5.5


善悪の概念という悪魔を知るために、そんなに犠牲を払わねばならないなら、なんだってこれを知る必要があろうか
 ――ドエト=エフスキー「カラマーゾフの兄弟」


 花子は目の前に座る竜崎を、腕を組んで眺めた。テーブルにはケーキの皿が溢れんばかりに並べられ、夢中になった竜崎は話を始めるどころか、花子に目を向けもしない。「来るんじゃなかったよ」と本人を前にぼやく花子を、月が宥める。
 半端な時間だからか、客はそう多くない。よく晴れた午後の一時を楽しむ人々は、風変りな男を含んだ三人組にそれほどの注意を払わなかった。注文を取りにきた店員が、月を見て頬を赤く染め上げ、「いまあるケーキをすべて持ってきてください」との注文に貌を青くしていたから、もしかしたら店側には注目されているかもしれない。

「竜崎、そろそろ本題に入ってくれ」
「そうですね」

 ショートケーキの苺を摘み、モンブランのクリームを救った竜崎に、花子が眉を顰める。ケーキは先端から崩さず食べていくのが彼女の流儀だ。それを、あっちこっちに手を付けるような真似をして。非常に気に障る。竜崎はもちろん彼女の機嫌など意にかえさず、今度はフルーツタルトにフォークを立てた。タルト生地が崩れる。

「それでは……私がLだと名乗り出たことから、何かわかりますか?」

 夜神さんのご息女ならば信頼できる。捜査本部は人手不足であり、できることなら手を貸してほしい。そのために推理力を確かめるテストを実施したい。そんなのは表向きの理由に過ぎないと、花子は理解していた。Lだと竜崎が名乗り出た以上、花子も月同様疑われているのは間違いない。何が信頼できる、だ。この狸め。

 竜崎も、花子が自身の意図に気が付いていると、察しているだろう。その上で話に乗ってきたのだから、こちらの望みにも見当がついているはずだ。おそらく、月も同じことをしたのだから。
 花子はキラの証拠を得るため、捜査本部に参加したい。

 意外だったのは、竜崎の呼び出しに月まで付いてきたことだった。花子は右手に座った月を横目で見た。「だめですよ」と竜崎が言う。

「月くんの手助けは認められません。自分で考えてください」
「そういうつもりじゃない」

 噛みつくように返す妹に、月は眉を下げ、わかりやすく困った顔を作った。
 竜崎と花子をふたりにしておけば、いつ喧嘩が始まるとも知れず、もしも公共の場でそんなことになれば困ったことになる。月はそう主張して、花子に同行した。もちろん、そんなことを心配していたわけではない。真の目的は監視だ。竜崎の言動はなるべく把握しておく必要がある。また、万が一花子に下手なことを吹き込まれることがないよう、牽制の意味でも同席が望ましかった。
 実際、同席してよかったかもしれない。紅茶を啜りながら、月は頭を巡らせているだろう妹と、それをじっとりと眺める竜崎を見た。テストはまだ始まって間もないというのに空気が悪い。

「そうだな……」

 花子は唸り、左の指先で唇に触れる。
 捜査本部に入るには、それなりに頭が使えるところを見せなくてはならない。また、月の疑いを分散する為にも、なるべく月と同じことを言いたい。月が言ったこととは、即ち完璧な解だろう。そんなことが自分に出来るか……。

「……この状況で私がキラだとしたら、私はあんたを殺せない。あんたがLだと明かした瞬間にあんたが死ねば、私がキラだと言っているようなものだから。と、あんただってそう簡単に死ぬつもりもないでしょ。なら、姿を見せても殺されない細工がある……とすれば、キラの殺人で必要なのは顔、だけではない……?」

 言いながら、花子は竜崎を観察した。真っ黒な瞳は内でいて、人間らしい感情など無いのではないかと疑いたくなる。花子は目を細めた。竜崎は口を開く様子はない。となれば、この答えはまだ完全ではない。

「……ねえ、FBIはどうやって死んだの?」
「先日病室で言った通り、全員がお互いを確認するため、捜査員の情報が入ったファイルを手に入れ、全員殺されました」
「捜査員の情報が入ったファイル? なんでまたそんなものを」
「互いを確認するためだそうです」

 それを全員が手にして、全員が殺された。キラはどこかでFBIに接触していたはずだ。全員がファイルを手にしたのは、接触した捜査官を隠すため。キラはファイルを手に入れたかったのか? それがあれば、どんな人間が自分を追っているのかがわかる。互いを確認するためならば、もちろん顔は載っているのだろう。あとは……
 ……そうか。

「互いを確認するってことは、顔と名前が載っているファイルだ。それをキラは手に入れた。なら、キラが顔以外に必要としているのは名前。……これなら、あんたが流河秀樹なんて名乗っているのにも説明が付く」
「正解です」

 よかった。過剰な安堵を見せないよう、花子は細く息を吐いた。紅茶を飲む。隣で月が微笑んだ。

「すごいな、花子。やるじゃないか」
「よく言う。こんなの、月なら考えなくてもわかるんでしょ?」

 何せ、キラ事件に対して適切なことを言いすぎる、だ。捜査能力を試すとは名ばかりのこの尋問も、卒なくこなしたのだろう。

「次は……こちらの写真をご覧ください」

 竜崎が、ケーキの皿を無理やり端に寄せた。陶器が擦れる耳障りな音、煩雑なテーブルの状況に、花子が顔を顰める。それを見もせず、骨張った指先がテーブルに写真を並べた。三枚。
 花子は面倒臭そうに写真を手に取った。対岸から向けられるじっとりとした視線を無視し、裏返す。

「……ああ、頭を読むのか。番号順に読むと……えるしってるか、りんごしかたべない、死神は……続きないの?」
「あります」

 出された四枚目。何故一枚隠されていたのか、花子には分からない。けれどもこの程度なら何を言っても問題ないだろう。読み上げる。

「手が赤い。へえ、そう」
「では、もし花子さんがLだとして……キラの可能性のある者に相対したら、キラであるかどうかどうやって確かめますか?」
「……さぁ」

 知るか。
 まるでわからなかった。竜崎を見るも、彼は以前として花子を凝視し続けている。彼女は嘆息して、目を瞑った。散らかったテーブルも、気に入らない男も視界から締め出し、沈黙する。
 キラであるかどうかを確かめる方法? そんなものがあるのなら、とうに月や自分にこいつは試しているはずではないのか? そんなものがあればの話だ。なければ……

「……ん? 私はいま、あんたにキラだと疑われてるんだね?」
「はい、そうです」
「なら、いまあんたがやっていることが、答えなんじゃないの」

 花子は目を開けた。正面に座った竜崎を見つめる。

「色々なことを聞いたのは喋らせたいから……。ボロを出させるのが目的。なら、そのボロは、キラが持つ情報……キラしか持たない情報、そういうこと?」
「正解です。が、けっこう時間かかりましたね」
「うるさいな」

 わざとらしく時計を見る竜崎に花子が舌を打つ。「行儀悪いぞ」いつもは自分が妹に言っている文句を兄に言われ、彼女はますます拗ねたように眉間に皺を寄せた。

「優秀な兄貴とは違うんだ。それくらい、知っているでしょ」
「はい、ですが、花子さんもそれなりに頑張りましたよ」

 こんなに腹の立つ労りの言葉があるだろうか。

「それで、流河。花子の疑いはどうだ?」

 月の言葉に、竜崎はちらりと目を上げて彼を見た。爪を噛む。
 引っ掛からなかった。FBIについては先にヒントを与えてしまっていたと言え、解答としてはそう悪くない。Lが用意した罠を、彼女は全て退けた。彼女に兄のような知能指数はない。上にこの解答。キラではない。それが妥当。

「……夜神くん同様、花子さんも十分キラとしての素質がありそうですね」
「おい、どういうことだよ」

 怪訝そうに眉根を寄せる月には態と目を遣らず、竜崎は膝を抱えて座ったまま、花子を覗き込むよう、ぐっと身体を前に傾けた。ぎょっとした花子が気味悪げに身を引くも、その分を埋めるかのように身体を詰める。バランスを崩した身体を支える為、テーブルに手をつく。混み合った皿たちが悲鳴を上げ、月が彼を咎めたが、気にも留めない。
 見たいのは反応だった。夜神月の。彼がキラだとすれば、妹に嫌疑がかけられる状態は、二重の意味で不服だろう。キラは負けず嫌い。必ず噛みつく。

「いえ……日本捜査本部のみなさんに比べ、頭が回りますし、肝も座っている。夜神くんは昔から正義感が強かったとお聞きしていますが、花子さんはそうでもないようですし」
「馬鹿な。だいたい、リンド=L=テイラーが殺された時、花子は自室にいたんだ。花子の部屋にはテレビがない。キラなわけが」
「月」

 月の声が温度を上げていく直前、花子がそれを諫めた。妹の声に、月が隣を振り返る。
 花子はわざとらしいほど優雅に紅茶を啜り、竜崎に目を向けた。「ね、メニュー取って」空になったカップがテーブルに着地する。差し出された手に、竜崎が渋々、端にあるメニューを摘まむ。「どうも」悠然とメニューを眺める花子はもう、竜崎のことなど視界に入っていないかのように振る舞う。竜崎の挑発に対する、わかりやすい挑発だ。

「私とこいつが喧嘩しないように月が来たのに、月が噛みついたら私が我慢している意味がなくなる」
「我慢しているんですか? それで?」
「それに、あんまりムキにならないほうがいいよ。なんだか怪しいなって、私でも疑いたくなる」
「……おまえなんて、粧裕が怪しいって言われただけで、椅子を蹴り倒しただろ」

 言いながら、けれども月は険を収め、妹に苦く笑ってみせた。軽く肩を竦める。花子はそれを見て、にやりと口端を歪めた。時たま感情を昂らせる兄を落ち着かせるのが、彼女はとても得意だった。

 夜神月からこれ以上の反応を得られないと判断した竜崎は身を引いた。しゅるしゅると椅子に戻る最中、空いた皿を乱雑に月の方へ押しやる。あれだけ肩を並べていた菓子類は、もう半分も残っていない。苺の剥がれたショートケーキを放ったまま、手をつけていない皿を引き寄せ、フォークを刺す。竜崎は、首を傾げて花子を見た。女性にしては長身な花子だが、背丈は竜崎の方が高い。しかし、酷い猫背の為に、見上げる形になる。

「花子さんは、キラをどのような人物だとお考えですか?」
「そういや、この間話してたね。月は裕福な子ども……だった?」
「ああ」

 押し寄せてきた皿に顔を顰めつつも、月はさらりと頷いた。

「じゃあ、そうなんじゃない?」
「少しは自分で考えようって気がないんですかあなた」
「私は正義感が強いというわけでもないようなので、あんまりキラに興味はない」

 月に押し付けられた皿を、これまた不本意そうに片付けながら、でも、と花子が続けた。

「犯罪に、縁がない人間だろうとは、思う」
「理由は?」
「人間の善性を信じ過ぎている」
「なるほど……。月くんの言った、裕福な子どもというのにも当て嵌まりますね」
「まあね。……キラは、悪いことをした人間を殺す。死にたくない人間は、悪いことをしなくなる。実際、犯罪率は低下しているし、一種の抑止力にはなっていると思う。だけど、いまはいないだけで、いつか必ず、それが通用しない人間が現れる」
「どういうことだ?」

 訝しげな月に、花子は軽く笑って手を振った。

「死にたくないから、悪いことはしない……こんな奴らは、もともと大して問題じゃない。本当に問題があるのは、もっと頭のおかしい奴らさ」

 もともと、死刑制度は抑止力の意味合いも持っている。一人殺した程度では、死刑にはならないのが誰もが知る事実ではあるが、それでも、「殺せば死刑になりますよ」というのは普通の人間であれば踏みとどまるラインに横たわっている。
 キラが犯罪発生率を下げている理由もこれだ。殺されるから殺さない。殺されるから奪わない。ここで留まれる人間は、自分の命を、目的よりも高く見積もっている。
 しかし、だ。実際、そんなことを顧みもせず、犯罪を犯す人間が、いる。

「奴らにとって、死刑になることなんて、どうだっていいんだ。むしろ、目的たる罪を犯してしまった後の人生なんて消化試合なんだから、死んでしまったほうがはるかに楽なくらいだろう。となると、キラが本当に救っているのは、そういう奴らかもしれない。目的を高く見積もるような。命は手段の一つでしかない。キラは人間がみんな善く生きられるという幻想を信じすぎているよ。それがわからないなら、キラは神にはなれない。そもそも、神なんていないほうが、まだ、世界は健全だ」

 神は人を殺させる。

 ……妙なことを言う。
 竜崎は「そうですか、面白いことを考えますね」などと嘯きながら、コーヒーを啜り、カップの陰から具に花子を観察した。
 やはり、夜神花子は奇妙だった。月のプロファイルとは比べ物にならないほど大雑把で稚拙。これではプロファイリングなどではなく、ただの感想だ。
 そう、感想だ。
 キラの人物像に対して、なぜ犯罪者側の視点を持つのか・・・・・・・・・・・・。彼女がまさに、裕福で罪とは縁無く生きてきた子どもだ。目的にこそ、命より重きを置く ――こんなことを、考えるか?

「……ところで、流河。さっきから思ってたんだけど、食事の時くらい、椅子から足を下ろしたらどうだ?」

 花子を見て、月は何かを言い淀んでいるような、煮え切らない表情をしていたが、結局口を噤むことにしたらしい。彼は矛先を竜崎に変えると、母親そっくりに口を尖らせた。

「せめて、花子の前でくらいやめてくれ。潔癖なのは知ってるだろ? 靴下履いてないだけで、気持ち悪がられたわけだし」
「いいよ、月」

 兄の気遣いに、花子が素っ気なく肩を竦める。テーブルに散らばった焼き菓子の欠片を指先で摘み、皿の上に落とす。右肘をついて顎を乗せると、彼女は挑戦的に目を光らせた。「いまのうちに、慣れておいた方がいい」

「付き合い、長くなりそうだからね」
「いえ、さっさと終わらせますよ」


<< >>

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -