しに見ているだろうLに、自分の人間性を示すのにもちょうどよかった。何より悪夢を見た時の妹を慰めるのは、自分の役目だ。

「ね、月。神様っているの?」

 毛布の中で具合のいい位置を探し、身を捩りながら、花子が月を見上げた。

「ははっ急に話が飛んだな。神様か……」

 月は一拍、考えるように間を置いた。
 月にしてみれば、神とは己のことだ。まさかそんなことを言うわけにもいかず、適当に言い繕う。

「人知を超えた存在という意味ならば、僕はあまり信じていないな。古来から宗教は政治と切り離せない関係にあった。日本において政教分離が成り立ってから、まだ百年も経っていないんだ」
「ヒュームの懐疑論?」
「というよりは、人を統べるために生み出された存在だと、僕は思っている。仏教もキリスト教も、イスラム教もユダヤ教も、例外なく宗教は統治のための力を持っているから。人間が政治のために神を生んだんじゃないかな」
「みんなが同じ神を信じ、同じ戒律に従うのなら、それは法律と変わりないね」
「実際、イスラム教のコーランには法律的な戒律と道徳的な戒律が混在しているそうだよ。僕も読んだことはないけどね。神の有無については、僕としては人間に生み出された存在だと思っているから、一応いるってことになるかな。でもこれって、花子が聞きたかったことじゃないだろ?」

 月が笑って首を傾げる。ベッドの中から、花子は兄の顔を見つめた。ぼんやりとした暖色に照らされた彼は、宵闇に溶け込むにはとても柔らかに見える。

「私が言っているのは、人知を超えた存在の有無だから、違うね」
「だろうね。そしてそれなら、僕はいないと思っている……ああ、でも、神社で不作法をしようとは思わないな。社会的なマナーとしての意味合いとは別に、タブーだという感覚がある。これが絶対主義的に言う『善』なんだろうな」
「人間の概念を超えた『善』が存在する、ならば神はそこにいるってやつね」
「ああ、それ」

 花子は毛布の中で笑った。

「むかしみんなで初詣行った時にさ、粧裕が神社の狛犬に、こっそり持ってきてたマニキュア塗りたくっちゃったの、覚えてる?」
「ああ、あれな」
「ずいぶん恐れ知らずな妹だ」

 月が、目を細めて笑った。彼がそのように笑うと、彼らはどことなく、似た雰囲気になる。「それでも本人は、至って真面目だったじゃないか。かわいくなくて、かわいそうだからって」

「ねえ、月」
「なんだ?」

 花子はいつだって、家族を大切にしている。その中でも、月は特別だった。月にとっての彼女がそうであるように。花子の声は柔らかく、穏やかで、囁くように小さい。彼女がこのように喋るのを、月だけが聴くことができる。

「神様はいるのって訊いたけどさ、私は神様が、いると思ってるんだよ」

 月は、きょとんと目を丸くして妹を見た。「へえ」意外だ。妙に現実的なところのある花子のことだから、そういった類の話は信じていないかと思っていた。
 驚く兄を見上げ、花子は「たぶん、月が思っているようなことじゃない」と静かに言った。

「私も月と、似たようなものだよ。ブッダもキリストも、かつて本当に存在していたことはわかるけれど、彼らのことを私は、ただの人間としか思っていないし、他の宗教に関してもそれは同じことだ。人知を超えた存在なんて、いてもいなくても、どうだっていい。……そうじゃなくて、もっと個人的な話でさ。伝説的な野球選手を、神様だって思って憧れる人がいるのは、不思議なことじゃないでしょ。同じように、人間それぞれに、神様がいたりいなかったり、するんじゃないのかな。何かを信じることはすべて宗教だから。宗教の数だけ神様はいる」

 すっと息を吸う。花子はぽとんと、落とすように言った。「信仰は力だ」

「……キラを信じる人間が、私にはわかるよ」
「……そうか」

白い毛布の中から顔を覗かせる。月には花子が、修道女のように見えた。
花子はこれが言いたかったのだろうと、月は思った。微笑みたいのを堪え、口角を下げる。

「でも、キラがやっていることは犯罪だ」

 ちろりと月を見上げた花子は、歯を見せて笑った。

「知ってる。……だからこそ、救われる人間が、いるっていうのも」



 



 長女はキラに傾倒しているのか。まあこれだけでは言い切れないが……。会話を聞いていた竜崎は、席を外している総一郎のことを考えた。彼がいま、この場にいなかったことは、彼にとって幸いだったかもしれない。

 兄妹はその後、他愛のない話を二三して、各々の寝床に戻った。モニターが暗闇を取り戻す。今度こそ何も聞こえなくなった画面を見つめ、竜崎は親指を噛んだ。思考を巡らせる。

 夜神月が圧倒的な知能指数を持つだろうことは、言われるまでもなく、彼の言動を少し見れば火を見るよりも明らかだった。それに比べると、夜神花子は精彩を欠く。成績、言動、どれを取ってもそこそこ優秀、という域を出ず、天才には遠く及ばない。

 けれども、竜崎の目には夜神花子が酷く歪な人間に見えた。完璧に整えられた兄とは違い、様々なものを取り繕い、継ぎ接ぎし、なんとか人の形を保っている。そういう風に思えてならない。
 それが何を意味するのか。意味などないかもしれないし、大きな意味を持つかもしれない。まだわからない。
 新たに注いだ紅茶に、竜崎は一掴みの角砂糖を放り込んだ。溶かしきらないうちに飲み下す。
 夜神花子から目を離してはいけない。それは名探偵こそが持ち得る勘だった。


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