7.5


いちばんたいせつなことは、目に見えない
 ――サン=デグジュペリ「星の王子さま」


「都会なんかだいっきらいだ」

 捜査本部に辿り着くなり、花子は空いている椅子に身を投げ出した。ぐったりと肘掛けにもたれかかる彼女に覇気はない。消耗した娘に総一郎が慌てて駆け寄る。

「どうかしたのか」
「ううん、疲れただけ」
「何もなかったよ、父さん」

 後から入ってきた月が上着を脱ぎながら総一郎に声をかけた。松田が後を引き取る。

「電話でも言った通り、特に怪しい人物はなし。ノートを所持している人間も見当たりませんでした。ただ……」
「ただ?」

 前のめりに聞き返す総一郎に、月と松田が目を交わした。「ただ……」言い淀む松田の口ぶりには微笑とも同情とも取れないものが滲む。彼は椅子に沈み込む花子を、気の毒そうに一瞥した。

「花子ちゃんがちょっと、人込みに参っちゃったみたいで」
「月のせいだ」

 憎々しげに吐き出した花子は、肘掛けについた右手で頭を支えた。じっとりと、下から兄を睨みつける。妹の恨みがましい視線に、月はさらりと肩を竦めた。「言っておくけど、僕は来ないほうがいいってちゃんと言ってたからな」「うるさい、ばか」「八つ当たりするなよ」妹の暴言を受け流す様は手慣れていた。プライドの高い月はその印象に反して結構喧嘩っ早いのだが、花子に限っては言い返しただけ倍になって返ってくるのが面倒くさく、真剣に怒ることは少ない。

「月くんのせいっていうのは?」
「月くんが、大学の友だちを何人か呼んだんですよ。花子ちゃんは人づきあいが苦手だから、それで余計疲れちゃったみたいで。でも、まさか学生の集団の中に刑事がいるなんて、誰も思わないじゃないですか」
「なるほどな」
「ほんと、さすがですよね」

 感心したような相沢に、松田が誇らしそうに胸を張る。彼は眩しいものを見るかのように、月を見ている。

「行動中も、それとなく人の出入りが激しいところにみんなを誘導したり、監視カメラじゃ見えにくいところにも目を配ったり、すごかったんですから」
「おい、それは本来おまえの仕事だろう」
「えっそれは……」

 二人の会話を聞いた総一郎は得心し、むっつりと不機嫌に眉を寄せた娘を見下ろした。心なしか顔色が悪いようにも見えるが、これだけ口が回れば心配いらないだろう。

「ついていくと言ったのはおまえなんだから、月に当たるのはやめなさい」
「……わかってるよ、お父さん」
「なんだ、父さんには素直だな」

 兄の揶揄いに、花子が舌を打とうとして……寸でのところでやめた。月が笑う。妹が父の前ではなるべく行儀よくしていたいのだと、彼は知っている。

「悪かったって。お茶入れてきてやるから、少し休んどけ」
「紅茶がいい。濃い目の、あったかいやつ」
「はいはい」

 月がキッチンに姿を消し、他の面々も仕事に戻った。それを見送り、花子は長い息を吐いた。目を閉じる。悪いが、月が紅茶をいれて戻ってくるまでは休憩させてもらおう。頭が響くように痛い。瞼の裏に、通りに蔓延る人間の山が写り、それが不快だ。
 ぺたぺたという軽い足音に、花子は顔を上げなかった。礼儀をわきまえない態度はいつものことだが、今回ばかりは挑発ではなく、本当に気分が悪い。花子のすぐ隣に、ぴょんと飛び乗った竜崎も、それに気がついているのだろう。彼は無理に、花子を起こすこともなければ、ちょっかいをかけもしなかった。山と積まれた高級チョコレートの箱に手を伸ばす。

「おかえりなさい、お疲れ様です」
「……うん」

 憔悴した声に、竜崎はおや、と片眉を上げた。どうやら本当に参っているようだ。

「どうでしたか?」

 チョコレートを頬張りながら尋ねる竜崎に、花子は重い頭を持ち上げた。報告なら、松田がしただろうに。細い指が、苛立たしげに髪を掻き上げる。

「成果はないね。怪しい人物はなし。もっとも、人間が多すぎて、確かなことは言えないけど」
「そうですか」
「……あんた、それわざと?」
「? なにがです?」

 首を傾げる竜崎は、本当に何を言っているのか、というような顔をしている。花子は小さく舌を打った。脇に置いた鞄からウェットティッシュを取り出し、乱暴に彼の口元に押し付ける。

「付いてる」
「……これはどうも」

 竜崎は、大人しく口元を拭った。指先にも付いたチョコレートを暫し見つめ……舌で舐めとろうとしたのだけど、横から向けられる刃物のような視線に、今回だけは言うことを聞いてやることにする。

「伺ってはいましたが、本当に人混みがお嫌いなんですね」
「まあね。今日は特に、久しぶりだったから」

 いつもはあんたと同じように、部屋に籠ってるよ。花子の、愚痴とも嫌味ともつかない言葉に、竜崎は答えなかった。一瞬のうちにキッチンに目を走らせる。月はやかんに水を汲んでいた。竜崎は少しばかり、花子の方に身を乗り出した。声を落とす。

「月くんは、そういうことはないのでしょうか?」
「月?」

 唐突な兄の話題。花子は呆けた顔をした。それを横目で見遣り、竜崎が机の上に手を伸ばす。無造作に掴んだチョコレートを、そのまま口に詰め込んだ。拭ったばかりの口元に、茶色い化粧が施されるが、彼は気にしなかった。一度彼女の要望に綺麗にしたのだ、二度目はない。

「お二人を見ていて、少し不思議に思うんです。花子さんは潔癖症を患っているので、その人嫌いもそう不思議ではありませんが……月くんは、ずいぶん人当たりがいいようですね」
「患ってるって」

 花子は一瞬目を眇めたが、竜崎を責めるつもりはないらしい。彼女もまた、キッチンに目を向けた。兄が出てこないことを確認し、声を落として竜崎に返す。

「あんたが言いたいことは、わかる気がする」
「そうですか?」
「ああ……これでも、夜神月の片割れだから」

 そう言って、花子は僅かに微笑んだ。

「あんた、一人のほうが楽でしょ?」
「そうですね」

 Lは本来、孤高であるべきだ。その存在だけで世界の犯罪率を下げるほどの、もはや至宝というべきその頭脳は、一個人が所有するにはあまりに危険が大きい。顔も名前も、声さえも明かさずパソコン越しに指示を飛ばす探偵を、捜査官たちが仲間だと認識していないことを、彼は理解していた。捜査官たちの手際の悪さに苛立ったことはあれ、隣にいてほしいと望んだことはない。子どものころからずっと、彼は別に、一人だってよかった。

「それでいい」

 花子の声はやさしい。

「あんたの能力は高すぎる。誰か、自分以外の存在と付き合っていくのなら、あんたが合わせなくちゃならなくなる。それを煩わしいと思うのは、あんたのせいじゃない。誰だってそんなこと、面倒くさくてやりたくないよ」

 竜崎は、親指を柔く食んだ。花子を見つめる。
 彼はこれまで、友人を必要としたことがなかった。日本警察に協力を要請したのも、当初の予定ではいつもの通り、顔を見せず、パソコン上で指示を飛ばすだけのつもりだった為だ。それがこんな風に顔を突き合わせてやっていくことになったのは、全くの予定外だった。総一郎たちは、彼らの規範に沿わない竜崎に、随分戸惑ったことだろう。
 けれどもそれは、竜崎とて同じことなのだ。むしろ彼自身が一番、困惑し、苛立ち、煩わしいと思っていた。意味のない集団行動や暗黙の了解は、あまりに非効率的であるし、効率や成果よりも、相手の心情を慮り、遠慮をするその心理は、竜崎には理解できない。

「ええ、まあ。これまでの人生の中で、他人の存在が不可欠だと感じたことは……あまりありません」

 言いながら、竜崎はワタリのことを思い返した。ワタリとて、彼が望んで竜崎のそばにいるだけで、竜崎がそれを望んだことは一度もない。彼の能力は高く、竜崎も重宝しているが、それが別人に挿げ変わったところで、果たして影響はあるだろうか。竜崎は考える。

 花子はそんな竜崎を、凪いだ目で見ていた。常の、突っかかる口調とは違い、ひどく穏やかに声を出す。竜崎は知らぬことだが、それは彼女が、彼女の兄のためだけに出す声に似ていた。

「いいんだ、それで。あんたは何も悪くない。どちらかというと、おかしいのは月の方だ」
「おかしい、というのは」
「完璧すぎる」

 花子は、とても静かに言った。
 そうだ。竜崎もそう思う。夜神月は、完璧だった。どこからどう見ても、傷一つなく、美しい。

「月だって、本当ならあんたと同じだ。誰かと一緒にやっていくには、月が合わせてやらなきゃならない。面倒だし、一人でやったほうが楽なのにって、思っていると思うよ。でも、月はそれを選ぶ。それが月にとっては正しいことだから。月が誰よりも優れているのは、自分が正しいと思うことを選び続ける力だと私は思う。……月は私のせいで、そうならざるを得なかった」
「どういう意味ですか?」

 竜崎の質問に他意はない。けれど花子は、少しだけ傷ついた顔をした。それはすぐさま拭い去られ、姿を消す。

「社交性のない片割れを持つと、人間、苦労するらしい」
「彼の社交性は、あなたの代わりに育ったんですね」
「……うん」

 竜崎は、総一郎に聞いた話を思い出した。彼女には親しい人間の一人もいない。まるで己と同じように。
 花子は軽く頷いて見せた。懐かしむように目を細める。

「私はよく泣く子どもだった。本当に、いつだって泣いていた。あまりよく覚えていないけど、私が泣くと、母さんの目に、ぎゅうっと力が入るのだけは覚えている……怖かったから。そんな時は、月が私の手を引いて、暗い部屋に連れて行くんだ。窓から見える街灯が、涙のせいで七色に見えて……月はずっと、私の手を握っている。月だけが、私を落ち着かせることができた」
「どうしてそんなに、泣いていたんです?」

 竜崎の疑問に、花子は力なく首を振った。

「わからない……今となっては、だけど。でもあの頃から、月にとって、出来の悪い妹の面倒を見てやることが正しいことだった。私は月しか許さなかったし、月が宥めれば父も母も安心した顔をしたから、自然にそうなったんだろう。幼稚園でも、小学校でも、私は誰とも親しくならなかった。だから代わりに、月が窓口になってくれたんだ。それが兄として正しいことだと、彼は選んだ。……悪い方は私が全部取ってしまったから、月はそれしか選べなかった。そのせいで月は、生まれた時から自分よりも劣る者の相手をし続けてきた」
「……なるほど」
「あんたが月よりも幸運だったのは、双子じゃなかったことだろうね」

 竜崎は表情一つ崩すことはなかった。けれども、そう言って僅かばかり目を伏せた花子を見て、彼は幾ばくか、その影を落とした横顔に同情した。
 竜崎は凡庸な者たちとはかけ離れた頭脳を持つと言え、天才がそうであるように、他人の機微に疎い人間ではなかった。竜崎は、花子の落胆や負い目を、正しく理解していた。何を言うべきか、言わないべきか、彼は思案し、そして、言うべき言葉の最適解を、見つけられなかった。経験がない。誰かを慰めようと試みるのは、彼にとって、初めてのことだ。

 竜崎は、箱の中に残っていたチョコレートをひとつ、摘まみ上げた。花子の前に置く。もう一つ摘まみ上げ、先に置いたものの上に重ねた。三つ目を重ねた時、花子が訝し気に首を傾げた。「何をしているの?」それには答えず、竜崎はチョコレートを積み上げ終えると、伸ばした手を膝に戻した。身を屈める。

「……幸運かどうかは。月くんにとって、あなたがいることはマイナスなようには見えませんから」

 一瞬、惚けたように丸くなった目が、窓からの光を受けてきらりと光るのを、竜崎は見た。恥ずかしそうにはにかむ目元は、いつもの剣呑さを忘れ去ってしまったらしい。薄い唇が、つややかに光を反射する。それだけで、きつい顔立ちが和らいだ。頬に浮かんだ笑窪が、年相応のあどけなさを感じさせる。
 竜崎は目を瞬かせた。

「ああ。月は私が好きだから」
「そして、あなたも」
「好きだよ。とてもね」
「そうですか」

 竜崎は、監視カメラから見た彼らのやりとりを思い返した。見張っていた五日間、彼らは本当に、仲睦まじい様子だった。悪夢を見た妹を慰める兄。屈託なく、兄を頼る妹。

「……もし、あなたが私の妹だったら」
「うん?」
「いえ、なんでもありません」

 聞き返した花子に、竜崎は緩く首を振った。言ったところで意味があるとは思わなかったし、そもそも、自分が何を言おうとしていたのか定かではなかった。花子は深く追求せず、キッチンに顔を向けた。兄が紅茶を運んでくるのを待っている。
 その背中を見ながら、竜崎はまた一つ、チョコレートを口に放り込んだ。
 いまさら。誰かに信頼されたいなどと。
 誰かに、あんな風に言われてみたいなどと、夢のようなことを。



 



 青山での収穫がなかったことを踏まえ、二十四日のルートは調整された。話し合う捜査員の脇で、花子は半ば意固地になって、第二のキラから送られてきたテープを、繰り返し流している。

 彼女としては、二十四日の渋谷にも当然ついていくつもりだった。それが、今度は彼女を伴わないことが決まったために、わかりやすく不貞腐れているのだ。同行に反対したのが兄ならば、花子とていくらでも反論のしようがあった。けれども父に言われてしまえば、素直に頷くほかにない。月に比べ、手のかかる幼少期を過ごしてきた自覚のある花子は、総一郎に弱かった。娘の体調を気遣うが故のことであるなら、尚更。

「仕方ないでしょう。あなた、今日死にそうな顔で帰ってきたんですから」

 話し合いがひと段落着いたのか、捜査員たちが思い思いに休憩を取り始める。ひょいっとソファを跨いで、一人テレビ画面と向き合う花子の下にやってきた竜崎は、親指を噛み、覗きこむように彼女を見た。花子が睨みつけるも、なにを考えているのか、その表情に変化はない。冷戦の火蓋が切られそうなその奥で、月が苦笑して首を振る。

「まあ、今回ばかりは、僕も竜崎の肩を持つよ」

 月としては、花子が同行しないことは好都合だった。第二のキラの本命は青山だろうが、可能性はゼロではない。妹を連れて行かなくて済むのなら、その方がいい。

 いつもなら花子の味方をしてくれるはずの兄は、手を貸すつもりがないらしい。竜崎から月へ視線を移した花子は、大きく鼻を鳴らしてテレビ画面へと顔を戻した。人の気も知らないで、キラ様はいい気なものである。第二のキラは、顔を見れば相手を殺せる。そんな人間の前に月を晒すことに、花子はこれだけ神経をすり減らしているというのに。

「べつに、今日だって久しぶりだっただけで、体調に問題があるわけでもないんだけどね。……まあ、決まったことに、いまさら文句はないよ。私は大人しく、死神でも探してるから」
「えっ花子ちゃん、死神なんて信じてるの!?」

 反応したのは松田だった。半分裏返った声に、全員が松田に視線を向ける。注目を浴びた彼は、「いやあ」と気恥しそうに頬を掻いた。遠慮がちに花子を見る。

「ええと、そういうの信じてるの、意外で……」
「たしかに。実は案外、非科学的なもの好きなのか?」

 兄の揶揄うような視線に、花子は面倒くさそうに手を振った。「そうじゃないけど」テレビ画面には、二回目に送られてきたビデオテープが流れている。お互いの死神、目。変声機を使った耳障りな声がそう言ったところで、彼女は停止ボタンを押した。

「死神に関しては、いると思っている。というよりは、どうかいてくれって思いに近い」
「興味深いですね」

 戸惑い、視線を交わす捜査員の中で、竜崎だけが、僅かに笑って首を傾げた。

「それは、なぜです」
「それくらいいてくれないと、割に合わないでしょ。忘れているかもしれないけど、本来、手を下さずに人を殺すことができるなんて、ありえないんだから」

 月の後ろで、死神が声を立てて笑った。それには耳を貸さず、月もまた、気軽に肩を竦めた。

「まあ、たしかに。正直僕はあまり信じる気にはなれないけど、ありえないことが起こっているのは事実だからね」

 実際、月に比べたら花子の方が許容範囲が大きい。仮に月がキラでなかったとしたら、その力に関して、彼が正確な予想ができたかどうかは怪しいだろう。月には、総一郎に似てなかなか頭の固いところがある。

 真剣身のない双子の様子に、周りは拗ねた花子の暇つぶしと、それに伴う雑談だろうと判断した。困惑の空気がほどけ、各々が穏やかに休息を取り始める中、竜崎は横目で月を見やった。父親と話している彼は、いま、こちらを見ていない。月の目を盗み、彼は音もなく花子に近づいた。ぬっと、覆い被さるように身体を屈める。花子の顔に、竜崎の影がかかった。

「それで、本当のところ、どのくらい信じているんですか?」

 目を上げた彼女は、自身に影を落とす痩躯を見上げた。「さあ?」首を傾げる。動きにつられた髪が流れ、彼女の首筋を露わにした。
 キラと第二のキラは、会ったことがない。そしてキラが死神という言葉を使ったことは、一般に報道されていない。たまたま、能力に関して、同じ比喩を使ったのか? 彼らの能力はわからない。誰もが安易に死神を連想するようなものの可能性もある。
 が、しかし。そもそもキラは一体どうして死神だなんて単語を使った? リンド=L=テイラーの発言、彼がすぐさま殺されたことから考えても、キラがなりたいのは死神ではなく正義だ。……そのキラが、わざわざ自分の能力を死神だなんて表現することに違和感を覚えるのは、そう的が外れているだろうか?

 花子もまた、兄に目を走らせた。こちらの様子が見えていないことを確認し、身を屈める。屈む竜崎の鼻先に唇を寄せた花子は、「知らないけれど」と言った。ほとんど息のような声だった。竜崎は、彼女が笑っているのを確信した。

「世界には、見えないものが多すぎる」


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