15.艶を増す悪意


ある人は死ぬが、悪意そのものは死なない
  ――モリエール


 ヨツバの面接を終えた海砂は、芳しい成果を上げていた。ヨツバは各方面での広告に海砂を採用する方針を決定し、海砂の携帯には既に数人からプライベートな誘いも届いている。
 当初の計画では、この誘いに乗っていき、七人のことを探る予定だった。上手くいったと笑う海砂に、しかし竜崎が作戦の中止を言い渡す。一ヶ月。奈南川が作ったこの時間の間に、キラを捕まえること。それを目指し、竜崎が総一郎を説得し、全員が協力する運びとなった。ここで正義感に突き動かされた総一郎に暴走されるよりは、多少面倒なことがあっても抱え込んでいた方が状況のコントロールをしやすいと判断してのことだ。そして、その代わりに竜崎は海砂を使った作戦を白紙に戻す羽目になった。
 せっかく上手くいったのにと憤る海砂に頭を掴まれながら、竜崎は慌てて「私の意見ではありません」と口走る。声は言い訳じみていて、実際他者に責任を擦りつけようとした言葉だった。

「このやり方ではミサが危ないんだ。CMに出るなとは言わないが、これからは第二のキラ容疑やLに拘束されたかもしれないということは否定していく。海砂は模木さんにガードしてもらい、タレントとしてだけ動くんだ」
「……」

 竜崎を叩く手を後ろから月に抑えられ、海砂が月を仰ぎ見る。そうして僅かに考えるように間を空け、手を下ろした。

「月がそうしろって言うならそうする。……じゃ、ミサ疲れたし、明日のロケ早いから寝るね」

 それ以上ごねることもなく、さっと自室に引っ込んだ海砂に、花子は内心首を傾げた。やけに大人しいような気がするが……月に諌められたからか……?
 竜崎も海砂に対し、花子と同じ違和感を抱いた。けれど、言及するほど強いものではなく、強情な海砂が折れるのであれば、そこを突いて面倒事を起こしたくはない。
 両者が己の違和感を見逃すことを選択し、弥海砂が作戦から外れることは、円満に済んだと思われた。

 翌日、花子はふと思い立って壁にかけられた時計を見上げた。時刻は午後四時を回ったところだ。

「そろそろ、模木さんたち帰ってくるんじゃないっけ?」
「うん? ああ、そうかもな」

 月も時計に目をやる。ドラマのロケ撮影のある海砂と、マネージャー役の模木は、朝から捜査本部を離れていた。

「豚バラ、ちょっと量が半端なんだよね。スーパー寄ってきてくれないかな」
「連絡してみたらどうだ?」
「今日は花子ちゃんがお料理当番?」
「ええ」

 弾んだ声の松田に、花子はドライに返す。

「模木さんほど上手でなくて申し訳ありませんけど」
「そんな! 花子ちゃんのごはん、僕好きだなー。素朴っていうか、優しい味がしてさ」

 それは。松田に悪気がないことを理解しているために表情にこそ出さなかったが、花子は内心眉を寄せた。素朴な味とは、褒め言葉としては微妙だ。

「松田さん、そういうのはよくないと思います」
「えっ」

 竜崎は背中を向けたまま、何処となく棘のある声で松田を刺す。慌てた松田が「いやいや、変な意味じゃなくてね?」と弁解に走るも、総一郎の鋭い視線に撃沈した。しゅんと小さくなって資料に向き直る松田を一瞥し、花子は竜崎を振り返った。

「模木さんに連絡してくれない? 豚バラ追加か、メインになりそうなもの買ってきて欲しいって」
「……」
「言っておくけど、私はこんなこといつだってやめたっていい」

 明らかに面倒くさがる竜崎を、花子が睨みつける。彼女の言う通り、捜査員の食事の面倒を見ているのは、彼女の善意によるものだ。渋々、ワタリへ繋ごうとした竜崎のパソコンが、一瞬早く通知を鳴らした。

「竜崎。模木さんからです」
「はい」

 たったいま連絡を取ろうとしたところに、相手からの連絡。何かあったかと、全員が竜崎の周囲に集まる。それを裏切らず、繋がれた画面から切羽詰まった声が届いた。

「すいません。弥に東応女子医大病院で騙され、見失いました」
 逃走。
「何をやってるんだ? ミサミサ」
「それを言うなら、模木だ。何してたんだ」

 流石に総一郎の顔は渋い。警察を辞職したと言え、元刑事が素人にしてやられるなど、あってはならないことだ。

「……まあ、遊びたい盛りにずっと監禁では、気持ちはわかりますが……」

 竜崎の言葉に、花子は総一郎の隣で目を細めた。月が携帯を手に取るのを視界の端で確認する。外に出る海砂といつでも連絡がつくよう用意された携帯からは、無感情な自動音声が返ってきた。電源が切られている。
 ……おかしい。
 花子は確信する。
 やはり、昨夜の海砂は妙だった。本当かどうかは知らないが、あの女は「月のためなら喜んで死ねる」とまで言っている。それを、ああも大人しく引き下がるなど、普段の態度を考えればあり得ない。そして、この逃走。模木の話では、知り合いと入れ替わる算段をつけていたらしい。計画的。とくれば、弥の目的は……。
 しかし、それでは話が繋がらない。浮かんだ可能性を、花子は否定する。
 弥海砂が個人的にヨツバの役員に接触しに行ったとして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、彼女はキラが誰かなど、勿論特定出来ていないはずだ。その状態で下手に探るようなことをすれば怪しまれ、最悪こちらの捜査に勘付かれかねない。月に褒められたくて先走ったか? いや、流石にそこまで馬鹿ではないだろう。
 竜崎は、模木に捜査本部へ戻るよう伝える。本来であればすぐにでも連れ戻すべきところであるが、連絡がつかない上に居所も不明なため、捜索するとなるとそれなりの手間がかかる。町中の監視カメラ映像を辿っていけば居場所は掴めるだろうが、あまり警察に頼るのも得策とは言えない。加えて海砂の目的が判然としないこともあり、取り敢えずは様子見で、と竜崎は指示を出す。遊びに出たいだけならば、そのうち帰ってくる可能性も高い。
 問題は、そうでなかった場合だ。

 懸念は懸念に終わった。午後八時を回った頃、捜査本部のエントランスが開く。はっとしてモニターを振り返ったのは模木だ。彼にしては珍しいミスに、戻ってきてからずっと消沈している。
 エントランスに立った海砂は、無邪気な笑みでカメラに手を振った。「モッチー、ミサでーす。入れてー」
 帰ってきた海砂は、誰のものとは知らぬナース服を着ていた。誰に小言を言われる前に、携帯を胸の前にかざす。

「これ聞いて録音したの。携帯って超便利」
《俺はキラだから、海砂ちゃんに信用してもらうために、いまから犯罪者裁きを止める。そして俺がキラだとわかってもらえたら結婚だ》

 火口の声だ。

「!?」
「す、すごいよミサミサ!」

 最初に声を上げたのは松田だった。両手で拳を作り、興奮も隠さず、目を輝かせる。

「これで犯罪者裁きが止まったら、キラは火口ってことに……。局長が一番気にしてた犠牲者も減らせる!」
「うむ」
「海砂、どうやってこれを火口に言わせたんだ?」

 月の質問に、海砂は得意げに笑って答えた。

「あいつ、ミサにメロメロだもん。キラなら結婚するって言ったらこうなったんだよ。それにあいつ、ミサを第二のキラだと思い込んでるし」
「馬鹿! そこだけは必ず否定しろと言ったはずだ」
「で、でももう、これで火口がキラなんだから、捕まえればいいはずじゃ……」

 眉を下げる海砂に、月は渋面で首を振った。

「いや、七人で“第二のキラである海砂を引き込むために”犯罪者裁きを止めると言う話し合いをされれば、誰がキラなのか、わからなく……」
「月、それは奈南川に訊けば解決するんじゃない?」

 花子はさりげなく海砂の隣に立った。長身の彼女からは、海砂を見下ろす形になる。横目で海砂の顔貌を観察しながら、声に熱が入らないよう気をつけ、花子は腕を組んだ。

「火口が本当にキラの能力を持っているなら、誰にも告げずに裁きを止めるだろうし……、そうでなければ、必ず会議を通してキラに要望を出すはず。火口の個人的な問題に、キラがどこまで応じるかはわからないけどね。とりあえず、奈南川に聞けば火口の動きは把握できる」
「しかし、奈南川が本当のことを言うとも限らないのでは?」
「いや……今回は花子が正しいよ、父さん。この状況だ。火口がキラだと教えてやれば、L側につくしかないと考え、嘘を吐くはずがない」
「……どちらにしろ」

 デスクと向かい合い、全員に背を向けていた竜崎が言葉を発する。骨のような指先が角砂糖を摘み、積み上げる。不安定なバランスに見えるタワーは、意外なことに竜崎が新しい砂糖を乗せてもぴくりとも揺らがなかった。また一つ、タワーを高くしながら、竜崎は虚空を見つめた。

「このまま犯罪者裁きが止まれば……、火口はキラの能力を持っている。それはガチです」
「そうなるな」
「やった!」

 海砂が胸の前で、小さくガッツポーズを取る。その声を背に、竜崎は横目で松田を探した。

「こういうのを手柄って言うんでしょうか、松田さん」
「……」
「そうも言ってられないぞ、竜崎。この状況では、まだ殺し方がわからない」
「そうなんですよね……。火口を捕まえるより先に、どう殺しているかが欲しい……」

 花子もだ。彼女に必要なのはキラの能力の詳細と証拠。それを竜崎たちよりも早く手に入れること。
 だが、この状況では“より早く”というのは難しそうだ……。であれば、ほぼ同時を狙うか? それとも、竜崎たちが“キラの能力”を狙うなら、花子は“第二のキラの能力”を狙うか? どちらにせよ、キラの能力には物証が残る。ならば、第二のキラのそれも、どこかに存在しているはずだ。

 花子は兄と竜崎のやりとりに意識を向けているふりをして、海砂を具に観察していた。捜査本部に戻ってきてからこの瞬間まで、嘘を吐いている様子はない……。ならば、嘘ではないところに、彼女が隠しているものがあるはずだ。
 盛り上がりを見せる捜査員たちからするりと離れ、花子は音もなく部屋を出る。誰も彼女を気に留めない。



 



 弥海砂は、何故火口を選んだ?

 誰もいない会議室。キャスター付きの椅子を引き、花子は腰を下ろした。細く開けられたブラインドの外には、新宿の夜景が覗く。明かりも点けず、望洋とした暗闇の中、花子は左手で唇を触った。
 ただの偶然か? あの女は三人から個人的な連絡を受け取ったと言っていた。そのうちの一人を選んだだけ……確率は三分の一。ない話ではない。が、上手くいきすぎてはいないだろうか? その、連絡をよこしてきた三人の中にキラがいて、弥がたまたまそれを引き当てた? いいや、思い出せ。ヨツバの面接から弥が戻ってきた時のことを。やけに大人しくはなかったか? 竜崎もそれを気にしていた。あの時既に、この策を考えていたのか? とすれば、面接を受けた段階で、弥はキラに目星をつけていた、そう考えるのが自然だ。しかし、一体どうやって……。
 弥は、まだ持っているのだろうか。第二のキラの能力を。
 恐らく、第二のキラの能力とは、花子が考えるもので間違いない。それがあれば、キラを火口だと断定出来ることも肯ける。
 だが、月は完全にキラの能力も、キラであった記憶も失っている。あれは演技ではないと、花子には断言できる。となれば、弥も同様に能力と記憶を失っていると考えるのが筋ではないか? キラと第二のキラでは、そこも異なるということか?

「……」

 体重を受けた背もたれが、ギイと軋む。ゆらゆらと椅子を回転させながら、花子は尚も思考の底に潜っていく。
 最初からやり直そう。そもそも、ヨツバにキラが移ったのなら、キラの能力を移した者がいるはずだ。月ではない。竜崎は月がキラだと確信していた。大学生の身分で、関係のない会社役員に接触すれば、必ず把握されていたはずだ。竜崎が月とヨツバの関係を指摘しないということは、そこには何もないということ。では、移したのは誰だ? 弥海砂は拘束されていた。他に協力者がいた? そんな影はどこにも……。

「……死神」

 が、いるとすれば、どうだろう。
 完全な静けさは、花子の味方だった。暗闇の中で花子は笑う。
そうだ。死神。何故、忘れていたんだろう。第二のキラははっきりと言っていたではないか。お互いの死神を、と。
 突飛だろうか? けれど、これなら説明がつく。弥海砂が火口卿介を選んだことも、キラの能力が月から関係のないヨツバの人間に移ったことも。キラの能力、そのものも。月と弥海砂が揃って記憶を無くしたことにも、死神の仕業と考えれば。
 無論、こんなことを言ったところで、誰も信じはしないだろう。だから花子は、口に出す気はなかった。兄にさえも。だが、彼女は知っている。この世には目に見えないものがとても多いことを。それは彼女の実感でもあり、かつて彼女自身が言われた言葉でもある。
 ゆっくりと椅子を回転させ、花子は足を組んだ。「ふふ……」魚の骨にも似た指で、口元を抑える。死神。そう、死神。そんなものがいるとすれば、彼女の悲願も叶えてくれるかもしれない。
 まあ、自分で叶えるけども。
 弥が火口を選んだことに死神が関与しているならば、その死神は弥海砂の味方だ。
 覚えておこう。



 



 部屋に戻った花子を、月が振り返る。

「どこに行ってたんだ?」
「お手洗い」

 さらりと嘘を吐き、花子は甘えるように月の隣に身を滑り込ませた。「それで?」兄の、端正な顔立ちを見上げる。

「話はまとまった?」

 キラの殺しの方法を手に入れるための。

「松田さんが身体を張ってくれることになりました」
「え?」

 竜崎の言葉に、花子は目を丸くして松田を振り返る。

「身体って」
「まあ、身体と言うか……」竜崎は前歯で角砂糖を噛み砕く。「命と言うか」
「はあ?」
「僕がやらせて欲しいって言ったんだよ、花子ちゃん」

 竜崎に向かって顔を歪めた花子に、松田が慌てて弁明する。

「作戦からして、僕が適任だろうって……。ほら、僕は一度、奴らに殺されかけてることだし」
「作戦って?」
「さくらテレビを使って火口を引っ掛けるんだ」

 キラの正体がわかったと、松田がテレビ出演するのを火口に見させる。一度会議を盗み聞きされていると疑惑のあった松田が生きていたとなれば、火口は必ず信じる。どうにか松田の本名を突き止め、殺そうと動くはずだ。こちらは火口の行動を先回りし、監視しておく。火口が松田を殺そうとする時、必ず、キラの殺しの方法を得られる。

「……なるほど」
「質問は?」
「いや……」

 いい策だった。花子は唸る。それこそ、松田が危険に晒される一点を除けば、完全無欠と言ってもいい。

「……どの道、この作戦を決行するには数日かかる。キラが犯罪者裁きを本当に止めるか見なければいけないし、各所への根回しも必要だ」
「そうですね」
「その間で、松田さんに似た人間を見つけることはできない?」

 竜崎は振り返った。
 花子が思いの外沈痛な面持ちをしているために、彼は些か驚いてその細面を眺めた。神経質そうな眉根を寄せ、唇はきゅうと引き結ばれている。竜崎は、彼女の手が拳を握っていることに気がつく。意外だった。彼女にとって、大切なのは自分の家族。それ以外の人間などどうでもいいのだと思っていた。「花子ちゃん……」残念さと、僅かな嬉しさを混ぜた声で、松田が呼ぶ。月は妹の肩を抱いた。

「それは出来ない。わかってるだろ?」
「……うん。ごめん……」

 答えたのは月だ。花子は俯く。
 キラの殺人には顔と名前が必要だ。火口は松田の顔を知っているが、名前は知らない。恐らく大丈夫だろうと想定しての策なのだろうが、第二のキラのこともある。もし、火口も顔を見れば相手を殺せるようになれば……松田は確実に死ぬだろう。だからといって、関係のない第三者を危険に晒すなど、許されることではない。
 が、花子は誰かが死ぬことなど、どうだってよかった。松田に・・・死なれては困るのだ。
 ロールプレイをしたことがある人間なら想像できるだろう。ゲームにはナビゲーターが存在する。プレイヤーにヒントを与えるための存在。花子はナビゲーターに松田を指名した。既にヒントは与えている。ここから松田が欠けるのは想定外だ。完璧なゲームを仕掛けてこそ、完璧な勝利は訪れるのだから。
 何も知らない松田は、素直に感動していた。この間慰めに来てくれたことといい、あの人見知りだった花子ちゃんが自分に心を開いてくれている。嬉しさを頬に滲ませながら頭を掻き、松田は「大丈夫だってぇ」と暢気に言った。

「いざとなったら、火口が何かをする前に、局長たちが取り押さえてくれることになってるし」
「……その油断が、命取りにならなければいいんですけど」
「えっ」
「冗談ですよ」

 投げやりに微笑んで、花子はふいと顔を逸らす。
 松田以外に適任がいるとしたら、弥海砂か……。花子は顔を傾け、垂れた髪で目線を隠しながら海砂を窺った。こちらからの誘導がなくとも、自然に情報開示をするような人間は、捜査本部に限れば松田と海砂しかいない。模木は無口すぎる。松田が死んだら弥かと、花子は胸の内で呟いた。吐き気がした。出来ることであれば、ゲームが終わる前に第二のキラを名乗った女も殺しておきたかったが、それは難しそうだ。

 計画は面白いくらい、滞りなく進められた。キラによる犯罪者裁きは翌日からぴたりと止まり、火口の携帯から海砂に連絡が入る。《約束通り、裁きを止めた。俺がキラだとわかってくれたら結婚しよう》。奈南川への連絡で、会議にてキラの犯罪者裁きの頻度が言及されていないことへの確認も取れた。これにより竜崎は作戦を進める決断をした。そのまた翌日にはウエディにより、火口の車六台すべてに盗聴器、発信機及び監視カメラの設置が完了。海砂のプロダクションへの交渉は月が担当し、こちらも滞りなく社員全員を沖縄旅行へ行かせる手筈が整った。 
 すべての準備を終え、最終確認を済ませた竜崎が、手短に告げる。

「明日、火口を捕まえる作戦を実行します」

 声を上げずとも、全員が温度を上げる感覚を共有した。総一郎は固唾を飲んで拳を握る。松田は緊張した面持ちながらも、覚悟を決めた様子で頷いた。緊張を緩和させるためか、何らかを口走ろうとし、結局曖昧に笑って済ませる。模木がその肩を、励ますように叩く。

「いよいよだね」
「ああ」

 月は横に並ぶ妹を見下ろした。この数ヶ月で、いくらか痩せただろうか。ほぼ外に出ない生活のために筋肉は落ち、食事量も減っているのを知っている。折角大学に入学したのに、学校に行けてすらいない。自分のせいで妹に不自由を強いていると、月には負い目があった。

「緊張してる?」

 自分を見下ろす兄に、花子は首を傾げる。月は首を振った。茶目っ気を含んで口端を上げる。

「全部終わって大学に戻ったら、大変だぞ。僕はいいけど、おまえ、勉強についていけるのか?」
「駄目かも。三回くらいは留年許してもらわないと」

 花子は朗らかに肩を竦め、兄そっくりに笑って父を振り返った。「どう? お父さん」知らず力の籠った肩を弛緩させ、総一郎は態と渋面を作る。

「三回は多すぎる」
「お詫びに私が勉強を教えますよ」

 竜崎が肩越しに振り返って、花子を見上げた。

「あんたが?」
「ええ。日本一の大学程度でしたら、さほど難しいことはありません」

 わかっていないことが、まだ多すぎる。夜神月。夜神花子。
 前回、竜崎は負けた。キラを追い詰めたと思ったところで、奴はまんまとこの指の間だからすり抜けて見せた。夜神月。一体どんな手を使ったのか、竜崎にはわからない。が、今度の相手は火口だ。必ず捕える自信があった。そして火口を捕まえれば、自ずと本当のキラ……かつての夜神月にも迫れるはずだ。
 そして、夜神花子。彼女は自身の兄がキラだと確信していた。何故そこに至ったのか、これだけ間近で観察していても、まるきり尻尾を掴ませない。それはいまの夜神月がキラではないからなのか、はたまた別の理由からか……。しかし、兄の正体に近づけたなら、彼女が何を隠しているのか、その核心を暴けるだろう。
 竜崎は夜神月がキラでないとも、夜神花子が無実だとも思っていない。彼らはその意識がなくとも、共犯関係にあると彼は断定している。夜神月はキラだった。夜神花子はそれを隠していた。どちらも事実だ。

 竜崎は二つ、間違えている。双子の関係性。彼らは共犯者ではない。夜神月の目に、夜神花子は映っていない。もう一つ。花子の目的。キラへの協力でも、キラを逃すことでもない。
 竜崎を死なせないことだ。
 そして彼女が仕掛けるゲームは、完成しつつある。

 竜崎は、まるで無垢な様子で花子を見上げる。真っ黒な目に、花子が映る。竜崎は驚いた。夜神花子は竜崎を見下ろし、目元を和らげた。はにかんだ表情を作る――花子の笑顔を見たのが、初めてかのように、竜崎は感じた。

「じゃあ、頼もうかな」

 そんな未来はない。彼らが肩を並べて、真っ当な話をするなど。
 彼らは敵だ。

「……。では皆さん、今日はよく休んでください。特に松田さん。明日はいつものドジは利きません。私たちが出来るフォローには限りがあります」

 意識的に硬い声を出し、竜崎はモニターに向き直る。しかし何も見てはいなかった。網膜に先ほどの花子が焼きついたかのように、未だ彼の脳裏にはくっきりと映っている。剥がれない。
 竜崎はそれとなく、心臓に手を当てる。奇妙な高鳴りがあった。過去、いつだったか、確かに感じたことがある。けれど、それが何なのか、思い出せない。何かがおかしい。何がおかしいのか、彼にはまだわからない。



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