9.心臓は隠しておいて


男がどんなに理屈を並べても、女の涙一滴には叶わない。
――ヴォーテル


 花子は急いでいた。釣りを受け取るなり、タクシーを飛び降りる。ドアのサイドに控えたドアマンが頭を下げるのにも構わず、ホテルのロビーに飛び込んだ彼女を、ラウンジで談笑していた数人が何事かと振り返った。花子は気にも留めない。タイミングよく開いたエレベーターに駆け込み、力の限りボタンを叩く。どれだけ強く押し潰したところで速度が変わるはずもなく、高級ホテルの最上階に辿り着くには、幾らかの時間がかかった。その時間が歯がゆい。密閉された箱の中で、花子は強く歯を食い縛る。そうでもしないと、酷い焦燥のためにどうにかなってしまいそうだ。

「月っ!」

 飛び込んだスウィートルーム。広い室内にいるのは、十人にも満たない。全員が、息を切らせた花子を振り返った。「花子……」憔悴した総一郎が、縋るように娘を呼ぶ。彼は覚束ない足取りで娘を迎えると、その肩を掴んだ。力なく項垂れる。

「花子、月を止めてくれ。私ではもう……」

 花子は父を見下ろした。息はまだ弾んでいる。
 周りはみな、少し離れたところから二人を伺い見るばかりで、何も言わなかった。相沢と松田が、気遣わし気な視線を交わす。口を開くも、かけるべき言葉が見つからず、ただ見つめることしかできない。
 竜崎はパソコンの前に置かれた椅子の上で、膝を抱えていた。飛び込んできた彼女に一瞬目をやるも、興味がないかのようにすぐさまパソコンの画面へと視線を戻す。けれど、彼の耳は神経質に欹てられていた。一言たりとて聞き逃すつもりはない。

 花子は、父から兄へと視線を移した。部屋の奥、ひとりで立っている彼は、困ったように眉を下げ、花子に微笑んだ。息も整わぬまま兄を呼ぶ花子の声は、親に置き去りにされた子どものように竜崎には聞こえた。

「キラかもしれないって……監禁されるって……どうして……」

 自分がキラかもしれない。月がそう言って捜査本部に足を運んだのは、つい半刻ほど前のことだ。自分では息子を止められないと判断した総一郎は、月と竜崎の声を押し切り、花子を呼んだ。花子の言うことならば月も耳を貸すのではないかと、一縷の望みを託して。
 肩を掴む父の手を放し、花子が月の前に歩を進める。頼りなげな足取りに、見ている者の心が痛むほどだ。いつも竜崎相手に威勢よく喧嘩を売る彼女は、今やその影も見当たらない。困惑と不安。兄に弱弱しく詰め寄る姿は、総一郎の憔悴ぶりにも重なる。

「なにが、……なにがあったの?」
「別に、何もないよ」
「うそ」

 花子はまっすぐに月を見つめている。「ちゃんと話して」

「月がキラだなんて、絶対に嘘だ」

 月は、自分を見つめる花子を、静かに見つめ返した。紅潮した頬。連絡を受け、学校から飛んできたのだろう、前髪が額に張り付いていた。鞄からは、雑多に詰め込まれたレジュメが顔を覗かせている。普段の花子ならばプリントに折り目ひとつつけることを嫌うのに。
 花子にとって総一郎の連絡は、度肝を抜くものだったろう。先日、明確な言葉を使わないにしろ、彼女は月に「竜崎たちには何も話さない」と言ったばかりなのだ。その月が自分をキラだと言い出したのだから、混乱するのも無理はない。
 混乱する妹に、月は柔らかに微笑んだ。

「もちろん僕は、キラじゃない。それでも今、一番疑わしいのは僕なんだ。世界一の名探偵である竜崎も、僕を疑っている。弥が第二のキラ容疑で確保された今……僕も、僕を完全に信じることはできない」

 何が起こっているのだろう。狼狽えながら、花子は必死で頭を働かせた。

「ら、月が言い出したの? 監禁なんて、そんなこと、」
「花子」

 月の策は全てを欺く。竜崎も、父も、花子も、己も。彼は一度、全てを失う。そして、全てを手にして舞い戻るだろう。
 キラとして。

「花子だけは、信じていてくれ」

 僕の正義を。

 これは月の嘘だ。花子は悟った。素早く策を練り上げる。
 現在、弥が確保されたこと、その弥と関係を持っていたことから、竜崎は月がキラであると確信を持っているはずだ。そこで月から監禁を言い出した。まさか、月がこんなところで勝負を投げるはずはない。これは罠だ。竜崎を嵌めるための。期待される結果は? 月の潔白の証明。自分をキラとして捕らえさせることで、キラではないということを証明する。そんなことが可能なのか? わからない。わからないが、月の行動を鑑みるに可能なのだろう。夜神月をキラ容疑者として監禁する。それで月の疑いが晴れるのなら、花子としても反対する理由がない。月がキラだと断定されれば、花子も困る。

 気になるのは、キラの裁きだった。月が監禁されたことで裁きが止まれば、月の疑いは晴れない。監禁される意味がない。裁きは継続されるよう仕組まれていると考えていい。けれど、裁きには証拠が伴うはずだ。自分を監禁させるという手法を選んだ以上、月はキラとしての証拠を徹底的に隠しただろう。家宅捜索をして出てくるようでは困る。しかし裁きは継続される……証拠は存在している……。月が不在だからといって、それを自分が刑事の目を欺いた上で見つけ出せるだろうか? 判断が効かない。不確定要素が多すぎる。

 ならば、いま取るべき策は証拠の捜索ではない。月の罠に乗り、兄の不在時に色々と済ませてしまうことだ・・・・・・・・・・・・・。そうすれば少なくとも、キラが隠したいだろう真実は手に入れることができる。

「……わかった」
「花子……!」

 総一郎が、娘の名を呼ぶ。その声は、信じられないと言っていた。花子は俯き、首を振った。
「無理だよ、お父さん」

「これは月が決めたことだから……。こうしないと月が安心できないなら、私には止められない」
「そんな……」

 娘の言葉に、唯一の望みを絶たれた総一郎が、倒れるように椅子に身を沈めた。父の虚脱した様子に、花子は胸を痛めた。自分たちの嘘が父をあれだけ消沈させているのだと思うと、堪らなくなる。
 哀れな父から目を背け、花子は月を仰ぎ見た。見慣れた美しい顔、彼は穏やかに花子を見下ろしている。「おまえなら、そう言うと思った」花子は兄の瞳を、沼の底を泳ぐように見た。

「約束して。かならず帰ってくるって」
「ああ」

 月は花子に頷いた。

「約束するよ」

 手錠をかけられ、目も耳も塞がれた兄が連れていかれるのを見るのは堪えた。遣る瀬無い思いでその背を見送り、花子もまた、父のように力なく椅子に座り込む。
 その総一郎と言えば、拳を握り締め、息子を見送った。力の入りすぎた拳は震え、顔からは血の気が引いている。彼はその皺の一本一本に感情を刻み込んだかのようだったが、それでも娘の手前、取り乱すようなことはなかった。俯く花子の肩を抱き、静かな声で言い聞かせる。

「心配しなくていい。竜崎にもすぐにわかる」
「……うん」
「月も言っていただろう、必ず帰ってくると」

 父の言葉は、己に言い聞かせるようでもあった。
 花子はそっと目を上げ、父の顔を伺い見た。慣れ親しんだはずの顔をじっくり見てみると、知らないうちに酷く老け込んだように見えた。髪に混じった白いものも多い。いつの間に、こんなに歳を取ったのだろう。花子たちが幼い頃から、父はあまり家にいなかった。生来より人一倍正義感が強く、仕事に明け暮れている父は、いつだって精力的で、力に満ち溢れているように見えていた。
 娘の視線に気がついた総一郎は、そっと眦を緩めた。彼もまた、こんなにも近くで娘を見るのは久しぶりだった。もう大学に入学をした娘は、彼が思っていたよりもずっと大人びている。あどけない丸みを残していた頬は引き締まり、手足だってすらりとしている。花盛りを迎えた娘は、父親の目から見ても美しかった。他二人と違い手のかかる子どもだった花子を、総一郎はいつだって気にかけていた。自分が帰宅する度、父を怖がって泣く花子にほとほと手を焼いていた頃が懐かしい。

「……どうしてこんなことになってしまったのだろうか」

 ぼそりと落ちた愚痴とも嘆きともつかない言葉は、総一郎が娘に溢した初めての弱音だった。
 夜神総一郎の家庭は、おおよそ平和なものだった。聡明な長男に家族思いの長女、天真爛漫な次女の三人の子どもたちはみんな道を踏み外すことなく、すくすくと育ってくれた。口うるさく料理上手な妻も自分も、子どもたちを愛している。平和だった。幸せだった。総一郎は、その平穏と幸福を詰め込んだ家庭を愛していた。
 花子は父の言葉に、頷きとも相槌ともつかぬ声を残し、項垂れた。そう、総一郎から見た家族は、まったく何の問題もなかったのだ。花子がどんな人間であるか、父はまるで気がつかなかった。そのことを、彼女は嬉しくも、腹立たしくも、愛しくも、哀れにも思う。

 寄り添う父娘を余所に、周囲は着々と月の監禁を行った。新しいモニターとマイクが備え付けられ、そこに月が映し出される。打ちっぱなしコンクリートに囲われた小部屋に窓はなく、あるのはアルミパイプ製の簡易なベッドと便器のみ。衝立さえない。部屋の前面は鉄格子で閉ざされている。
 囚人でさえもう少しまともな空間を与えられる。総一郎は息子の扱いに愕然としたが、キラの疑いを駆けられているともなれば仕方がないことであると、理性では理解できていた。けれどこれを花子に見せるのはあまりに酷だ。総一郎同様、衝撃を受けすぎて呆然とモニターを見つめる花子を立たせる。

「おまえはもう外に出ていなさい」
「う、うん……」
「ああ、花子さん。少しいいですか?」

 そこで竜崎が、この日初めて花子に声をかけた。扉に足を向けていた花子が振り向きざま睨みつけるも、竜崎はモニターを眺めたまま、彼女に背を向けていた。思い切り舌を打ちたかったが、そんな気力さえなく、花子は苛立たし気に足を踏み変えた。腕を組む。

「……なに?」
「伺いたいことがあります。ここではなくふたりきりで」

 膝を抱えたまま、竜崎は首だけで振り返った。生ハムメロンのハムだけを剥いだフォークを抓んで揺らし、睨む花子をまじまじと見返す。

「何を訊きたいの」
「ですからここではなく、ふたりきりで伺いたいと」
「竜崎、日を改めてはもらえないか。娘は息子のことでショックを受けている」

 だからこそ、いまがいいのだ。竜崎は厳しい顔をする総一郎を見つめ返した。
 夜神月が自ら監禁を言い出すことは、彼の頭の中になかった。とても気に入らない。この流れ自体が、夜神月の思うままに操られているような気がした。一度は後に回したが、もはや悠長なことを言っている状態ではない。花子は夜神月がキラだと疑っている。その詳細を聞きだしてしまいたい。
 けれども総一郎は頑なだった。娘の盾になるよう二人の間に割り入り、竜崎に向き直る。

「花子さんだけにいまお訊きしたいことがあります。これは捜査上重要なことです」
「ならば、先に私の話を聞いてからにしてもらいたい」
「……いいでしょう」

 総一郎が意志の強い人間であることは、そう長い付き合いでなくとも十分に知っている。竜崎は折れた。総一郎の後ろに立つ花子は、元より色白ではあったが、常時と比べ物にならないほど青白い顔をしている。兄の姿にどれだけの衝撃を受けたのか、想像に難くない。
 たしかにこの様子では、少し落ち着かせたほうがいいだろう。普段は気が強いように振舞っているが、平凡な大学生だ。周りもまたそう思っていたようで、竜崎の了承に、ほっと胸を撫で下ろすような雰囲気があった。眉を下げ、気遣わし気な顔をした松田が彼女の肩を抱き、隣室へと連れていく――そうしなければまっすぐ歩けないほど、花子は動揺しているようだった。松田に連れられて去っていく細い肩。竜崎の脳裏に、自分を睨めつける花子の姿が浮かぶ。凍り付いたような頬。瞬きをしてそれをかき消し、彼は総一郎の言葉を待った。



 



 竜崎が部屋に入ると、音に反応した花子が顔を上げた。相も変わらぬ青白い頬。唇など、この状況を起こした竜崎が言うのもなんだが、同情したくなるほど酷い色をしている。豪奢なホテルの一室にそぐわない顔色をした彼女は、それでも気丈に竜崎を睨みつけた。両手は膝の上で硬く組まれている。まるで神に祈るようでもある。
 扉を閉めた竜崎は、花子の正面に置かれた一人掛けのソファに腰掛けた。いつものように膝を抱え、靴を脱ぐ。

「私が何を訊きたいのか、あなたはもうわかっているのでは?」

 花子は答えない。

「あなたは月くんがキラではないかと疑っていた。その根拠は何ですか?」
「……あんたが、月を疑っていた」
「本当にそれだけでしょうか?」
「世界一の探偵が言うことを信じるのが、そんなにおかしい?」

 可笑しくはない。竜崎は爪を噛んだ。

「月くんは、キラとしての片鱗さえ見せていない。彼はどこまでも完璧に演じている」
「月はキラじゃない」
「たとえ一緒に暮らしていたとして、あなたが彼の罪に気が付けるとは思えません」

 花子の言葉を、竜崎は無視した。続ける。

「兄はキラではない……そう言いつつも心の内では疑っていた。何故なら私がそう言い続けていたから。筋は通ります。どんなに深い信頼関係があったとしても、ほんの少しの疑念さえ持たないというのは逆に不自然です。私が疑っていたんですから……そんな目で見ないでください。私には実績がありますし、そもそも自信もなくこんなことを言われている方が不快では? 話を戻しますが、月くんはキラです。そして私が聞きたいのは、あなたがどの程度、それを信じていたかということなんです」

 総一郎が花子を呼びつけた時、竜崎は彼女に五発ほどは殴られるだろうと踏んでいた。その予想は外れ、花子は息も絶え絶えになってまで駆け付けた割に、兄の監禁をあっさりと受け入れた。

「あなたは月くんがキラだと疑っていたと言いますが、本当にそうですか?」
「……何が言いたいの」
「疑っていたのではなく、知っていたのでは?」

 それなら全てに説明がつく。

「なぜあの日、私を連れて弥から逃げたんです」

 もし、花子が夜神月がキラだと知っていたなら。監禁を言い出したのは月だ。これが兄の策だと察し、受け入れることも出来るだろう。家に尋ねてきた弥海砂が第二のキラだと推察することも可能になり、竜崎の手を引いて逃げたことにも説明がつく。逆に、疑惑を抱いている程度では、それも人に言われた――たとえ言ったのが世界一の名探偵だとしても――程度では、そこには至らないだろう。
 そして疑っているのと知っているのではひとつ、大きく異なる点がある。

「どうやって彼がキラであることに気がついたんです」

 花子が夜神月をキラだと知っているということは、竜崎にも見つけられなかった証拠を、彼女が見つけたということだ。

 痛いほどの沈黙。花子は色をなくした唇を引き結んだまま、一向に開く気配がなかった。竜崎は瞬きもせず彼女を見張る。歯を立てた爪が破け、舌が鉄の味を感知した。それを舐りながら、彼はもう一枚カードを切る。

「夜神さんもまた、自ら監禁を願い出ました」
「!」

 椅子の上で石のように身動ぎもしなかった彼女は、竜崎の言葉にあからさまな動揺を見せた。跳ねるように立ち上がり、脇目もふらず父の下へ向かおうとする彼女の手を、竜崎は反射的に掴まえ――目を見開いた。血が通っていないかのように冷たい。あまりの冷たさに、心臓がぞわりと、気味悪く波打つ。
 彼は、振り返った花子がいつものように自分を睨みつけているだろうと思った。そう思ったから、目を上げないまま、冷えた爪先を見つめて続ける。

「このままだと月くんへの思いで何をしてしまうかわからない……それ故ご自身で判断されました。けれど月くんとは違い、捜査状況は随時報告しますし、ご家族との連絡も制限しません。けれど、あなたとの会話は許可できない。理由はわかりますね?」
「竜崎……」

 震えた花子の声。竜崎が目を上げる。
 舌打ちは彼女の十八番だったか……そう考える彼こそまさに、舌を打ちたい気分だった。今日は嫌なことばかり起こる。竜崎の優れた頭脳は、いつだって起こり得る事象を正確に予期することができる。だから彼は、予想外の出来事が嫌いだった。この双子はどうして寄ってたかって、こちらの思考から外れた言動をするのかと思うと忌々しい。
 花子は竜崎を睨んでいなかった。彼女は、竜崎が初めて見る顔をしていた。

「……私は何も知らない。月は私に、何も教えてくれないから」

 嘘ではないだろう。竜崎は思った。キラは単独犯。幼稚で負けず嫌い。夜神月の性格を考えても、自ら正体をばらすようなことはないと考えていい。

「弥海砂のことなんて、よく知らない。ただ、あんたが死んだら困るから……月の知り合いと顔を合わせる前に、離れた方がいいと思っただけ。あんたが私を疑ってるのはわかる……でも本当に何も知らないの。お願い、お父さんに会わせて」

 竜崎の手から、するりと花子の手が逃げていく。その指が、いまにも零れんばかりの雫を拭った。

「お父さんに会いたい……月にも……」

 いつもの、竜崎に掴みかからんばかりの気概はどこへ行ったのだろう。竜崎は困惑して、花子の指があとからあとから湧き出る涙を拭うのを眺めた。いっそ途方に暮れていると言った方がいいかもしれない。何か言おうと口を開くも、適する言葉が見つからず、結局は開けた口を閉じるしかなかった。そして考えた。彼女の兄がいま自分の代わりにここにいたら、なんと声をかけるだろう。

 彼らふたりの関係を、竜崎は羨ましく思うことがあった。彼には家族がいない。これまでそんなことは気にも留めなかった。けれども目の前で、これ程"家族"という繋がりを重んじられると、興味を引かれずにはいられない。
 竜崎は、以前自分の心臓が、一瞬だけ望んだことを思い出した。胸に手を当てる。破れた爪先は、まだじくじくと痛んだ。
 誰かに、あんな風に信頼されてみたいなどと、夢のようなことを思った。その誰かがいま目の前で涙を流す彼女だったら。私が、彼女の家族だったら。はらはらと泣き続けるばかりの彼女も、耳を貸してくれるだろうか。言うべき言葉もわからず、間抜けに口を閉じるしかないようなことには、ならないだろうか。

 竜崎は哀れんだ。彼の目にはいまや、花子が哀れな子どもにしか見えなかった。信頼する兄に秘密を打ち明けられもせず、頼りの父にも置き去りにされた、惨めな子どもにしか思えない。彼女に感じた違和感は彼の胸底で燻ってはいたが、それは警鐘にはなり得なかった。
 竜崎は三度、言葉を選び、口を開いてはまた閉じた。そうしてようやっと見つけた言葉を、慎重に舌に乗せる。
 それが、間違いとも知らず。

「……夜神さんとの面会は許可できませんが、差し入れは許します。月くんのものは受け取れません。差し入れは入り口で松田さんに受け取らせます。あなたはもうここに来てはいけない。もし、私があなたに会いに行くことがあるとすれば……その時は、覚悟してください」

 花子が顔を上げた。いまだしっとりと濡れた瞳は、湖のようだ。竜崎はそこで溺れる影を見た気がした。それは誰だったろう、自分によく似ていた気もするけれど。
 竜崎は夜神月がキラだと確信している。そして彼に、負ける気はなかった。それは、彼女に兄の罪を突き付けることを意味している。せめてここから逃がしてやるのが、彼に出来る精一杯の恩情だ。
 暗く沈んだ眼を見つめ返し、竜崎は考える。この弱弱しい生き物は、兄の罪を受け入れられるだろうか。

「……わかった」



 



「ああ、母さん? 私。……うん、ごめん。今日は友だちのところに……うん。明日帰るよ。それじゃ」

 電話を切り、花子は駅に足を向けた。ICカードを使って改札を通り、追手がないか、充分に確認してから乗車する。向かうのは自宅ではない。

 花子が月の監禁を受け入れたのには、もちろん理由がある。監禁は恐らく月の策であることの他に、月が帰宅しないのは、彼女にとって都合がよかったというのも監禁を受け入れた理由だ。月がいなければ、花子の外泊を疑問に思う者はいない。母に電話一本入れれば、母は偏屈な娘にも友人ができたと、喜んで送り出してくれる。

 帰宅ラッシュにはまだ余裕のある車内。ドアの前に立ち、窓の外を眺める花子は、鞄から封筒を取り出した。A4サイズの、黒い封筒だった。厚手の封筒は、彼女が机の引き出しに大切にしまい込んだ手紙と、同じ紙で作られていた。
 封筒の中には、花子の秘密が詰まっている。キラが現れたことで、いずれ家宅捜索を受ける可能性があると考えた花子は、早々にこれを隠していた。どうしたって見つかるわけにはいかず、かといって捨てるという選択肢はあり得なかった。隠すことには危険も伴ったが、結果的にはこの選択が功を奏したと言えるだろう。封筒に入れてある一葉の写真。これは、キラが隠したいだろう真実の一端を手に入れるためのヒントになり得る。キラ事件にはまるで関係がないものだと思っていたのに、まさかこんなところで役に立つ日が来るとは。世間とは思いの外狭いものらしい。
 第二のキラが表れてすぐ、花子はこの秘密を隠し場所から回収し、手元に置くことに決めた。弥が夜神宅を訪ねた初日、花子がその場に居合わせなかったのは、これを回収していたためだった。

 写真を取り出した花子はそれを一瞬眺め、すぐに取り出せるよう、手証の袖に挟んだ。視線を窓の外に向ける。
 月は必ず帰ってくる。キラとして。ならば。
 月の目がない今のうちに、出来る限りのことをしなければいけない。


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