16.牙をしまって、微笑んで


怒鳴り散らす怒りは滑稽だが、寡黙な怒りは恐ろしい
  ――アバイ=クナンバイウル


 松田がさくらテレビに向かい、二時間が経過した。総一郎、模木、アイバー、ウエディもテレビ局に火口が突入してきた場合を想定し、局内に待機している。
 捜査本部に残っているのは、竜崎、月、花子、海砂の四人。竜崎と月はモニター前に座り、花子たちはその後ろに立っている。並んだモニターの半分には、さくらテレビ局の正面口が、もう半分には火口の車が映っている。いまのところ、どこにも動きはない。
 竜崎が、壁掛けの時計に目を送る。番組は午後七時放送だ。現在六時三〇分。

「そろそろでしょうか。月くん」
「ああ。かけるよ」

 捜査本部の電話を使い、月が奈南川に電話をかける。相手はすぐに出た。

「奈南川さん、Lです。いま一人ですか?」
《いや》
「ではまた適当に相槌を」
《その必要はない。会議中にあなたからもらった電話が変だと気づいた者といる》

 その言葉通り、奈南川の声に被さるようにして、後ろから別の男の声がする。誰からだ、と問うその声に、奈南川は僅かな緊張も見せず《Lだ》と答えた。思わず花子は竜崎を窺うが、その表情に変化はない。

《L、ここに三堂と紙村がいるが、二人ともキラとは思えないし、キラに腹を立てているクチだ。何と言われても私のように、Lとキラの対決を見守るだろう》

 要は、彼らの存在を容認しろと言うことだ。電話口を押さえた月からの視線に、いまだ変化のないモニターを眺めたまま、竜崎は肯く。「いいでしょう」ギャラリーが二人増えたところで、彼らの邪魔になり得ない。

「今夜、キラを捕まえる。少し協力して欲しい」

 電話口の向こうが、しばし無言になる。

《火口も終わりか……》
「わかってたのか?」

 思いがけない返答に、月が思わず訊き返す。それに奈南川が軽く笑った。嫌味にならない程度に、してやったりといった雰囲気がある。

《はは、Lでも引っかかるんですね。いまのあなたの反応で、やっと百パーセント火口になりました》
「……」
「やられたね、月」

 花子はにやにやと口元を緩ませ、月を小突いた。月は煩そうに妹の頭を軽く叩き、気を取り直すようにモニターを見据える。

「今夜七時から、さくらテレビのキラ特番で火口を動かす。番組が始まって数分後に、火口にテレビを観るよう連絡を入れてほしい。他の六人は絶対悪いようにしない。そこにいない者が何かしようとしたら止めてください」
《ああ……。わかった、信用しよう。何なら六人でその番組を観させてもらう》

 切れた電話。ふうと息を吐く月に、海砂が「お疲れ、月」と可愛く擦り寄る。それをあしらいながら、月は竜崎に目を向けた。「ありがとうございます、月くん」視線を受けた竜崎は、コーヒーに角砂糖を落とし、指でかき混ぜる。美味そうにそれを飲む竜崎を、花子は心底気持ち悪そうに見遣った。

「これで邪魔は入らないでしょう。やはり、他の会議メンバーはうんざりしていたようですし」
「当然と言えば当然だね。毎週誰を殺すかなんて会議、普通の人間だったらストレスになるに決まってる」

 火口はそんなこともわからなかったのだ。現在のキラが火口であることは、もはや疑いようがないが、あまりに以前のキラと違いすぎる。それに竜崎が気づいていないはずがない。無論、月だってわかっているだろう。

 一体どこまでが月の計画なのか。花子は思案した。
キラの能力、及び記憶を手放すところまでは、確実に月の意思だとわかっている。そこから、再びキラの能力を手元に戻すことまで、月は計算に入れているのか? Lは月を監禁しても、キラという証拠を得ることはできなかった。このまま逃げ切ろうとすることは可能だろう。だが、月がそれでよしとするわけがない。逃げて勝ちなど……。

「そろそろ時間です。松田さんに激励でも送りましょうか」

 十中八九、真面目ではない竜崎が松田の携帯を鳴らすのを聞きながら、花子は目を眇める。背骨の目立つ、肉の薄い身体を睨むように見る。
 キラの能力がわからない以上、竜崎から目を離すのは危険だ。月と竜崎を、二人にしてはいけない。月がキラの能力を取り戻した途端に竜崎を殺す可能性も、ないとは言い切れなかった。守らなければ。死なせてはいけない。
 そして、月がキラの能力を取り戻すならば。その時こそ、花子がその能力を奪う絶好の機会だ。
 逃すな。



 



 放送は予定通り行われた。放送が始まって数分後に、予め指定していた花子の携帯に、奈南川からの連絡が入る。短いショートメールだ。《火口に番組のことを教えた。無理に番組を止めるつもりもないと伝えてある》。文面を見た四人は、互いに目を交わし合う。止めることはないと奈南川が伝えたということは、火口は番組を止めたがった……放送に焦りを感じているということだ。

「松田さんの顔が出る場面ももう流れたけど……ちゃんと見たかな?」
「恐らくは。メールのタイミングからして、火口が電話を切ったのは、あのシーンが流れた後でしょう」

 竜崎の言葉が終わらないうちに、海砂の携帯が着信を告げる。「来たーっ」海砂が声を上げるも、当然電話に出ることはない。第二のキラに連絡を取ろうとしたのであれば、恐らく火口は松田の顔を見たと考えられる。
 そして再度、花子の携帯が震えた。二通目のショートメールだ。

「《火口から三堂に連絡が入った。総務省にいる父親経由で番組を止めろと打診されたが、断った》……上手くいってるみたい」
「ええ。計画通りです」
《竜崎、火口から模木さんに電話入りました》
「はい。次、来ましたね」

 すべて、竜崎が考えていた通りの順序で、次々に火口が連絡を入れていく。ワタリからの回線を経由して、模木の携帯音声がモニターに繋がる。

《模地、海砂はどこだ!?》
《あっ、お世話になっております、火口様。海砂は只今久々のオフで出掛けております》
《どこに出掛けたと聞いているんだ!》
《それが、プライベートなので誰にも知られたくないと……。申し訳ございません。明日には連絡がつくかと》
《……。前の海砂のマネージャー》

 場が俄かに緊張する。

《あれ、元タレントか?》
《はい?》
《松井太郎っていただろ?》
《ああ……入れ替わりで入ったので、私は何も……。そういうことでしたら事務所の方に……あ、でもいま、皆で沖縄に来ているんで、社長に電話していただけますか?》

 乱暴に電話を切る音。間を置かず、ワタリの声。

《火口からヨシダプロ社長に。中継します》
「まったく。筋書き通りで怖いくらいだな」
「怖がらず喜びましょう、月くん」

 やはり、凡人ではこの男の手の平で踊らされるだけなのだ。火口はいっそ哀れなほどに、竜崎が作ったストーリーをなぞる。花子は内心、火口への同情を禁じ得なかった。何かが違えば、こうして追い詰められるのは花子だったかもしれない。いいや、ゲームに負ければ、いつだってその可能性はあるのだ。
 シナリオ通りに、火口はヨシダプロの事務所へ向かうため、車に乗り込んだ。車内を写したモニターの一つが動きを見せる。竜崎は指先一つで邪魔な映像を消し、画面には火口が乗り込んだ車と追っ手役のウエディに取り付けたGPS、さくらテレビ局前の映像だけが映される。火口がエンジンをかけたことを確認したウエディが、トランシーバーで呼びかける。

《火口確認。所持品はバッグのみ。追います》
「ここまでは思惑通りだな」
「はい」

 車内の様子を映すカメラに、月も竜崎も鋭い目を向ける。やはり、火口は車内でも番組を確認していた。テレビの中では松田が司会者に、番組に出演するに至った経緯を語っている。「私は調べるうちに、キラが人を殺すのに必要なものは二つあると分かりました。私に関して、キラはその必要なものの一つの方を知りません」
《レム……どう思う?》
「レム?」

 月が訝しげに眉を寄せる。

「誰だ? 車には一人で乗り込んでいるし、あの車に他のものがいるとは思えない。携帯も使ってない……。無線か何かか?」
「いえ、あの車に無線機はありません。こっちの盗聴器、カメラ、発信機だけです。ウエディの仕事なので確かです」
《ヨシダプロに行って、履歴書があるかどうかだ……》
「独り言か?」

 言いながら、月もそうは思っていない。火口の言葉には、明らかに対話の間があり、独語にしては前後に繋がりがない。花子も月同様に、険しい顔で画面を睨む。どう見ても、火口は一人だ。ならば、火口が話しているのは……。

「もし、あそこで会話しているのなら……
 死神、
 ですかね」

 竜崎がそう言った瞬間。弥海砂の表情を、花子は見逃さなかった。
 火口はそこからも、頭のキレる奴なら履歴書の対策は既に済ませていることや、事務所に行けと言われたのは不自然ではないかなど、ぶつぶつ言っていたが、アクセルを緩める様子はない。

《いや、そんなことをしても、惨めな末路しかない。ヨツバの成長と死を照らし合わせたら、あいつの言っていることも真実だと、誰も疑わなくなるだろう。あいつが喋ったキラはキラに殺される》

 やはり。想定していたことなので、誰も何も言わない。が、火口の言葉によって、明らかになった。キラはキラに殺される……火口は最初のキラではない。第二のキラもいたのだ。キラがもう一人存在するのに不思議はないが……。花子は兄たちの後ろで首を傾げた。火口が受け継いだのは、キラの能力なのだろうか。だから、第二のキラのように顔だけでは殺せないのだろうか?

 車がヨシダプロの事務所に到着し、月がモニターを全画面、事務所内の監視カメラに切り替える。火口は迷いなく進むと、予め教えられていた机の引き出しを開けた。ダミーの履歴書が用意されている。顔写真は外してある。
 竜崎も、月も、花子も、瞬きを惜しんで画面を見つめた。
 さあ、どう殺す。
 火口は鞄から、一冊のノートを取り出す。黒いノートだ。画面越しには、何の変哲もない大学ノートに見えた。
 火口はそのままノートに松田の偽名を書き連ねると、履歴書を元に戻し、荷物を持って退室した。

「! 駄目だ! 名前をメモしただけで出るぞ。ここでは殺さないのか?」
「……」

 竜崎は爪を噛む。
 事務所内に待機している模木から、緊張した声が入る。

《竜崎、火口を抑える用意はできています。いつでも指示を》

 しかし、いま捕まえるわけにはいかない。殺しの現場を確認してからでなくては。

「……まだ殺し方が判明してません。もしかしたら、車内で何かするのかもしれません。ウエディと連携して、尾行に回ってください」
「……ずいぶん余裕だね」

 竜崎が振り返る。花子は画面を睨んだまま、顎で火口を指す。左手が、神経質な動きで唇に触れる。

「こいつ。あれだけ奇妙な独り言を言ってたってのに……履歴書をきちんと片付けているし、足取りだって急いだところはない。もう焦る必要はないとでも言いたげだ」
「ええ……」

 そこだ。竜崎も気にかかっていた。火口の精神分析では、幼稚でがさつ、考える前に行動が先走るところが見られる。それに照らし合わせると、名前を書き留めるだけで事務所を去るというのは、奇妙に思えた。その場で殺し、すぐにでも殺せたことを確認したいものでは? それをしない理由とは一体……。
 車に戻った火口は、食い入るようにカーナビに映される番組を見つめる。番組内では、いまだ松田が司会者と話している。

《くそっ! 死なない!!》
「!? どういうことだ? “死なない”って言ったぞ!」
「もう殺しの作業をしたのか……。事務所から出て車に入る間にしたのか……。名前を書くことが殺しの行動なのか……」
「竜崎、どうするんだ? まだ泳がせて観るのか? やはり、顔と名前だけで“死ね”と思えば殺せるとしか……」
「……。松田さんは生きています……」

 どうなっている。竜崎は画面の中の火口を見つめる。
 ここで火口を取り押さえることは可能だ。しかし、殺し方が断定できていない以上、捕らえたところでまた振り出しに戻る可能性を否定できない。どうしても、証拠が必要だ。立件出来るものでなくとも、こちらが逮捕に踏み切れるような何かが……。
 火口が苛立った仕草で携帯を取り出す。怒りのために押し間違えたか、なかなかかかる様子はない。少し間を置いて、海砂の携帯が再び鳴った。応えない相手に、火口は舌を打って通話を切る。
 そうして数分の間、火口はハンドルを握ったままエンジンをかけなかった。暗い車内で、何事かをぶつぶつ呟いている。その音声までは拾えない。次の手を考えているのだろうか。月は竜崎と目を交わし、すぐさまテレビ局に控える総一郎に連絡を取れるよう待機する。

《レム》

 火口の声だ。

《取引だ》
「取引?」

 花子が眉を寄せる。月も同じ表情で、画面を見上げた。

「さっきから言ってる“レム”って……キラの能力は、本当に天からか何かからのものなのか?」
「それは考えたくないですね」
「じゃあレムって何だ?」
「死神?」

 モニターを見つめる竜崎の脳裏に、一つの記憶が蘇る。あれは花子だった。五月のことだ。第二のキラからのビデオテープ。彼女は笑って言った。「世界には目に見えないものが多すぎる」……。

「とにかく、まだ様子を見た方がいいですね。まだ色々出てきそうですし、殺し方もはっきりするかもしれません」

 追手に、テレビ局で待機していた模木とアイバーが加わる。
 次はさくらテレビだろうと予想していた竜崎の思った通りになった。地図を見れば、火口のルートはさくらテレビへの最短ルートと重なっている。番組終了まで一時間を切っている。かなりのスピードで走っているはずだ。GPSの進みも速い。
 そこで、モニターからサイレンが響いた。《そこのポルシェ、止まりなさい》ウエディからの無線。《不味いわね。火口、白バイに捕まった。私はやり過ごすので、アイバーたち、お願い》地図上で、ウエディの発信機が離れていく。先にさくらテレビへ向かうのだろう。
 逃げられないと思ったか、火口の車は大人しく路肩に止まる。その窓を開けさせ、白バイ隊員が中を覗く。

《スピード違反だ。免許証》
《わかったよ……。免許証、どこに入れたかな》
「……おかしくない?」

 呟いたのは花子だ。竜崎はモニターから目を離さないまま、彼女に尋ねる。

「おかしいとは?」
「番組の終わりまで五十分を切ってる。ここからテレビ局まで三十分かかるとすれば、かなり時間は厳しい。のに、警官に怒鳴る様子もない……」

 竜崎は改めて火口を見つめた。鞄に手を入れ、免許証を探している。別段、おかしな点はない。
 と、思った矢先、火口の左手が乱暴にギアを入れた。車は一瞬で白バイを置き去りにした。モニターには映らないが、サイレンの音からして、白バイも追いかけてきているのだろう。だが、それ以上のスピードで、火口の車は狂ったように走っていく。

《火口、白バイを振り切って逃走!》

 模木の声だ。
 そして、それは突然だった。火口を映すモニターからではない。模木からの無線。逃走したと、そう言った模木の奥で酷い音がした。何かが何かとぶつかるような、人間の肉と骨が砕けるような。

《り、……竜崎……》

 今度の声は震えている。あの音。まさか。全員がはっと息を詰める。

《白バイがトラックに追突……ッ、大破!》
「大破……事故死?」
「まずいですね……」

 竜崎は爪を噛んだ。
 火口が見せた動作は、鞄の中に手を入れるだけ……。その時に何かしていたのか? いや、そんな事よりも、白バイ隊員の名前を何かから得られたのかどうかだ。もし得ていなかったら。第二のキラのように顔だけで……?
 違う。顔だけで殺せるようになったのなら、顔を知っている松田も殺せるはず。どうなっている……。
 花子も、竜崎と同じことを考えていた。が、一つだけ異なる。花子には、いま火口が松田を殺せない理由に、見当がついていた。
 取引。
 竜崎は決めた。これ以上は危険だ。マイクを手元に寄せ、人差し指でスイッチを入れる。火口を追う全員に音声が入る。

「皆さん。火口をこれ以上動かすのは危険と考え、“殺し方”はまだはっきりと判明出来ていませんが、証拠は持っていると判断し、火口の確保に移ります。しかし、火口は第二のキラ同様、“顔だけで殺せるキラになった”、その考えの元での確保です」

 つまり、顔を見られてはいけない。それは直接的に死に繋がる。

「ワタリ、警察庁長官に繋いでください」

 短い返事の後、間を置かず通信が繋がる。竜崎は躊躇も前置きもしなかった。

「Lです。キラをとある個人に断定しました。現在国道一号線、日比谷から渋谷方面へ向かっている赤のポルシェ。申し訳ないことに、白バイ警官一人が犠牲になったと思われます。確保はこちらでしますので、そのポルシェには近づかぬよう、全警察官に通達願います」

 それと同時に、隣では月が総一郎に指示を出す。

「父さん、火口がヨシダプロを出た。次のCMから第七対応だ」
《わかった》

 指示を出し終わり、それぞれが自分の役割を全うしていることを確認した竜崎は、予備動作なしに立ち上がる。

「では月くん。私たちも行きますか」
「ああ」
「待って」

 引き止めたのは花子だ。竜崎の進路を塞ぐように立ち、腕を組んで睨みつける。猫背の男と彼女の目線は、ちょうど水平線上にある。

「やっぱり反対。私も連れて行って」
「その話は、事前に済んでいると思いますが」
「納得出来ないと言ってる」
「花子」

 険しい顔をしたのは竜崎だけではない。月は厳しい顔で妹に首を振った。

「見ていただろ。火口は第二のキラのように、顔だけで殺せるようになっている可能性が高い。危険なんだ」
「だから何? 危険なことは男連中に任せて、女は可愛く引っ込んでろって言うの?」

 しかし花子も、ここは引けなかった。火口が第二のキラと同じ能力を得たと分かったからこそ。
 危険度が高いのは、誰もが同じだ。竜崎さえも。
 花子は竜崎を死なせるわけにはいかない。それが花子の目的だから。

「そうは言ってないだろ? でも、僕も父さんも、おまえに危ない目に合ってほしくないんだよ」
「私だって、月にもお父さんにも、危ないことなんてしてほしくない! やるならせめて、私の目の前でやって。私も一緒にいさせて!」
「だから」

 月の声に苛立ちが混ざる。普段なら、花子も月の意見を尊重する。が、こればかりは譲るわけにはいかない。月を見張るために。
 睨み合う双子は、どちらも引く気がなかった。作戦を決める時にも散々揉めた。どうしてもついていくと言って聞かない花子を、最終的に折れさせたのは、父の力だった。その時だって半ば強引に総一郎が話を終わらせたのだ。土壇場になって花子が連れて行けと言い出すことは想定内だった。
 花子の不安を、月は理解している。それでも、妹を連れて行ってやることはできない。花子が捜査本部にいるのは、すべて月のためだと彼は認識していた。妹の自由を奪っておいて、何かの弾みに殺されかねない場所になど、連れて行けるはずもない。
 二人の諍いを仲裁したのは、無感情な声だった。「では、花子さん」双子は声の方に振り向き、まるで同じ仕草で目を見張った。「あんた」花子の声が、より険悪さを増す。

「何してんの?」
「海砂さんを縛っていました」

 先ほどまで竜崎が掛けていたキャスター付きの椅子に、いつの間にか海砂が座らされている。手首足首はバンドで結束され、身体も鎖で縛りつけられるという念の入れようだ。

「月ーっ! 助けて!」
「私が見張れない間に、怪しいことをされても困りますから」

 海砂は暴れたのか、髪が乱れている。竜崎もシャツが肩からずり落ちていた。睨み合いをしている間に、こちらでも戦いがあったらしい。
 ずり落ちたシャツを指先で直し、竜崎はいつもの歩き方で花子の前に立つ。指を咥え、僅かに首を傾げて彼女を見つめる。

「花子さんがいい子に待てたら、私がご褒美をあげるというのでどうでしょう?」
「馬鹿にしてる?」
「いいえ。ただ、思い出したんです。あなたは私より、とても子どもだったということを」

 年齢の話ですよと、竜崎が飄々と言う。花子は月に向ける威嚇とは比べ物にならない獰猛さで竜崎に牙を剥く。

「前々から言っているけど、月が行けるのに私が行けない理由がわからない。年齢だって同じだ。双子なんだから」
「ええ。あなたは賢く、勇敢です。私たちは何も、あなたには資格がないから来るなと言っているわけではない」
「だったら、」
「あなたが賢く、勇敢で、自分にかかる火の粉を振り払う気がないから、連れて行けないんです」
「……は?」
「ご自分で気づいていないんですか?」

 気づいていないのだろうなと、竜崎は知っていた。

「家族を心配する様子を見せる反面、あなたは自分を顧みるところがない。理解していますか? 多くの人間は、双子の兄妹のために自ら監視される生活を選びません。妹が疑われないなら、自分が疑われようとも構わないとは思いません。あなたは自分に興味がなさすぎる。そんな人を危険な場所に連れていくことは出来ない。死んでしまいますから」
「……」
「あなたがご家族をとても大切にしていることは、わかっていますよ」

 竜崎の表情に変化はない。けれど、声はとても柔らかかった。意識したものではなかった。自分自身に内心驚きながら、竜崎は、悪いものではないなと思う。こんな声を出すのも。少し、似ているだろうか。似ているといい。彼らが互いのためだけに聴かせる、あの柔らかさに。

「だから待っていてください。私たち、頑張ってきます。お願いを聞いて、いい子で待てたら、私が一つ、あなたのお願いを聞きましょう」

 月の目が時計を見る。時間がない。竜崎にもわかっていた。それでも、竜崎は花子から目を逸さなかった。「何でもいいですよ」重苦しく聞こえないように、気をつけた。何だったら、踊りながら言ってもよかったかもしれない。
 彼らが平気でやってみせる、相手を大切に、とは、きっとこういうことなのだろう。

「何か危ないことがあれば、私が身を挺して夜神さんと月くんを守るとかでも」
「違う」

 唸り声に似ている。花子は歯を食い縛った。自然、顔が俯く。両手で覆う。

「月とお父さんは当然だよ。でも私は、あんたに死なれたら困るんだ」

 竜崎は目を瞬かせる。

「私に」

 そんなことを、彼は、母親にだって言われた記憶がない。

「お願い」

 顔を覆っているせいで、花子の声はくぐもっていた。表情は見えない。彼女の頬が仄かに赤いのは憤怒のためだったが、それは誰にも伝わらなかった。

「帰ってきて」
「……わかりました」



 



「花子ちゃんって、竜崎さんと、そーゆー関係だったの?」
「……何が?」

 花子は冷ややかに海砂に目をやる。けれども海砂は、そんなことはお構いなしに、縛られたまま楽しそうに笑った。女の睨みなど、彼女は怖くも何ともない。

「いつから好きだったの? 竜崎さんのこと。言ってくれたら、海砂だって協力したのにぃ。ねね、今度はさ、ダブルデートしようよ! それなら竜崎さん付きのデートでも、ミサ、許しちゃう」
「……」
「あっ、ちょっと!」

 呼び止める海砂に構わず、花子はメインルームを出る。

 好き?
 誰が、誰を?
 笑わせるな。

 花子は自室に戻った。火口がさくらテレビに到着するまで、もう暫くかかる。それまでは、モニターを見張っている理由もない。
 部屋は暗い。カーテンを閉めていないために、夜の僅かな灯りだけが床を照らす。明かりを点ける気はなかった。戸を閉め、それを背に、花子は大きく息を吸う。二度、三度、暗闇の中で、ただそれだけを繰り返す。
 落ち着け。怒りに燃える心臓に、花子は言い聞かせた。ここで感情に振り回されて、下手を打つわけにはいかない。ああ、でも。あんまり強く食い縛られた歯が、ぎりぎり音を立てる。
 あの、無感情な目が腹立たしい。どうしてあの男は、ああも人の神経を逆撫ですることが出来るのだ。自分に興味がないなど、当然ではないか。月と粧裕が、父と母が幸福ならば、自分のことなどどうだっていい。そう思うのは、当たり前だろうに。
 あの男は、Lは、花子が普通ではないと言ったのだ。
 無論、竜崎は、決して彼女を傷つけるつもりなどなかった。彼女が家族に向ける愛情を理解した上で、その行動が己の命を危うくするのだと気づいて欲しかっただけに過ぎない。
 けれど、花子は傷ついた。そうと自認するのも酷い嫌悪を感じるほどに。花子は生まれてからずっと、普通になりたかった。普通な妹に憧れていたし、優秀な兄に嫉妬もしていた。優しい父母に、申し訳がなかった。花子は普通ではないから。自分だけが、人間として劣っているから。

「……」

 耐えろ。静まってきた鼓動に、花子は再度、深く息を吸う。闇に漂う無を睨みつける。
 いまだけだ。いまだけ耐えれば、この苦痛に満ちた人生も終わる。想像をしろ。負けたあの男が、一体どんな顔をするか……。滑稽なものだといい。生涯をかけても花子に勝つことは二度と出来ないのだと、思い知ればいい。その時、本当に花子は報われる。その人生のすべて。信仰のすべてが。
 花子はそう、信じている。



 



 モニターに映る一部始終を、花子は縛られたままの海砂と見守った。
 花子が見られたのは、火口が取り囲まれ、車から出ざるを得なかったところ、何故か総一郎が火口の鞄から黒いノートを取り出したところまでだ。それ以降に何が起こったのか、火口の車内に取り付けられたカメラには映らず、音声も上手く拾えなかった。
 そのおよそ三十分後、本部の電話に月から連絡が入る。総一郎が肩を負傷したために病院に向かうことを告げられ、花子は血の気が引いたが、少なくとも全員命に別状はないと教えられ、息を吐いた。兄の声が、優しく妹を諭す。

「もうじき帰るから、いい子で待ってろよ」
「うん。早く帰ってきてね」
「そうだ。僕からもご褒美をやろうか」

 笑う月。兄の声があまりに明るく、違和感があった。火口を上手く捕らえられたのが、そんなによかったのだろうか。しかし、火口は月たちの目の前で死んだと聞いた。死因は判明していないが、突然倒れたと……。月が、殺したのだろうか。キラの能力が判明したのか、月は電話口で話さなかったが、兄の機嫌から考えると、そうであっておかしくない。むしろ、そうでなくてはならないのではないか。
 これがすべて、月の計画ならば。

「あっ!」

 退屈そうにモニターを眺めていた海砂が、喜びの声を上げる。思考の海に沈んでいた花子は、その声にはっと顔を上げた。見れば、エントランスに模木と松田、何故か相沢と、もう一人会ったことのない刑事の姿がある。父はいない。その後ろには、月と竜崎がついてきている。
 メインルームにやってきた面々は、大捕物を終えたにしては、深刻な顔をしていた。花子は海砂の拘束を解いてやり、一行を迎える。海砂は真っ先に月に飛びついた。「松田さん、模木さん、お疲れ様です。相沢さんも、おかえりなさい」「ただいま、花子ちゃん」挨拶を交わしながら、花子は月を振り返る。月が視線に気づく。右側に海砂を纏わりつかせたまま、月は妹に向かって、たおやかに微笑んだ。

「ただいま、花子」
「……うん」

 花子は知る。やはり、すべて兄の計画だったことを。

「おかえり、月」

 キラが復活した。




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