3.握りしめた刃先は見えない


用心は英知の長男である
 ――ヴィクトル=ユーゴー


「息子さんたち帰って来ましたね」

 捜査本部の一室で、総一郎は目の前に並ぶ多数のモニターを凝視していた。膝に置いた手には汗が滲んでいる。モニターには、彼の自宅すべてがあらゆる角度で映されていた。彼の長男と長女が、その中に入ってくる。

「夜神月……カメラを付けた者からの報告では、彼は自分の留守中部屋に誰か入ってないかをチェックしています。それ以外は部屋に怪しい物はなし。夜神花子は自室があまりに整然としている……。留守を気にする様子はなし」

 総一郎は、隣に座る人物に目をやった。まだ、若い男だ。薄い身体は極度な猫背のせいで、頼りなげに見える。これまで一度も深く眠ったことなどないのではないかと思わせる隈が、彼をより一層不健康そうに見せていた。柔らかな肘掛け椅子に膝を抱えて座った彼は、爪を噛んでモニターを眺めている。

「娘さん……花子さんの部屋には息子さんと違い、テレビやパソコンといったものがないようですが、これには理由が?」
「ああ、娘はテレビが嫌いなんだ……。パソコンも、息子に買い与える時に訊いたんだが、本人が欲しがらなかった」
「そうですか。テレビが嫌いというのは、昔からですか?」
「子どもの頃からだ。この歳になっても、観ているのは朝のニュースくらいで、テレビにはあまり近寄らない」
「なるほど」



 



 帰宅してすぐに制服をクローゼットにかけた。洋服に皺が寄るのは我慢ならない。ジーンズとセーターを身につけ、掃除機を取りに行く。一日に一度は掃除機をかけないと落ち着かなかった。
 花子が廊下に出ると、月もまた、部屋から出て来たところだった。制服のブレザーを脱ぎ、コートを羽織っている。鞄はない。

「ちょっと本屋行ってくる」
「いってらっしゃい」
「ついでに買ってくる物は?」
「いや。……あ、付箋」
「わかった」

 月は自室の扉を締めると、下の方に小さな紙を挟み込んだ。玄関に向かう兄を見送り、花子は掃除機を持って自室に戻った。床に髪の毛や埃は落ちていないか、念入りに確認しながら掃除を進める。

 ここのところ、月は自室に誰かが入っていないか気にするようになった。ということは、やはりキラとしての物証は部屋にあるのだろう。年末に行われた家族会議の翌日、花子は月の部屋に侵入したが、キラに繋がるものを見つけることはできなかった。そのまた翌日には月が入室者を気にするようになったので、それ以来花子は月の部屋に入れていない。

 本屋ならば、歩いて行くには往復で三十分はかかる。花子は掃除機をかけながら思索に耽った。まだ昼過ぎだ、粧裕の授業が終わるには時間がある。母もしばらくは帰ってこない筈だ。となると、これは好機ではないのか。
 月が自室の扉に紙を挟むのを見たのは初めてではなかった。それなのに花子が部屋に侵入しなかったのは、その月の行動を疑ったためだ。紙を挟むなど、あまりに分かり易すぎる。花子がそれを見かけたことぐらい、月は気づいていただろう。いまだって隠す素振りもなかった。兄をよく知る花子は、他にも何か仕掛けられているに違いないと確信していた。

 けれど、と思う。いまは確かに、月は紙を挟んだだけだった。他の細工をしているような所作はない。少し席を外すだけだからと油断したのだろうか。ならば、いまこそ証拠を探すべきではないのか。

 たっぷり十分間は掃除機をかけ、月が帰ってこないことを確認した花子は、掃除機のコードを巻き取った。廊下の物入れにしまい、自室ではなく、月の部屋に向かう。



 



「娘さん、きれい好きですね」
「少し神経質なところのある子なんだ」
「そうですか。仲良くなれそうです」

 それはどうだろう。傍らのチョコレートを無造作に掴み、大口で頬張る彼を横目に、総一郎は口を噤むことにした。年若い上、気取らないのでフランクに接してはいるが、彼は一応上司にあたる立場である。

「おや……。部屋に戻らないようですね」
「ん?」

 彼の言葉に、総一郎はモニターに目を戻した。掃除を終えた花子は、廊下に掃除機をしまいに来たようだ。そして彼女が向かった先は、自室ではなく、月の部屋。

「息子さんと娘さんは、双子でしたっけ」
「あ、ああ。そうだ」
「仲はいいんですか?」
「それなりに……。いや、ふつうの兄妹よりはいいと思うが」

 幼い頃から同じ年頃の子どもと遊ぶ素振りを見せなかった花子が、唯一パーソナルスペースに入れるのが月だった。年頃になれば男女の兄妹なんて自然と距離が開くだろうという両親の予想を裏切って、彼らは同じ高校に入った。毎朝一緒に登校するし、時間が合えば、今日のように共に帰宅することもある。

「では、互いの部屋に入るのも、そう珍しいことではないんですね」
「そこまでは……」

 総一郎は、不安に駆られて隣を振り返った。膝を抱えたまま、彼はモニターを見つめている。その表情からは、何を考えているか伺うことはできない。
 兄妹の部屋に入るなど、別段不審なことではないように思える。けれど、状況が状況だった。背中に伝う汗を感じながら、総一郎は膝に置いた手を、祈るように握った。



 



 ……待てよ。
 扉を開け、中に入ったはいいものの、これはしくじったかと、花子は無表情の下で冷や汗を浮かべた。

 何故、月は油断したのだろう。家に花子がいるから、警察の人間がやって来て部屋に侵入することはないと踏んだ? 月は花子を警戒していない。家に花子しかいないから油断したとも捉えられるが……いや。それなら扉に紙を挟む必要さえない筈だ。花子がその場にいたのだから。では何故。帰ってきた途端の外出。本屋ならば、帰宅途中に足を伸ばす方が近い。そもそも、油断でないのだとしたら? そうする必要があって、部屋に仕掛けてあるのはこれだけですよ、と見せたのだとしたら?

 ならば、その相手は花子ではない。

 一度思い至ると、そうとしか考えられなかった。いま、見られているとしたら、自分はどの様に映るだろうか。兄の部屋に入るのは一般的な行動か? ……わからない。
 花子は神経を使って、可能な限り自然に見えるよう取り繕った。真っ直ぐ月の机に向かい、机上から赤いボールペンを拝借する。そのまますぐに部屋を出た。扉は閉めたが、紙は直さなかった。自室に戻る。
 鞄から参考書とノートを取り出すと、花子は机にそれらを広げた。適当に勉強を始める。しばらくすると、階下から月が帰ってくる音がした。階段を登る足音。軽いノック。

「どうぞ」
「付箋買ってきたぞ」
「ありがとう」

 小さな紙袋を受け取り、花子は月を見上げた。手に持ったペンを軽く振る。

「ごめん。そういや赤ペンなくなってるの忘れてたから、さっき部屋から借りたよ。今日借りててもいい?」
「なんだ、言えば買ってきたのに。まあ二本あるから、それやるよ」
「どうも」

 月が出ていく。花子は椅子のキャスターを回して、机に向き直った。真面目な受験生を演じる。

 迂闊だった。万が一、月の行動が誰かに見せるためなのだとしたら、花子もまた、見られていると考えて間違いはない。その可能性は三割にも満たないだろうが、用心が過ぎるということもないだろう。花子は月の様に部屋に仕掛けをしていないため、誰かが知らないうちに入ったか確かめる術はないし、相手が相手である。慎重になるに越したことはない。

 しかし、これからどうするべきか。ノートに数式を書き連ねながら、花子は左の指先で下唇に触れた。見られているか、そうでないかの確証が欲しい。その為には自分を監視する様なものがないか探索する必要があるが、急に部屋中を探し回れば、見られていた場合、監視に気がついたことがわかってしまう。それは避けたいが……。



 



 モニターを見ていた総一郎は、娘の様子に安堵の息を吐いた。月の部屋に入った花子に怪しい行動はなく、単にペンを借りるためだったと、会話からも判明している。総一郎は隣を盗み見た。彼はいまだ、その黒い目をモニターに縫い留めたままであり、花子の行動に言及することはなかった。ほっと胸を撫で下ろす。

 その後は月も花子も、自室に篭って真面目に勉強をしている様だった。幸子と粧裕が帰ってきても、彼らは夕飯に呼ばれるまで、自室を出なかった。

「お姉ちゃーん! ごっはんだよー!」
「いま行く」

 階下から自分を呼ぶ粧裕に返事を返し、花子は立ち上がった。肩をほぐす様に回しながら、部屋を出ていく。

 リビングでは、すでに席についた月と粧裕が、歌番組を見ていた。幸子から茶碗を受け取った花子が、二人の間に座る。花子はテレビに目をやると、嫌そうに顔を顰めて粧裕を見た。

「消していい?」
「ダメ! いまから早樹が出るんだから!」
「えぇ……」
「いいじゃないか、たまには粧裕の言うこと聞いてやっても」
「まあ……仕方ないな……」

「お姉さん、本当にテレビがお嫌いなんですね」
「ああ、まあ」
「何か理由があるんでしょうか?」

 理由。総一郎は、ぎくりとして隣を振り返った。
 娘がテレビを嫌いな理由を、彼とて考えたことはある。昔訊いたときは音が煩いと言っていたけれど。花子は映画も好きではない。唯一見るのは、有名なアニメ映画ぐらいだ。

「煩いのが嫌だと聞いたことはある。……まさか、やけにテレビを嫌うからとキラにはならないだろう?」
「なりませんね。新宿の通り魔やリンド=エル=テイラーが殺されたことから、キラはテレビから情報を得ていることがわかっています。娘さんのテレビ嫌いは幼少期からのようですし、キラ像からは離れます」
「そ、そうか」
「ワタリ、例のテロップを流すよう指示してくれ」

 マイクを通して、ワタリと呼ばれた人物が了承を返した。そのテロップがキラを試す罠だと知っている総一郎は、食い入るようにモニターを見つめる。



 



「緊急ニュース速報だって」

 粧裕の声に、花子は落としていた目線を上げた。極彩色の光を放つ箱の中で、髪を訳の分からない様に盛り立てた男がマイクを持っている。余計なものを見てしまった。舌を打ちたかったが、幸子に咎められるため我慢した。
 と、ちゃらついた男の頭の上で、白い文字が点滅している。ICPOがキラ操作のために千五百人の捜査員を導入。

「すごっ」
「粧裕、咥え箸しないで、行儀悪い」
「もう、お姉ちゃんってお母さんよりうるさいんだから……」

 ぶすくれる妹を横目に、花子はテレビに視線を投げた。このタイミングで千五百人の捜査員を導入し、剰えそれをテレビで流すなんて、あり得るだろうか?

「馬鹿だな、ICPOも」
「どうして?」

 兄の言葉に、花子はテレビから月に目を移した。彼は花子の疑問に、軽く笑って答えた。

「捜査するならこっそり入れて、こっそりやるべきだ。これじゃあFBIの二の舞になる。だからこれはキラに対する揺さぶりじゃないかな。まあこんなんじゃ、キラにもバレバレだと思うけど」

 現時点で、バレバレだね。とは言わず、花子は月に頷いた。

「月の頭が良過ぎて心配」
「どういうことだよ」
「変な黒い手紙が来ても、開けちゃダメだよ。月ならライアーゲーム完勝できそうだけど」
「花子、おまえ漫画の読みすぎ」

 軽口を叩きながら、花子は再び視線を下げた。
 テロップがキラへの揺さぶりだとしたら、現時点で監視されている可能性も、考えていいだろう。揺さぶりをかけるのなら、相手の反応を見るのが普通だ。と、なると。警察はもう、月を疑っているのか。

 キラが現れて一月余り。どこまで絞れているのか定かではないが、監視されているのであれば、その範囲は相当狭いと見ていい。まさか、月個人まで絞れてはいないだろうから、家族全員が疑われていると見るべきか。
 ならば、疑われる言動を、多少は取りたい。家族みんなが疑われているのなら、カメラが仕掛けられている場所は玄関、リビング、個人の部屋、風呂、トイレ――そこまで考えて、花子は盛大に顔を顰めたいのを、どうにか堪えた。入浴や着替えはまだいいとして、排泄を見られるのは屈辱である。加えて、それは自分のみならず、母と妹も含まれるのだ。

 監視の期間がどれほどかはわからない。花子は熟考し、一週間だけ耐えてやることにした。一週間後、徹底的に部屋を掃除し、カメラを探す。まだカメラが仕掛けられているようなら騒いでやる。警察を呼んだっていい。

「早樹の番くる前にちょっとトイレ〜」

 やっぱり五日間。


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