2.染みひとつない白いわたし


何かを得れば、何かを失う、そして何ものをも失わずに次のものを手に入れることはできない
 ――開高健


 すっきりと晴れている。冬特有の透き通った空気に通る陽光が眩しい。刈り込まれた芝生に光る露もまた、冬の晴れ間にその身をうつくしく輝かせている。
 休日だった。月は予備校へ、粧裕は友人と遊びに出かけ、幸子は夕飯の買い出しに行った。父が休日も返上して捜査に心血を注いでいるのは、キラが現れた今となっては珍しい話ではない。誰もいないリビングで、花子は新聞を広げていた。傍らには、ここひと月ほどの古新聞が山と積まれている。
 花子は月がキラだという証拠が欲しかった。けれどもそれを手に入れるのは、途方もなく困難を極めた。無論、そんなものが簡単に手に入る様ならば、キラがこんなにも世界を翻弄することはない。警察組織に所属していない、未成年者である彼女に出来ることといえば、精々世間に流される報道に注視することくらいだ。理解してはいたものの、打てる手数の少なさに、彼女が苛立ちを抱えるのもまた、無理のない話だった。

 ふと、花子は新聞を読む手を止めた。細い眉が、神経質に顰められる。小さな記事が、彼女の意識を掴んで離さなかった。花子の呟きを聞く者はいない。

「銀行強盗がバスジャック……?」

 ただのバスジャックならば見逃しただろう。問題は、銀行強盗が、バスを襲ったというところにある。

 ソファに座り逡巡していた花子は、徐に立ち上がると、傍らに積み上げられた古新聞に手を伸ばした。記憶を頼りに日付を遡っていく。十二月二十日の朝刊。目当ての新聞を見つけた彼女は、記事を探して紙を捲る。

「あった。指名手配犯、コンビニ強盗……」

 強盗殺人で指名手配中の男が、コンビニで強盗を起こし、はずみで刺殺されたという事件だった。一連の凶悪連続殺人が関わっていないからだろう、記事自体は酷く小さい。記憶が正しければ、ニュースで報道されてさえいなかったはずだ。
 花子は二つの記事を床に並べた。そこに覆いかぶさるようにして見比べる。

「犯罪者……どちらも死んでいる……。刺殺と事故……共通点はない、か」

 たった二件だ。三件ならば話もまた変わっただろうが、固執するには根拠が薄いように思われた。
 けれど。
 花子はバスジャックの記事を睨みつけた。場所が気になった。事故が起こったのは家からさほど離れていない交差点であり、バス会社はこの辺りの沿線だった。つまり、月の生活圏内で起こった事件ということになる。そしてこの日、月は朝から出かけていた。
 流石に、こじつけだろうか。疑うには根拠に乏しく、生活圏内で殺人をするのはリスクが大き過ぎるようにも思える。しかし、この犯罪者は心臓麻痺で死んでいるのではない。これを月に結びつける者などいるだろうか?

 その時、玄関扉が開く音がした。慌てて二つの新聞を畳む。間一髪、買い物袋を下げた幸子がリビングに入ってくるのと入れ替わりに、花子はすべての新聞に纏めて紐をかけているふりをした。「あら、片付けしてくれてるの?」暢気な幸子に頷いて返す。「お母さん、新聞ちょっと溜めすぎじゃない? クローゼットいっぱいだったよ」「お父さんが読むかもしれないと思うとねえ」微笑む幸子の口元には、諦めと寂しさが滲んでいた。

「晩ごはん何?」
「今日はカレー。シチューとどっちがいい?」
「カレー。すっごい辛口で」
「はいはい」

 そういうと思ったと言わんばかりに苦笑する幸子に笑顔を返す。
 新聞を纏め終わった花子は、束を玄関脇に置いた。明日の朝、外に出してしまおう。彼女が気を留めた記事もまた、灰色の山に埋もれている。手元に置いておくつもりはなかった。いつここに、敵の手がやってくるか知れない。花子が積極的にキラ事件を追っていると知られるのは、困るのだ。

「おやつ買ってきたけど食べる?」
「うん。なに?」
「プリンとコーヒーゼリー」
「コーヒーゼリーがいい。プリンは月にあげるよ」

 成績のこと、夕飯のこと、母が嵌っているドラマのこと。母のお喋りに付き合いながら、花子は薄い皮膚の下、思索を巡らせる。
 捜査上の情報も、手掛かりも持たない彼女にとって、僅かな違和感だけが糸口だった。無駄骨に終わることを承知で、彼女は二つの事件を頭に刻みつける。中岡字松四郎、コンビニに押し入り刺殺される。恐田奇一郎、バスジャック後交差点に飛び出し事故死。

 FBI捜査官十二人が殺されたニュースが流れたのは、この一週間後だった。



 



 その夜、久しぶりに帰宅した総一郎は夕食もそこそこに、家族全員をリビングに集めた。深刻な顔をした両親を交互に見やり、花子はこの家族会議の意味を察した。おそらく、月もだろう。盗み見た兄の表情は、両親と同じ色をしている。粧裕だけが呑気に頬杖をついていた。

「なに? 家族会議って。新年の挨拶にはまだ三日早いけどー」
「粧裕、黙っておいで」

 小さな頭に手を置くと、粧裕はきょとんと目を丸くして花子を見上げた。「どうしたの、お姉ちゃん」花子はそれに何も返さなかった。幸子と月も静かなままだ。
 そんな家族たちそれぞれの顔を見つめ返し、総一郎はやがて、重々しく口を開いた。

「隠していてもいずれわかることだ。ここで言っておく。私は今、キラ事件の捜査本部の指揮を執る立場にある」
「そうなんだー。何となく知ってたけど、やっぱすごいよねー、お父さんって」

 事の重大さがわかっていない末娘に、総一郎は唇を綻ばせた。けれどもそれも一瞬のこと。強く引き結ばれた口元には、厳しさと、どうやっても拭い取れないような覚悟が滲んでいる。

「本題はここからだ。ニュースで既に報道されていることだが、昨日キラを見つけ出すために日本に入ったFBIの者十二人全員が亡くなった……」
「キラに殺されたってことか……」
「えっ」

 月の言葉に、粧裕が肩を跳ね上げた。怯えたように目を丸くする妹の隣で、花子は横目で月を見遣り、口を開いた。

「つまり、キラは自分を捕まえようとする者も殺す。このまま捜査を続ければ、お父さんも危ないってこと?」
「ああ。現に部下も、この事件からはどんどん降りている。あんな冷酷で残虐なかつてない恐ろしい犯罪だ。降りていく部下を止めることもできない」

 その口ぶりから、現場の状況が窺い知れる。花子は目を眇めた。FBIが日本で調査を行なっていたことでなんとなく察してはいたが、おそらく現場はひどく混乱しているのだろう。どんどん降りている、という状況、FBIの秘密裏の捜査。日本警察は、大した信用が得られていないと見える。

「お、お父さんもやめなよ! お父さんが死んじゃったらやだ!」
「そうよ。立場とかそんなものより命が大切よ。あなたもやめてください」

 幸子と、目に涙の幕を貼った粧裕が必死に言い募るも、総一郎は毅然とした態度で首を横に振った。

「いや。私は絶対、この事件から降りない。悪に屈してはならない」

 父の言葉に、花子は半ば投げやりな気持ちでため息を吐いた。父の人間性はよく知っている。揺るがない正義感を尊敬してはいるが、花子とて、母たちと気持ちは一緒なのだ。父にこれ以上、死線に出向いてほしくはない。キラは月だが……月が父の命を保証するか、花子には判断しかねた。もしも捜査本部がキラの正体に近づいた場合、キラは、己の影を踏んだ者すべての始末を望むのではないだろうか。

「さすが、お父さんだね」
「……ああ。立派だよ、父さん。僕は父さんを誇りに思う」

 不意に、黙って話を聞いていた月が立ち上がった。月は真剣な顔で総一郎を見やり、自分を見上げる花子に目を落とした。双子の妹にそっと微笑み、ドアへと足を進める。

「父さんにもしものことがあったら……必ず僕が、キラを死刑台に送る」

 兄の後ろ姿を見送り、花子は静かに目を伏せた。
 FBIを殺したのは、月なのだ。罪のない者の命を、十二も奪った。それなのに彼の言動には、わずかな揺らぎも見られない。片割れである花子でも見抜けないほど。

 人を殺す上で最も難しいのは、人を殺すことである。人間は罪を犯す時、必ず葛藤が生じる。殺人という禁忌であれば尚のこと。月にはもうそれがない。兄はとても、優しい人間なのに。花子はとても残念だった。

 花子は粧裕に目をやった。同じように月を見送った粧裕は、まだ涙目のままだ。血の気の引いた顔が可哀想で、花子はわざとふざけた仕草で両手を上げ、乱暴に粧裕の髪をかき混ぜた。戯れるように妹の頭を抱きしめる。

「心配しなくていい。キラは捕まる。私が約束するよ」
「なんでお姉ちゃんが……」
「いままで隠していたんだけど、実はあなたの姉は未来人なんだ。百年後の未来から、父さんと母さんの手を煩わせるためにやって来た」

 花子の冗談に、ほっと場の空気が緩んだ。花子の腕の中で、粧裕が可笑しそうに肩を揺らす。

「やだあ、お姉ちゃん。嘘ばっかり」
「ほんとだよ。月と双子っていうのは嘘。私たち、笑っちゃうくらい似てないでしょ? で、百年後はキラのことなんて誰も覚えちゃいない。たぶん、明日か明後日に捕まるよ」
「もう」

 けたけたと粧裕が笑う。花子は心の内で、本当だよ、と妹に告げた。

 FBIが殺されたのは僥倖だった。少なくとも、花子にとって。
 キラが自分を追う者を殺したということは、キラの殺人には何らかの物証が残るということだ。仮に念じるだけで人を殺せるのだとすれば、証拠など出ない。
 証拠があるのとすれば、月の部屋だろう。少しでも怪しまれるのを懸念してこれまでは何の行動も起こさなかったが、物証の存在が確約されたのであれば話は別だ。一度探る価値はある。

 花子は殺された十二人のFBI捜査官のことを思った。可哀想に、なあ。
 そして、どうも、ありがとう、いなくなってくれて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 FBI殺害の恩恵は、証拠の存在だけに留まらない。あまりに幸運な展開に、彼らの死を思うと、花子は笑い出したい気分だった。FBIが誰の指示で動いていたかなど、想像に固くない。捜査員がこれだけ殺された以上、FBIはそう簡単に捜査を続けることはできないはずだ。手を引くことだって十分に考えられる。そして現場からはどんどん捜査員がいなくなっているというこの状況!
 近いうちに、必ず奴が動く。花子には確信があった。FBIを殺されたことは、明らかに奴の負けだ。あれは負けたまま、尻尾を巻いて逃げることを許せる人間ではない。確実にキラの息の根を止めるため、奴は近づいてくるだろう。花子はただ、それを待てばいい。この手が奴の首元に届くまで、じっと静かに、息を殺して。

 自分の知らない人間が知らないところでどれだけ死んだところで、その重さなんてわかりはしない。FBIを殺したのが花子だったとしても、月と同じように、或いは彼よりも冷淡に振る舞えたかもしれない。彼らの違いは、月が人間としての純粋さを失ったことに対し、花子はそれを最初から持ち得なかった、というのだから、結果は同じだ。

「なにも心配いらないよ」

 ともあれ、この犠牲は糧となる。キラと、花子の欲望の糧に。
 花子は可愛い妹に微笑みかけた。まるで無垢なように、汚れひとつ知らないように。


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