0.その光を信じてはいけない


神さまって、人生を一度しかさせてくれないかわりに、誰のどんな人生にも意味があるようにしてくれたのかもね
 ――重松清「カシオペアの丘で」


「退屈だったから」

 カーテンは窓を完璧に覆い、外の光を漏らさなかった。蛍光灯はその役目を果たすことを許されず、プラスチックのカバーの向こう側に、じっと身を潜めている。まだ日が落ちる前だというのに、明かりのない部屋は暗く、その暗さと充満した緊張が、部屋の主の心情を表わしている。
 兄の声に、花子は壁に貼り付けている身体を、より一層強く押し付けた。息を殺して、耳を欹てる。一言たりとて聞き逃すわけにはいかなかった。高鳴った鼓動がどくどくと身体の内から彼女に訴えかけるのさえ煩わしい。極度の緊張に、彼女は強く拳を握った。掌は冷たく湿っている。兄は今、キラとして喋っているのだ。その言葉を、彼女は待ち望んでいる。
 独り言にしては、奇妙な言葉だ。台詞からして、どうやら会話のようである。けれど、誰と? 壁越しの声を細々と拾い集めながら、花子は思案した。兄は花子の後に帰宅した。兄が帰ってくる前に客人などいなかったし、彼の帰宅後、誰も玄関扉を開けていない。窓からでも入ってきたのだろうか? 閑静な住宅街とはいえ、全く人目がないわけでもなかろうに。それとも……。頭をよぎった考えに、花子は失笑した。来客が目に見えない存在だったならばどうだろう、だなんて。いくらなんでも、お伽話ではないのだから。

「世の中に知らしめるんだ。僕の存在を。正義の裁きを下すものがいるってことを!」

 正義か。息を潜めながら、花子は優秀な兄らしからぬ言葉に微笑んだ。いや、彼らしいのだろうか。兄はいつも、警察官である父を尊敬していた。自らも警察官となり、父と肩を並べて国を守ることは、つい先日まで確かに彼の夢だったはずだ。――父。警察庁刑事局長、夜神総一郎。その顔を思い浮かべると、胸の内に黒く、重苦しい物がべったりと纏わりついて、呼吸さえままならなくなる思いがした。
 花子もまた、兄と同様に父を尊敬し、愛していた。父もまた、家族を愛してくれている。他の兄妹と違い、酷く手のかかる子どもであった花子には、殊更目をかけてくれたように思う。その父が一等自慢にしている息子の正体を、彼はどう思うだろう。そして、花子のことも。花子は目を伏せた。父を裏切ることなど、考えたくなかった。

「そして僕は、新世界の神となる」

 ふっつりと、兄の声が姿を消す。熱に浮かされたような言葉を最後に、隣室はしんと静まり返ってしまった。花子は壁に押し付けていた身体を、注意深く引き起こした。音を立てないまま、ベッドに腰掛ける。
 花子は胸に手を当てた。薄い胸の奥で、心臓がかつてないほど激しく脈を打っていた。血液が轟々と音を立て、身体中を駆け巡る。頭痛がひどい。呼吸は浅く、はっはと短く途切れるそれは犬のようでもある。じっとりとした沈黙の中、花子の耳には己の生きる音だけが届く。

 まさか、こんな日が来るとは。花子はたった今聞いたばかりの兄の声を、噛みしめるように目を閉じた。にわかには信じられない出来事だった。キラが現れたあの日、まさかとは思ったのだ。しかし、本当に、こんな日が。自分の兄が。あの、優秀な兄が、大量殺人鬼になるなんて。

 痛いほど暴れ狂う心臓は、歓喜に咽び泣いていた。火照った肌を鎮めるように、花子は両手で頬を包んだ。汗をかいた掌が、余計に冷え冷えと感じる。高揚だった。感嘆。深く息を吐く。「ああ」殺しきれなかった歓声が、肚の奥からずるりと溢れ、空気を震わせた。「ああぁ」

 こんな幸運はまたとないだろう。なんたる奇跡、なんたる希望の光なのだ! これが神の思し召しだというのなら、私は彼の膝下に跪いて接吻をしなければならない!

 突如現れた連続殺人鬼。凶悪犯が相次いで心臓麻痺で死んでいく。誰もが熱狂し、或いは恐怖し、口々にその正体を叫ぶのを余所に、すでに死者は百に届かんとしていた。世界中の警察機関が必死になって捜査をするも、それを嘲笑うかのように、死人はただ増え続けていく。
この事件はいずれ≪世界≫を動かす。花子は確信していた。かつて花子からとても大切なものを取り上げてしまった、あの≪世界≫。いつの日か奴は、兄に辿り着くだろう。兄のそばにいれば、きっと自分にも奴と相見える機会が巡ってくる。そうすれば、花子自らが行動を起こすよりもずっと容易く、≪世界≫に手が届くのだ。

 花子は立ち上がった。膝が震えていた。不必要に片づけられた部屋は、清潔さよりも臆病なほどの潔癖さを感じさせる。閑散としたクローゼット、学生鞄、天板の薄い机。隙間のないよう、神経質に詰められた本棚。
部屋を横切って机にたどり着くと、彼女は一つきりの引き出しに手をかけた。開ける。中には黒い封筒が、ぽつんと取り残されるように入れられていた。取り出す。
 封筒の口は、これもまた、神経質にぴたりと閉じられている。白い指先で摘んだそれに、花子はそっと口付けた。宗教に聖典が必要であるならば、その封筒はまさに、彼女にとっての聖典に他ならない。

「もちろん、私は最善を尽くす……。けっして負けることは許されないし、負けたが最後、私は死んでも本懐を遂げられないだろう。……でも、どうする? どうすればいい、どうすれば奴らを出し抜ける……?」

 必要なのは。花子は左の指先で、下唇を揉んだ。考えるときの癖だった。必要なのは、存在しないことだ。
 そう遠くない未来、必ず兄には嫌疑がかかる。警察が兄を疑うまでの間、兄の隣でまるで同じように生活をしていれば、事件の渦中に潜り込むのはそう難しいことでもないだろう。気取られなければいい。優秀な兄とは比べるまでもない凡夫であると認識されれば、兄の影で息を潜めることができる。そうすれば、機を窺って相手の喉元を噛み切ることぐらい、できるかもしれない。

 そうすれば、花子の勝利だ。

 相手は手強いが、勝機がないわけではない。それどころか、花子は自分がかなり優位な立場にいることを確信していた。兄の罪を知っているのは、世界中で花子だけだ。そして、きっと、彼女の地獄が彼女を助ける。

 高鳴る胸を押し留めるよう、花子は大きく息を吸った。過ぎる高揚に、口元が綻んでしまうのを止められない。

「……ふふっ」

 このために生まれてきたのだ。花子は思った。兄の片割れとして生まれたのも、出会ったのも、失ったのも、すべてはこの為だったのだと。


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