8.きみは暗い森


正常とは何かを理解する最良の方法は、異常について学ぶことである
 ――ウィリアム・ジェームズ


 自宅の玄関口だ。帰宅した月を迎えるため、アイスを頬張りながら鍵を開けた花子は、暫しそのまま固まった。アイスを齧るために口を半分開けたまま、石像のように動きを止める。
 綺麗に染められた金髪のツインテール、パンクなのかゴシックロリータというやつなのか、何やらごちゃごちゃとした黒基調のワンピースに網タイツ。……これ、パンツ見えてるんじゃないのか? 惜しげもなく晒された彼女の下半身に、花子はげっそりとした気分になった。流行に機敏とは言えない自覚はあるが、それにしたって、これが世間一般の感覚から多分にずれているだろうことは理解できる。
 月の腕にしがみつき、にっこりと満面の笑みを浮かべた女に、花子は己の表情筋が引き攣るのを止められなかった。

「はじめまして、弥海砂ですっ」
「ど、どうも……」

 固まる花子を、月は同情する気持ちで見下ろした。自身の腕に遠慮なく抱きつく弥を、冷えた心持ちで見遣る。弥に出会った時、彼が弥の抱いた印象は、花子が受けた衝撃とそう変わりない。

「海砂、言っただろ。花子は人見知りなんだ」
「あっそっか。ごめんね」
「いえ……」

 悪びれもなくウィンクを飛ばしてくる弥海砂。花子は米神を抑えた。目眩さえ感じる。理解するには、あまりにタイプがかけ離れている。月には、妹の気持ちがよくわかった。

「部屋に行くから、あとでお茶、持ってきてもらえるか?」
「ああ、いいよ。紅茶でいい?」
「なんでもいいよ」

 階段を上がっていく二人。ひょっこりとリビングから顔を覗かせた粧裕が、海砂を見て、顔を輝かせた。

「海砂さんいらっしゃーい」
「やっほー粧裕ちゃん。お邪魔しますっ」

 階段からひらひらと手を振る弥に、花子が顔を険しくする。何故妹とあいつの仲がいいのだ。

「ね、粧裕。あの人のこと、知ってるの?」

 海砂の後ろ姿を睨みつけながら、花子は粧裕に問いかけた。姉の険のある様子には気が付かず、のほほんと、粧裕が肯く。

「最初に来たとき、お姉ちゃんいなかったんだっけ? お兄ちゃんの忘れ物を届けに来たとかなんかで、わざわざ来てくれたんだよ」
「……それ、いつのことだか覚えてる?」
「んーっと」

 粧裕が、考えるように上を見て、人差し指を顎に当てた。

「たしか一昨日だったかなあ」

 一昨日。五月二十五日だ。その日は、警察から第二のキラへメッセージが送られたはず。そして今日、竜崎は第二のキラから最後だと言って送られてきたビデオテープを見て、キラと第二のキラが接触したと言っていた。

「海砂さん、かわいいよねー! モデルの彼女なんて、さっすがお兄ちゃん」
「そう……」

 きゃっきゃとはしゃぐ粧裕とともにリビングに戻りながら、花子は階段に目を向けた。すでに部屋に入った彼らの姿はそこにない。

「モデルの彼女……ね」



 



 人数の多い大学内で、花子は比較的容易に月を見つけ出すことができた。それも、彼女が月には黙って、こっそりと彼の授業を調べ、暗記していたためである。必要な時に月の行動を見張れること、これはキラ事件に関わる上では必須であり、花子はこのために態々兄と同じ大学を志した。

「月!」

 後ろからかけられた声に、月が振り返る。彼の隣を歩いていた女学生も振り返った。高田清美。口を聞いたことはないが、花子でも知っているレベルの有名人だ。清楚高田という渾名は何度か聞いた。
 小走りで彼らのもとに向かった花子は、高田に儀礼的に頭を下げると、月に向き直った。

「悪いんだけど、ちょっといい? 早急に手を借りたいんだ」
「ああ、かまわないよ」
「ありがとう」

 月が視線で高田を促す。その意図を汲み取った高田は、幾分か不満げではあったものの、大人しく彼らに背を向けた。「では夜神くん、また。夜神さんも」「ああ」その背を見送り、月がくるりと花子を向く。「それで?」聞きながら彼は、にやりと笑った。

「おまえが外で僕に用事があるなんて、珍しいじゃないか」
「まあね」

 花子もまた、にやりと笑ってそれに返した。

「なんでもないをすることを、手伝ってもらおうかと」
「なんだそれ」

 呆れたように月が笑う。

「黄色いくまさんじゃないんだから」
「いいでしょ。ちょっと、疲れちゃったんだ」

 大きく伸びをして、花子はあてもなく歩き始めた。その隣を歩きながら、月は妹を伺った。特に変わった様子はない。大方、話し相手を欲していたところに月を見かけて、捕まえたのだろう。

「そういや、付き合ってるんだって? 高田清美」

 月は、妹の問いに苦い顔をした。彼女は家に弥が訪れることを知っている。「少し仲のいい友人ってだけだよ」言いながら、月は花子が納得しないだろうとわかっていた。彼女は粧裕ほど人が良くない。極端に人付き合いを厭うといえ、自分も高田も大学内では名が通っている。噂ぐらい、いくらでも耳に入ってくるし、彼女ならばその真偽などすぐにわかる。案の定、「やるねえ」と言った花子は、嫌味っぽく笑っていた。

「弥海砂に、高田清美。その他いろんなタイプの女の子を品定め中……ってとこ? 珍しいじゃない」
「べつにそんなんじゃないさ。花子こそ、誰かいい人いないのか?」
「まるでいない。ね、月。やめた方がいい」

 妹の話にすり替えようとしたのだけれど、花子は誤魔化されてくれなかった。足を止めず、横目で兄を見上げる。

「疑われている」
「……わかってるよ。でも、それと僕の恋愛事情は、関係ないだろ?」
「そうでもないよ。わかってるでしょう」

 花子はもう笑っていなかった。足を止め、兄に向き直る。彼女は俯いて、自分たちの、並んだ爪先を見つめた。月の革靴は新しいものではないけれど、よく手入れされ、綺麗だった。そんな兄が、花子は好きだ。

「あんまり危ないことしないで」
「……花子、おまえ、どうした?」

 どうにも様子が可笑しい。月は俯く妹を見つめ、じっと考える。

 キラとして疑われているという状況が、常とは違ったストレスを彼女に与えているのだろうか。自分と月が疑われている、その状況に疲弊している……いや違う。月は頭を振った。
 そもそも、キラ捜査に花子が参加していることが妙なのだ。あの、花子だぞ。これまで生きてきた中で親しい友人の一人も持たない程人が嫌いで、人間関係を構築するのを何より煩う妹が、一体どうして捜査本部に顔を出した? 捜査本部に行けば、知らない人間に会わなければいけないのに。この前、青山についてきたのだってそうだ。そして――竜崎。そう、奴に対する態度だって可笑しい。これまでの花子なら絶対、あんなふうに喧嘩を売ったりなんてしない。

 もしかして。月は一つの可能性に思い至った。意識しないうちに、妹を見下ろす目が険しく細められる。
 花子は月をキラだと思っているのではないか。現時点で容疑者は二人しかいない。自分でないのなら月……そう思っているのならいいのだが……いや、それはあり得ない。親しくもない人間の推理と兄ならば、花子は絶対に兄を信じる。もし花子が月をキラだと思っているのならそれは、
 キラかもしれないと疑っているのではなく、
 キラだと知っているということだ。

「……なあ、花子」

 しかし花子は、月の声を聞いていなかった。俯いていた彼女は顔を上げ、月を通り越し、向こう側を見ていた。ぎゅっと、力の限り皺を寄せたような、酷い顔をして、何かを睨みつけている。一体何を見ているのか。月は振り返った。彼の背後、少し離れたところにはベンチがいくつか設置されていた。そしてそこに座っているのは――

「なにしてんのあんた」
「こんにちは、いい天気ですね」

 竜崎。
 月もまた、険しい顔をして竜崎を見た。彼のそばまで足を進める。後ろから花子もついてくる音がした。

「人前に顔を出すのが怖いと言っていたのに、大丈夫なのか?」

 厳しい顔で自身を見下ろす双子に、竜崎は眉一つ動かさなかった。飄々と言ってのける。

「お二人がキラでなければ大丈夫だと気づきました……外で私がLだと知っているのは、お二人だけですから」
「……なるほどね」
「なので、もし私が近日中に殺されたら――お二人のどちらかがキラだと、夜神さんをはじめとする捜査本部の者と、他のLに言っておきました」
「……」

 月は後ろの花子に目を遣った。彼女は不機嫌そうな顔で、竜崎を見下ろしている。口を開く様子はない。
 妹を、竜崎と接触させるのは危険ではないか。月は瞼を下ろした。飄々とした竜崎に呆れた風を装いながら、考えを巡らせる。

 花子をすぐさまここから立ち去らせるべきだろうか。万が一、花子が月の正体に気がついているとすれば、ふたりが顔を合わせるのは危険だった。花子が竜崎に告げる機会は、いままで何度だってあっただろう。それでもこうして月が捕まらずにいるのならば、花子に月の正体を暴くつもりはないということだ。それでも、何の拍子に疑念が竜崎に漏れるかわからない。漏れたが最後、竜崎はどんな手を使ってでも花子から聞き出すだろう。何故、兄を疑うに至ったのか。
 ……そうだ。一体、なぜ、花子は僕を疑った? 僕は完璧だった。家族の前でさえ、キラとしての片鱗を見せずに過ごしてきたはずだ。
 花子はいつ、兄の正体に気がついたのだろう。

「ライトーっ!」

 突如割って入った高い声。三者三様に、半ば反射で声の出所を振り返る。

 花子は月の向こう側に、まっすぐこちらに駆けてくる人物を認めた。きれいな金髪を揺らす小柄な女。特徴的な服装。花子の顔が青ざめる。
 まずい。

「竜崎っ」 

 花子の怒鳴り声に、竜崎はぎょっと振り返った。骨張ったその手を、花子が掴む。彼女はそのまま、力一杯に地面を蹴り付けた。走り出す。「おい、花子!」月が呼び止めるも、花子は振り返らなかった。思い切り息を吸い、全速力で走っていく。竜崎の手を引いて。



 



「……それで、理由をお聞きしても?」
「……悪かったよ」

 憮然とした顔で膝を抱えて座る竜崎の前には、ケーキの皿が三つ並んでいる。走らせた詫びに、花子が購入したものだ。
 竜崎の向かいに座った花子は、不貞腐れるようにそっぽを向いていた。全力で走ったために、いつもは白い顔に赤みが差している。静かな喫茶店。店内の、涼しい空気が熱った頬に気持ちいい。
 竜崎は、遠慮なくケーキにフォークを突き刺しながら、じっと花子を観察した。

「私があの場にいたら、何か不都合でもあったんですか?」

 返答の代わりに舌を打った花子に、竜崎が言った。「お行儀が悪いですよ、花子さん」

 花子とて、自身の行動が悪手だったことを自覚している。けれども他に、どうすれば良かったのだ。あれは弥海砂だった。五月二十五日、警察から第二のキラへのビデオが流された日に、月を訪ねてきた女。そしてその後、キラと第二のキラは接触したと考えられる……弥海砂が第二のキラだ。
 弥が第二のキラならば、花子はどんな手を使ってでも、彼女から竜崎を隠さなければならなかった。第二のキラは、顔を見れば相手を殺せる。竜崎の顔を弥が見れば、月は必ず、弥に竜崎を殺させるだろう。

 花子は知らぬことだが、竜崎はすでに弥を第二のキラとして確保するよう動いていた。彼は模木からの報告で、キラが第二のキラと接触したと思われる日付以降、夜神月が急に複数の女性と関係を持ち始めたことを知っている。その四人のうちの一人が弥であることも把握していた。竜崎もまた、参考のために弥がアシスタントを務める深夜番組を視聴しており、先ほど登場したのが弥だとわかっている。その上で、花子の取った行動が意味するところは、おそらく……。

「疑ってるの?」

 花子は横目で、睨むように竜崎を見た。

「疑うという表現は、あまり適切ではありませんね。というより、あなたの方がよく知っているんじゃないですか、月くんが、キラだということを」

 やはり、気づかれた。恐らく月も気づいただろう。花子は再び舌を打ちたいのを、なんとか堪えた。そんなことをすれば、肯定しているも同然だ。険しい顔を崩さない花子を、竜崎が面白そうに眺める。

「私、あなたのそういう顔ばかりを見ているような気がします」
「ああ、そう」
「もったいないですよ、せっかく綺麗な顔立ちなのに」

 今度こそ、花子は大きく舌を打った。急降下する彼女の機嫌に反比例するかのように、竜崎が笑う。

「あなたがキラという確率は、もともとかなり低かったのですが……今日のこの行動で、確信が持てました。あなたはキラではない」
「……」
「守ってくださって、ありがとうございます」
「……なんのことだか」

 尋問をされれば、隠し通す自信はない。捜査協力を持ちかけたとき同様に、そこには多くの罠を仕掛けられているはずだ。引っかかったが最後、月は捕まる。キラとして。それだけは、何をしても避けなければならない。花子は目の前に座る男を観察する。

 竜崎もまた、月同様に花子を軽んじていることを、彼女は肌で感じている。幸い、今回のことで、彼が花子をキラだと疑うことはなくなった。頭の悪い、容疑者でさえなくなった花子に、竜崎はそう重きを置くだろうか? キラは単独犯。この考えを竜崎は崩していない。月がキラだとして、花子と手を組んでいることはない。竜崎はそう考える。
 ならば、花子が月を疑うに至ったのは、あくまで竜崎の推理あってのものだと思わせる。キラの容疑者は双子。自分でなければ、月しかいない。根拠や証拠があるわけでなく、単なる消去法であると。
 ここに賭ける。

「たしかに私はキラじゃない。ただ……その場合、あんたの考えだと、私じゃないなら月ということになってしまう。だから……」

 花子は目を伏せた。持てるすべてを使って、思い悩んでいるように、自信を無くしたかのように演技する。伺うように、一瞬だけ竜崎に目を向け、彼女は弱く首を振った。目を上げる。

「いや……私があんたを連れて走ったのだって、大した意味はない。強いて言うなら、嫌がらせだね」
「嫌がらせのお詫びにケーキをご馳走してもらえるのなら、まあたまには付き合いましょう」

 どうだ? 花子はそうとわからぬよう、注意深く竜崎を観察した。騙せただろうか? ……わからない。竜崎は意気揚々とフォークを突き刺してはケーキを口に運ぶのに夢中だった。そこから思考は伺えない。

 小芝居が効いたかはともかく、竜崎は花子が月を疑っているのは、自分の推理が元だろうと考えている。花子の感覚は当たっていた。竜崎は彼女を軽視している。月を評価していると言い換えてもいい。
 監視カメラを仕掛けた期間、夜神月がボロを出すことはなかった。彼がカメラに気がついていたかはさておき、あれだけ完璧に演じ切ることができる人間だ。毎日一緒に暮らしているといえ、花子のような凡才が、自分さえ手に入れられていないキラの証拠を掴んでいるとは思わなかった。

 ただ一つ気になるのは、夜神花子は、近づいてきた女が弥海砂であることを知っていたのかということだった。知っていたなら、夜神花子は、弥海砂が第二のキラだと知った上で竜崎を逃がしたということになる。模木からの報告によれば、弥は夜神宅に訪れたことがあるそうだ。そこから第二のキラだと推察したのか? だがそこには、夜神月がキラだと、ほぼ確信していないと至らない。
 竜崎は、それについて彼女が口を割るとは思わなかった。この潔癖な女が双子の兄に寄せる信頼は、並大抵のものではない。彼らの関係が非常に深いことは既に知れている。夜神月をキラとして逮捕したのならばともかく、今の状況では……いや、キラとして確たる証拠があったとして、彼女は兄がキラだとは認めない可能性もある。
 キラへの足掛かりは既にできている。この強情な女を吐かせるのは、言い逃れできない状況を作り上げてからでも遅くないだろう。

 竜崎、L。すなわち、世界一の名探偵。彼は、一つ誤解をしていた。花子が弥から竜崎を庇ったのは、人を殺してはいけないという、至極真っ当な倫理に基づいたものだと彼は考えた。彼女の父もまた、夜神総一郎なのだ。一般的な日本人として生きてきた子どもだ、その倫理観は真っ当なものであると、彼は疑っていなかった。彼は以前、花子に感じた違和感を忘れていた。
 それが、彼の過ちだった。
 花子は異常だ・・・・・・。彼女はFBIが死んだことをなんとも思っていないばかりか、死んでくれたために情報が手に入ったと喜んだし、人が死ぬことに対して、何の抵抗も持っていない。彼女が竜崎の手を引いて走ったのは、まさしく竜崎がLに違いないからだった。彼女には、Lを死なせてはならない理由がある。Lでなければ、彼女は竜崎を見殺しにしただろうし、そうしたところで、竜崎のことなど次の日には忘れただろう。

 とはいえ、あまり竜崎を責められはしない。彼に相対する花子は、至って普通の女子大学生だった……多少噛み付いてくるし、潔癖の気が目立つが、その程度だ。竜崎が感じた花子の違和感は、花子と言葉を交わすにつれ、日毎に薄らいでいった。無理もない、花子は異常を隠して生きている。この十数年間、生き抜くために己の異常を隠し続けてきた彼女の努力が、世紀の名探偵の目を欺くに至ったというだけで、竜崎を謗るのは酷というものだろう。加えて優れた兄が、空前絶後の殺人鬼であるというこの状況。竜崎が彼女から目を離すには、状況が整いすぎていた。

 竜崎が三つ目のケーキに取りかかった時、ジーンズに突っ込んだ携帯が震えた。指先で摘むように引っ張り出す。通話ボタンを押し、二三言葉を交わした彼は、無感情に花子に告げた。

「弥海砂さんが、第二のキラ容疑で確保されました」


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