12.5


貧乏には耐えられる、でも寂しさには耐えられない。
 ――オノ=ヨーコ


「竜崎といる時の花子は、なんだか僕の知ってる妹じゃないみたいだ」

 竜崎は、隣に座る青年の目を、じっと見つめた。
 夜更けだ。二人の他には誰もいない。総一郎も松田も模木も、既に自室に戻っている。日中、弥の監視に使われているモニターには現在、左半分に花子の自室が映されていた。明かりは消えており、赤外線カメラが布団の膨らみだけを捉えている。判を押したように生活リズムを変えることのない花子は、軟禁が始まってからも決まった時間に就寝している。

 竜崎は、目の前に置かれた瓶を開けた。スプーンを差し込み、掬い出す。とろりと黄金色の蜜を纏ったアーモンドが顔を出した。ナッツの蜂蜜漬け。仕事の合間、花子が用意したものだ。

「夜神さんの前だと、ちょっとお行儀がいいですよね」
「あいつ、父さんには負い目があるから」
「負い目?」
「子どもの頃、帰ってきた父さんを怖がってあんまり泣くから、一時期父さんは家に帰ってこれなかったんだ」

 スプーンを咥えたまま、竜崎が目を瞬かせて月を見上げる。彼の言わんとするところを察し、月は「ああ」と眉を垂らした。困ったように微笑んでみせる。

「小さい頃の話だけどね。花子は癇癪というか、泣くのが酷くて……。母さんがあやそうと近づいても駄目だった。それでも、粧裕が生まれてからだいぶましにはなったんだけど」
「……ご本人から聞いたことがあります。理由はわからないけれど、とにかくよく泣いていたと」
「うん」
「慰められるのは、月くんだけだったんですね」
「あの頃はあいつ、僕以外の人間が好きじゃなかったんだよ」

 そういう月の口ぶりは軽かったが、それが真実なのだと竜崎にはわかった。その中に、妹からの信頼への自信、妹への信頼が滲んでいることも、竜崎は汲み取る。

「それで、夜神さんの前ではいい子なんですか」
「そう」
「何が怖かったんでしょうね」

 竜崎はモニターを見る。花子は穏やかに寝入っているように見えた。
 彼女の軟禁が始まってから、変わったことは何も起こっていない。彼女が来たからとキラの動きに変化が起こることもなければ、夜神月の言動にも変わりはない。また、ここに来てからというもの、彼女自身の奇妙さも鳴りを潜めている。
 多くの時間を共に過ごすことで、竜崎はより、夜神花子が家族へ向ける顔を見ることができた。彼女が、月に向けるものとはまた別の信頼や甘えを総一郎に見せることも知っている。そこには月が言うよう、僅かな遠慮も含まれていた。時折花子は、総一郎に申し訳なさそうな顔をする。

 月は画面を見つめる目を閉じた。もう随分長い時間パソコンを眺めていたせいで、頭の内側から響くような痛みがある。大きく息を吐いた彼は、傍らのペットボトルに手を伸ばした。水を煽る。
 隣に座る男を見るたび、月は彼を、奇妙だと思う。風貌もとかく変わっているけれど、それよりもやはり、言動が目についた。誰も思いつきもしないような、鮮烈な思考で場を切り開いたかと思えば、子ども染みた悪戯で花子を怒らせ、言い合いをする。先日は、八個目のケーキを禁止された腹いせに、花子の紅茶に自分と同じよう、大量の砂糖を投げ入れて怒られていた。花子が怒鳴ったのは、跳ねた紅茶の雫が彼女の服に飛んだからだ。紅茶は染みになる。他にも、花子が席を立った隙に彼女のケーキを崩しておいたり、スニーカーの踵をわざとらしく踏み潰してみたり、彼らの喧嘩はどれも些細で、くだらないものだ。花子も花子で過敏だが、月には、竜崎がわざと花子を怒らせているように見える。

 竜崎が他の追随を許さぬほど秀でた頭脳を持っているのは疑いようもない。それなのにどうしてこんな真似をするのだろうと、月には不思議だった。二十四時間行動を共にしている彼も、竜崎の幼い行動には時折腹が立つし、頭を悩ませている。こんなに優秀な人間が、自分の行動を統制できないわけがないのに、月には理解できなかった。月は子どもの頃から品行方正だったし、そうであることを自分に課してきた。

「人間は怖いから、友だちはいらない」

 目を開けると、竜崎がスプーンを咥えたまま、じっと自分を見つめていた。ほんの少しだけ、月は笑う。首を傾げた竜崎は、丸く大きな目、抱えた膝と相まって、フクロウのように見えた。

「花子には言うなよ。……昔、どうして友だちを作らないのかって訊いたら、そう言われた」
「そうですか」
「本当に、あいつが誰かと楽しそうに話しているのなんて見たことがないんだ。小学校に入る前からね。誰かが話しかけても、絶対に口を利かなかった。いつも孤立していたし、それを本人が望んでいたから、それ以降僕は何も言わなかったけど……母さんは随分心配してたな」

 口煩く、町内会のキャンプに行ってきたら、プール教室に通ってみたらと娘の交友関係に心砕く幸子に、花子が首を縦に振ることはなかった。友人を持つことに対し、花子がどれだけ頑なだったか、月はよく知っている。
 だから、本当に驚いたのだ。父の病室で花子が竜崎に噛み付いたことはもちろん、いま毎日のように言い合いをしていることに。月は花子と、あんな喧嘩をしたことがない。

「寂しいですか」

 不意に脇腹を突かれたように、月は一瞬、眉を寄せた。痛いとも不快ともとれる表情だった。そのまま「まさか」と言おうとして、けれども彼は言葉を止めた。数秒の間、形のいい唇を閉し、それからそっと、夜のように微笑んだ。

「少しね」
「……」
「もう知ってると思うけど、あいつは手がかかるから、僕は昔から面倒を看なくちゃならなかった。花子は粧裕を手のかかる妹だって言うけど、僕からすれば、花子の方がよっぽど手のかかる妹でね……その分、離れていくのが、まあ、寂しいよ」

 蜂蜜の甘さが喉を焼くようだ。竜崎はスプーンを手放し、コーヒーに口をつける。もう冷めてしまっている。淹れたてが飲めるのは、明日の朝だろう。

 竜崎には、寂しいという感情がよく分からなかった。経験がないからだ。誰かが自分の元を離れていってしまう感覚。いずれ、ワタリはいなくなるだろうが、その時に自分が寂しいと感じるのかどうか、竜崎にはわからない。遠い昔、置いて行かれたことがあることは覚えているが、その時の感情など、すでに失われていて、やはりこれもわからなかった。

 キラ事件は大きな進展を見せた。いつかこの生活にも終わりが来ることを竜崎は考える。広い部屋には一人でなく、松田のやかましい声や、花子が掃除機をかける音が始終している。寝ても覚めても、隣には人の気配がある。
 日本警察の捜査官に自身の顔を見せるのは、竜崎にとって苦渋の決断だった。秘匿性のためだけではなく、その先に待っているだろう煩わしさが嫌だったのだ。案の定、彼らとはしばしば意見が対立した。竜崎にとって五分もあれば終わるだろう仕事を、彼らは半日かけてこなす。捜査方針一つ決めるのにも、一々倫理的側面や何やらで反論を喰らう。予期していた通り、彼らとの捜査は至極面倒だった。何度追い出してやろうと思ったことか。

 竜崎は隣を見る。月の口元には依然、仄かな笑みが残っている。彼は竜崎にとって、初めて己に匹敵する明晰さを見せた人間だった。手を揺らすと、鎖が鳴る。いずれこれもなくなるのだと思った。どんなに菓子を食い散らかしても、紅茶を溢しても、目くじらを立てて噛み付いてくる人間もまた、いなくなる。それがどういうことなのか、竜崎は正直、分からない。ただ、元に戻るだけだと思っている。

「花子さんは、月くんが一番好きですよ」

 慰めようと思ったわけではなく、単純にそう思ったが故、口にしただけだ。月が花子に、寂しいだなんてけっして言わないだろうことがわかっていて、花子はきっと月に寂しいだなんて思ってほしくないだろうことも知っている。だから言った。代わりに竜崎が。
 抱え込んだ膝に半分顔を埋め、竜崎は上目で月を窺う。
 月は目を瞬かせ、竜崎を見下ろした。その瞳が蛍光灯の光を、とても美しく反射させるのを竜崎は見る。そうして月は、その美しいかんばせを、こと穏やかに緩めて見せた。「うん」目の細まり方が、少しだけ、彼の片割れに似ている。

「花子は僕が、とても好きだから」
「……同じことを、花子さんも言っていました」
「双子だからね」
「でも、違う人間でしょう」

 双子だから、というのは時折彼らが当然の顔をして言う言葉だったけれど、これが竜崎には理解できなかった。想像をした。もし自分に、生まれ落ちた瞬間から人生を共にした存在がいたら、そうしてそれが彼らのように自分とはまるで違う性質を持つ人間だったらどうだろうか。考えた末、竜崎はそんなものは必要がなく、いても邪魔になるだけだと判断した。彼は昔から、一人であらゆることをやってみせたし、自分に解けない問いなどないと承知している。もし、花子が言ったように、自分よりも劣る人間の面倒を生まれついてみなければいけないと定められていたのなら、竜崎は早々にそんな役目は放棄してしまっただろう。
 けれど月は、当たり前に、花子を大切だと言ってみせるし、事実幼い頃からその面倒を担ってきた。花子は兄のために駆けつけ、監禁を終わらせるために自分の自由を投げ捨てた。一切の躊躇もなかった。竜崎は花子が、兄の正体、兄がキラであることを知っていたのではないかと睨んでいる。彼女が絶対に、それを認めないだろうとも。

 見下ろしてくる月の視線と、目を合わせたくなかった。放り出したスプーンを摘み、ぶらぶらと揺らして瓶を叩く。きっと花子がいたら怒られるだろうと思って、彼女が自分の側を去る日の事を考える。あの母親と妹が待つ家に帰れば、彼女は竜崎のことなど思い出しもしないだろう。

「どうしてお二人は、そんな風に一緒にいられるんですか?」

 正しくは、どうして月が、自分とは違う、劣る人間にそうも心を砕けるのか知りたい。どうしてそんなに受け入れてもらえるのかを知りたい。
 誰も、竜崎を受け付けなかった。竜崎も誰も、必要としなかった。

「竜崎は花子のことが好き?」
「わかりません」

 ただ、花子からの感情が欲しいと思ったことはある。月のように大切にされてみたいし、そうすれば自分も大切にできるのではないかと期待もあった。くだらない夢想だ。月が花子にさみしいなんて言うことがないように、竜崎がこれを口にすることはないだろう。

 月は竜崎を見下ろしたまま、たおやかに微笑む。美しい子どもだと竜崎は思う。

「キラを捕まえるまでの短い間でも、よくしてやってほしい」
「特別よくしたことはありませんが」
「ならそのまま喧嘩しててくれ」

 花子にとって竜崎は特別な人間なのだと、月は知っている。それがどんな意味であろうと、花子にとっての特別は家族だけで、その中でも月は一番だった。その花子が自分以外の誰かに目を向けているのに寂寥を感じるのは、子ども染みた独占欲だ。彼の高いプライドは、それを妹に感じさせることを許しはしない。けれど、もし花子が気付いたのなら、そんな月の感情さえも理解し、受容してくれるだろうとも知っている。花子が月を否定したことはこれまで一度だってなかった。

「私は花子さんが好きなんですか?」

 竜崎が訊いた。眉間を皺くちゃにし、口をへの字に曲げた、本当に嫌そうな顔だった。
 嫌いなら、あんな風に口喧嘩の口実をつくろうとはしないんじゃないか。そう言おうと思って、やっぱりやめた。自分の特別な妹が、この男にとっても特別になってしまうのは惜しい。「知らないよ」とだけ言った。もし、彼らが互いにとって特別だと認める日が来れば、きっとさみしくなるだろうと思いながら。


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