13.5


秘密は秘密のままであることによって、いちばんよく守られるだろう
 ――テイラー「政治家」


「松田さん」

 ダウンライトが柔らかに灯る。松田が振り返ると、カップを二つ手に持った花子が立っていた。どことなく困った顔をしているように見え、松田は笑う。「まだ起きてたの」彼女が毎日同じ時間に寝起きしていることは、捜査本部の誰もが知っている。時計を見ると、彼女の就寝時間までもう幾らもない。

「そんな……子どもみたいに言わないでください」
「ごめんごめん」

 松田から見れば、未成年の花子は充分に子どもなのだけど、それを言わないだけの心遣いは松田にもある。けれども表情が和らぐあたりは詰めが甘い。松田の表情に、彼が何を考えているのか花子は察したが、そこで不機嫌さを見せない程度には彼女は幼くない。
 ヨツバ本社で危機に陥った松田を竜崎の計案で救い、ようやっと一段落がついた。救急車から捜査本部に戻った松田は総一郎からは勿論、竜崎にも手厳しく叱責され、今回ばかりは月も助け舟を出さなかった。模木は何も言わないながらも、厳しい顔をしていた。当たり前だ。やっとの思いで掴んだ手がかりをみすみす逃すどころの話ではなかった。キラは死の直前の行動を操れる。松田はおろか、松田から辿り、全員の命が危険に晒されたかもしれないのだ。
 頭を冷やしてこいとメインルームから追い出された彼は、同じ建物内に構える自宅に帰るのも気が乗らず、だだっ広い会議室で一人、電気も点けずに項垂れていた。大きく採られた窓からは、都心の夜景が見渡せる。それをぼんやりと眺めながら、他の面々が今回の失態の後始末に追われているのだと思うと、遣る瀬なかった。
 カップを手にしたまま花子は暫し逡巡し、結局は松田の隣を選んだ。力なく座る松田の隣に静かに腰を下ろし、緩やかに湯気の昇るマグカップを、そっと彼の前に置く。

「もう遅いですけど……」
「ありがとう」

 松田は差し出されたカフェオレをありがたく受け取り、両手を温めるように包んで持つ。
 こっそり横に目をやると、花子は気まずそうな顔をしてマグカップに目を落としていた。手に持ってはいるものの、飲む様子はない。彼女が生来の人嫌いであることは、以前総一郎に連れられて夜神宅に訪問した時から知っていた。人当たりのいい兄妹と違い、彼女だけは最初に挨拶をしたきり、部屋に篭って出てこなかったことを思い出す。そんな彼女が無理をしてまで、こうして気を遣ってくれていると思うと、ありがたさと同時に申し訳なさを覚える。

「はは……ついにやっちゃったー、みたいな」

 明るく笑い飛ばそうとして失敗をする。余計惨めな気分になり、二人の間の沈黙はより気まずいものになる。いたたまれず、松田は肩を縮こませた。しゅるしゅると身体から力が抜け、萎んでいくような錯覚を覚える。

「花子ちゃん、はさ……月くんといて、辛いと思ったことはない?」
「え……?」

 気がつけば、花子が不思議そうに自分を見ていて、松田は己の失態に気がついた。はっと口元を押さえるも、一度吐き出した言葉は取り戻せない。言うつもりがなかったことを言ってしまった。

「ご、ごめん! 変な意図があったわけじゃなくって……」
「いえ」

 慌てる松田に、花子は軽く首を振った。「気にしないでください」こういった質問はよくあったし、この程度で彼女が引け目を感じないのも事実だ。

「やっぱり僕って駄目だよね……」

 口に出すとその事実がより一層迫ってくるようで、けれども言わずにはいられなかった。

「こんなこと言ったら怒られるだろうけど……僕はいまの時間が楽しいんだ。多くの刑事が逃げ出した、世界的な事件を僕は追っていて、優越感、って言うのかな……それも確かにあって。勿論、それだけじゃないんだけど。……何だか、何だかここにいるだけで、僕は特別な誰かになれた気がしたんだ」

 本当はそんなことはない。松田桃太は松田桃太だ。世界一の名探偵や、警察局長と共に働いたって、それで自身の能力が上がるわけではないのに。

「いままで目立ったことがないって言うか、ぱっとしない奴だったからさ。はしゃいでるところがなかったわけじゃないんだ。それで局長に怒られたこともあるし。でも、こんなことをしてしまって、このまま僕がここにいていいのかなって……」

 次々に捜査員が降りていく中、残ることに一切の迷いがなかったとは言わない。それでも松田は熱い正義感を持ってキラ捜査に臨むことを決めた。正直に言えば、キラの裁きを、それも特に悪質な事件の犯人が裁かれた時に、痛快に感じることはある。彼自身が強い立場の人間ではなかったから、キラが弱者を守っているように見えることもあった。だとしても、人を殺すのは悪いことだと、彼は疑ったことがない。キラを捕まえたいという思いは他の誰に劣るものではないと、松田は思っている。
 ただ、場違いだった。最初に残ったメンバーは、刑事の中でもとりわけ優秀な者たちだった。Lは言わずもがな、月は世界一の探偵に匹敵するほどの秀麗さを見せた。誰が口にすることもなかったが、自分の能力が劣っていることは、火を見るよりも明らかだった。
 自分が特別な人間ではないと、この歳になればもう知っている。他の面々との差に露骨に落ち込むようなことはなかったし、普段はさして気にしていない。ただ時たま、ふっとそれに焦点を当ててしまうと、どうしようもなく焦るのだ。何かしなければと、焦り、空回って、失敗する。いつもそうだ。
 松田から見て、一番己に近いのは花子だった。花子は普通の大学生だ。月のように突き抜けた天才性は持っていない。しかし彼女は松田のようにミスが多いわけでもなければ、仕事は丁寧で、何より気が利く。散らかり始めた書類をまとめるのはいつも彼女だったし、手間がかかるデータの作成は、気がつけばいつも彼女がやっていた。松田のミスを、相沢に気づかれる前にこっそり修正してくれていたことだって、何度かある。

「月との差に悩んだことはあんまり……子どもの頃はそれどころじゃなかったので」
「……え?」

 花子は松田と目を合わせず、マグカップを見つめたまま答えた。松田は首を傾げる。それどころではなかったとは、どんな意味だろう。
 そこには言及しないまま、花子は続けた。「比べるには、私たち、何もかもが違いましたから」

「中学の時だったかな、粧裕……妹にも、同じことを訊かれました。お姉ちゃん、お兄ちゃんといてしんどくないって。あの子学校で、月の元担任に何か言われたらしくって。他からもたまに訊かれます。皆やっぱり、気になるんですね」
「そりゃあ……月くんは特別だから」

 松田にとって月は、ただの憧れにしかならない。あまりに優れすぎていて、比較しようという気さえ起きなかった。けれどそれは、松田が他人だからだ。生まれた時から、自分よりも遥かに秀でた者がずっと隣にいたらと考える。松田には、それはストレスなのではないかと思えた。
 花子は緩く首を振る。

「私にとって月は、比べる相手ではないんです。一緒にいることが大切で、月が健やかなら、私べつに、自分がどんなに惨めだって構わないというか」
「健やかって」

 まるで母親の台詞だ。顔を上げた花子は、不器用に頬を持ち上げて松田を見た。

「それに私、実際に周りから比べられたことがないんです。友だち……はいないから、クラスメイトは多分、私と月を見比べてあれこれ言ってたと思うんですけど、お父さんとお母さんは、一言もそんなこと言わなかった。花子はお淑やかないい子だって言われて育ったんですよ。笑っちゃうでしょ」
 他の子とかけっこして遊ぶのが嫌だっただけなのに。その言い草には、松田も思わず笑ってしまった。竜崎に食ってかかる花子は、到底お淑やかなお嬢さんとは言えない。

「それに、月がいつも、私のことを褒めてくれた。花子の考え方は面白い、おまえと話してると楽しいよって。私にとっては月が一番大切なんです。だから、他の連中が何て言おうが、月が私を好きでいてくれるなら私はそれでいい。……たとえ、世界中の人間が私を」

 そこまで言い、花子ははたと言葉を切った。「花子ちゃん?」首を傾げる松田に、緩く首を振って返す。「いえ……」気を取り直す様に、彼女は温くなったカフェオレを舐めた。

「目に見えないものが見えるようになったらいいなって、思ったことはありませんか?」
「え?」
「たとえば、死神とか」

 急な話題に松田は驚くも、花子の唇が僅かに笑んでいることを見て、笑う。

「それ、キラのこと?」
「ええ、まあ。キラが死神と一緒にいるかはともかくとして……。単純に、そんな存在が見えたらどうだろうなと」
「ははっ。死神かあ。見えたら面白いかもね。ちょっと怖い気もするけど」
「心の中を覗ける眼鏡があったら便利だなって、童謡の歌詞にありましたよね」
「あったあった! えー、花子ちゃんたちの世代も、あの歌知ってるんだ?」
「知ってますよ。たとえば君が傷ついて、とか」
「うわっ、懐かしい!」

 一頻り子ども時代の記憶に思いを馳せ、満足した松田を見た花子はそれとなくその顔を窺いつつも、不自然にならないよう、慎重に言葉を選んだ。

「でも、もし本当に、目には見えないものが見える……死神が見えるなんてことになったら、大変ですよね。きっと普通に生活していられませんから」
「そうだよねー。運転してる時に急に曲がり角からやって来ても困るし、僕は見えなくてよかったなあ」
「私も、見えない方がいいと思います。もし、死神がいたとして……キラには死神が見えているとしたら、月の双子でいるより、よっぽど大変なんじゃないかな」

 冷め切ったカフェオレを喉に流し、花子は大袈裟に肩を落とした。

「松田さんを慰めに来たのに、余計なことを話しました」
「やっぱり慰めにきてくれたんだ」
「それは、まあ……」
「ありがとうね」

 初めて会ったときには挨拶をしたきり部屋から出てきもしなかった彼女が、いまこうして隣に座り、気遣ってくれることが嬉しい。

「さて、と。いつまでも落ち込んでたって仕方ないし、今日はもう寝て、明日からまた働くぞー!」

 ぐいっと一気にマグカップの中身を飲み干して、松田は弾みをつけて立ち上がる。まだ若干空元気感は拭えないものの、その表情は先ほどよりも余程すっきりとしていた。

「花子ちゃんも寝る時間でしょ?」
「はい」

 花子は松田を見上げる。
 ヒントが何もなければ、それはもはや問題ではない。パズルには正解の形を作るピースが必要なのと同じ。いくら世界一の天才だとしても、それこそ他者の心の中を覗けなければ、この問題に正解は出せない。完璧な問題には、完璧な答え以外を受け入れる気はなかった。終わりは近い。来る日のために、花子は松田を選んだ。この男にヒントを預けておく。竜崎は見逃すだろうか? あの男は松田を見縊っている……。ヒントは見つけられるために隠している。が、見逃されても構わなかった。取るに足らないと捨て置いたもののために奴が負けることになれば、これほど愉快なことはない。

「……私は、松田さんが捜査本部にいてくれてよかった」
「ええ?」

 照れるなあ。呑気に顔を緩ませ、頬を掻く松田に、花子は「本当ですよ」と言って口端を上げた。
 種は蒔いた。芽吹くだろうか。



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