1.あなたの心臓は赤く、わたしの心臓は青い


虚栄心は他人を鏡として利用し、利己心は他人を道具として使用する
 ――フェルディナンド=テンニース


「おはよう、月」

 かけられた声に、月は振り返った。寝巻き姿の花子が、ちょうどリビングに入ってきたところだった。顔を洗ってきたのだろう、ヘアバンドで髪を上げ、白い額を惜し気もなく晒している。それなのにまだ眠たげだ。呑気な様子に月は笑った。

「おはよう、花子。ずいぶん眠そうじゃないか」
「まあね」

 花子が肩を竦め、月の隣に座る。席にはすでに、幸子が用意した朝食が並べられている。箸を持って手を合わせながら花子が言った。「毎週思うんだけど、なんで月曜なんてあるんだろうね」

 同時に胎から出てきた彼らは、どういうわけか、全くもって似ていなかった。他人同士の方がまだ似ていると言うのは、友人の意見である。
 容姿端麗、頭脳明晰、人当たりも良く、天才の名を欲しいままにしてきた月と花子は違う。容姿は優れた方ではあるが、異性に受けのいい月と違って、花子に声をかける者は少ない。すっきりとした一重瞼と切れ上がった目尻は親しみよりは鋭さを感じさせたし、起伏に欠けた身体は女性らしさよりも俊敏な獣を思わせた。成績は優秀。しかし月には遠く及ばない。愛想を振り撒く性質でない上、皮肉屋なところがあり、一人で行動することを好む。彼女には友人と呼べる存在がおらず、加えて面倒なことに、彼女自身がそれを全く気にしていなかった。それに関し兄や母に苦言を呈されようとものらりくらりと交わし続け、肩を竦めてこう言うのだ。「友情とは人生の酒であるって言うじゃない? 私、実は未成年なんだ」

「それにしても、キラってすごいね」

 卵焼きに箸をつけながら、花子が感嘆するように言った。彼女の目は、食卓に広げられた新聞にある。ここ最近の一面記事は、もっぱら犯罪者たちの不審死だった。「よくもまあ、こんなに人を殺せる」

「キラが現れて半月か。裁きもそうだが、まだこれだけ殺す犯罪者がいるっていうのにも驚きだよ」
「ほんと。でもこれだけ毎日殺しているなら、そのうち犯罪者は絶滅危惧種になるんじゃないの」

 花子は広げた新聞をたたみながら、皮肉屋らしく口を歪めた。

「Lだっけ。ずいぶんなビッグマウスだったけど、パフォーマンスはあれで終わりかしらね」
「そう言うなよ。前代未聞の事件なんだ。慎重に動くに越したことはないし、あれだけ啖呵を切ったんだから、今も水面下で仕掛けてるって考えるのが妥当だろ」
「へえ。たとえば?」
「そうだな……。関東圏にいるってことに加えて、犯行の時間帯からもう少し、たとえば年代とか絞れてるんじゃないか? だとしたら」

 そこまで言って、ふと、疑問に思った月は首を傾げた。隣に座る妹を見る。

「花子、おまえ、キラ事件に興味があるのか?」
「いや、そんなに」

 花子は大きな欠伸をした。「ちょっと花子、手で隠しなさい」キッチンから幸子の小言が飛んでくる。

「月と違って、私、正義になんて興味ないよ」
「そのわりには、毎朝新聞読んでるじゃないか」

 月が揶揄うように言った。あまりいい意味ではなく浮世離れしているところのある花子は、ニュースの類に興味を示さない。彼女が新聞に手を伸ばしたことなんて、月が知っている限り、高校受験の時事問題対策として総一郎に無理矢理読ませられていたときくらいだ。
 花子は味噌汁を啜りながら、横目で兄を見遣った。切れ長の目が、にっと細まる。この目付きが睨んでいるのではなく、面白がっているのだとわかるのは、月だけだ。

「教室内の惚れた腫れたなんて話よりは、よっぽど面白いと思うけどね。……どのみちエンターテイメントに近い」
「不謹慎だな」
「まあね」

 世間一般なんて、そんなものでしょ。肩を竦める花子が見出しを指す。「キラVSLなんて、世間の在り様をわかりやすく表現していると思うけど」「まあ、そうだな」月もまた、妹とそっくりの仕草で肩を竦めた。そこに、眠気眼を擦りながら、粧裕が登場する。

「おはよう〜」
「おはよう、粧裕」
「おはよ」

 粧裕が席に着くのと同時に、月と花子は朝食を終えた。全く同じタイミングで席を立った彼らに、粧裕が目を丸くして、はにかむ。

「やっぱお兄ちゃんとお姉ちゃん、双子だよねえ」
「粧裕もそう変わらないよ」

 花子は笑って、妹の柔らかな髪をかき混ぜた。「早く食べな。遅刻する」

 階下から月の声がする。自分を呼ぶ彼に、花子は自室の扉を開けて返した。

「ちょっと待って。あと三分」

 整えた前髪で額を隠し、ブレザーを羽織る。その上にコートを着込んでマフラーを巻いた。そう寒さに弱い方でもないのだが、この時期の薄着は母が嫌な顔をするのだ。動きづらい格好は好みではないが、仕方がない。
 扉の脇には姿見がかかっている。準備を済ませた花子は姿見の前に立ち、じっと自分を見つめた。鏡の中から、寸分違わぬ自分に見つめ返される。いつもと何も変わりない。スカートのプリーツを指先で直し、部屋を出る。

 階段を降りると、月はすでに玄関で花子を待っていた。「ごめん、お待たせ」慣れた様子でローファーを引っ掛ける花子を、月はそれとなく見下ろす。彼の目から、妹は、至って普通の女子高校生に見えた。正義になんて興味ない。先ほどの言葉を思い返し、月は心のうちで仕方がないなと、そっと笑った。

 彼自身も気がつかないところで、月は花子を軽んじていた。無論、大切な妹だ。愛している。けれども花子の能力は月に比べて劣っていたし、妹より優れているという自信は、幼い頃から月の中に息づいている。仕方がないことだ。双子とはいえ、持って生まれた能力に差があることは、自然の摂理でもある。

 世の中を正していこうと決意したとき、月は花子を思い浮かべた。彼らはとても仲のいい兄妹だ。花子であれば、自分の考えを理解し、手を貸してくれるだろうと月は思った。月にとって花子は、けっして自分を裏切ることのない、絶対的な味方だった。新たな世界を築くにあたって、当然、障害があるだろうことは予期していた。その時に彼を尊重し彼の力となる妹が傍にいれば、打てる手が増えるだろうこともわかっていた。
 それでも結局、月は一人を選んだ。妹を危険な目に合わせたくなかったのがひとつ。妹が自分よりも劣っているということがひとつ。
 焦ることはないと、月は考えている。花子が月の手を取らないことなど、あり得ない。妹には邪魔者を排除した後に打ち明け、ゆくゆく新世界の統治を手伝ってもらえばそれでいい。ともに生まれてきた自分たちは、これから先もずっと一緒にいるのだから。

 いってきます。リビングに声をかけ、扉を開ける。よく晴れた日だ。空気は冷たいが、日差しは暖かい。

「いい天気だね」
「そうだな。だからって、授業中居眠りするなよ」
「起きていることは不得意なんだ」

 月は呆れて、花子の頭を小突いた。

 夜神月は、まさしく天才と呼ばれるにふさわしい。けれども彼は人間だ。優れた頭脳を持っているということは、間違いが少ないことを意味しても、間違いがないということにはならない。彼は妹を軽んじすぎた。過ぎるほど、見縊っていた。
 花子は知っていた。兄が自分を侮っていることはもちろん、妹どころか周囲全てを見下している彼の傲慢を。優しく、誠実な人間である一方、彼はプライドが高く繊細で、不寛容であり潔癖だ。そのことを憎らしく思ったことはない。彼ほど優秀な人間であればある程度そういった性質は持って当然であるし、殊この事件に参加する以上、花子は月が傲慢でなければ困るのだ。

 傲りは目を曇らせる。月は花子など、眼中にない。月はその傲慢ゆえ、花子の思惑に気がつくことはないだろう。そして月が花子を軽んじれば軽んじるほど、他の目も花子から逸れるのだ。月の傲慢は、花子の盾になる。
 花子は月とは違い、誠実ではなく、繊細でもない。誰よりも強かで打たれ強く、好機が巡ってくるまで息を潜められるほどの忍耐強さと狡猾さを持っている。そして兄に比べると、幾分現実的だった。自分と兄が全く別の生き物であることを、彼女は正しく理解している。キラの思想は、彼女にはまるで響かなかった。そしてそれが、兄には受け入れられないだろうということも、わかっていた。

 花子は月がとても好きだ。人付き合いを厭う花子にとって、月は誰よりも親しい友人だった。月の存在は花子にとって希望でもある。彼がいなければ、自分は当に、生きることなど嫌になってしまっていただろう。
 もっとも、死ねるのならば、それがいまこの時だとして、構いやしないけれど。
 自殺志願も、この勝負が終わるまではお預けだ。
 花子は、自分と月が袂を分かつ日が来るだろうことを、確信している。その時が来るのが恐ろしくもあり、淋しくもあり、また愉快でもあった。兄妹は並んで通学路を歩いて行く。すぐそばで笑う死神に見つめられながら。


<< >>

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -