Scene 07
 ペドフィリア男とふたりきりだなんてとんでもなく嫌なシチュエーションであるが、致し方のないことである。花子はできる限り毅然とした態度を繕って、ロシナンテと対峙していた。いやほんと、この世界来てからほとんどはったりで生きているようなものなんだよなあ。

 ロシナンテはわかりやすく顔色をなくして花子を見つめている。やはりこれはこの男の弱みなのだ。確信を持った花子は、海軍証をポケットにしまった。力づくで来られたらひとたまりもないが、ふたりきりになる以上リスクは覚悟の上だ。

 花子はローに、もし自分が死んだらドフラミンゴの元を去るようよく言い含めていた。ローが何を思ってこんな海賊団に身を寄せたのか、花子とて考えなかったわけではない。けれどもどうしても、花子は己の倫理観を捨てることができなかった。弱者は保護され、福祉の重要性が声高に叫ばれる社会で育った花子にとって、ローのような子どもが悪党に与している状況を許容することはできなかった。
 とはいえ、自分自身も弱者に属し、ローどころか己を守る手立てもろくに持っていない今、強者の影に隠れるほうがよっぽど安全なのだということも花子は理解している。だから花子は、自分がいるかぎりはローが海賊団に属することを受け入れた。自分が傍にいられさえすれば、少なくともローが辛い目に合っている時、小さな身体を抱きしめてやることができる。些細なことではあるが、他者の温もりがどれだけ心を癒すのかを、花子はこの二年間で身をもって学んでいた。

 だからこそ、自分が死んだ時にはここを離れるよう、花子は可愛い少年によくよく言い含めた。そんなことになったら、こんな悪辣な環境で一体誰があの少年の柔らかな心に寄り添ってやれるというのだろう。ローは気にしていないようだが、ここの連中は揃いも揃って碌でもないとしか言いようがない。暴力を持って他者を踏み躙る彼らが、白い街で暴虐の限りを尽くした世界政府とどう違うのか、彼女にはわからない。
 海賊団を離れることにローは納得する素振りを見せなかったし、花子が死を匂わせることに彼はとても怒ったが、花子があまりにしつこく頼み込んだからだろう。最終的には渋々ながらも頷いてくれたので、もしここで花子が殺されたとしても、彼女は悪徳海賊の下からローを逃がすことはできる。殺されてもただでは起きない算段をつけてから勝負を仕掛けるあたり、花子は強かだった。はったりとノリで修羅場を生き抜いてきた女は訳が違う。

「そうご心配なさらずとも、まだ誰にもこのことはお伝えしておりません。まだ、ですけれども」

 ロシナンテが花子を見つめる顔は厳しい。花子は必死に頭を回す。
 そしてロシナンテもまた、この窮地をいかに切り抜けるか、必死で頭を回転させていた。

(おれが海軍だと知ったら、ドフィは確実におれを殺す……! こいつが“まだ”って言ったのは本当だ。だったらこいつさえ黙らせちまえば)

 死人に口なし。浮かんだ物騒な言葉を、ロシナンテは頭を振って追い出した。
 けれど状況は切迫している。花子が誰かにこのことを喋ってしまったが最後、自分は殺され、二度とドフラミンゴを止めることができなくなる。あの兄を止められるのは、もう自分しかいないだろうに。

 花子を睨みつけるばかりで行動を起こさないロシナンテに、花子は慎重に言葉を選び、口を開いた。
 花子にとって、ここは正念場だ。勝てば、この後は自分一人で事を起こすよりずっとやりやすくなる。負ければ、自分はここで退場することになる。

 ……ロー

 頭にあるのは、あの白く可哀そうな、愛しい少年のことばかりだ。

「……もし、ご自分の弟君が海軍所属だなんて知ったら、若君はどう思われるでしょうね?」

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。背に強い衝撃を受け、肺が一瞬機能を停止する。理解が追いついたとき、花子の身体は宙に浮いていた。喉元を強く押さえつけられ、息ができなかった。ばたばたと見苦しくもがくも、その足が地面に着くことはない。
 ロシナンテは片手で花子の喉元を締め上げ、持ち上げている。それは彼にとって、あまりに簡単なことだった。このまま絞め殺すことも、首の骨を折ることも、造作ない。ぐっと力を込めると、一層激しく花子が暴れる。ロシナンテの手に立てられた桜貝のような爪が、細く赤い筋をいくつも残した。

(……殺せねえ、)

 どんなに大義を掲げたところで、ただの女を殺すことはどうしたってできない。ロシナンテは、そういう男だ。
 急に喉元を締め付ける力が緩み、花子はそのまま床に崩れ落ちた。何度も激しく咳き込み、酸素を身体中にいきわたらせる。酷い耳鳴りがした。頭の中で何かががんがんと喚きたてているようだ。気持ちが悪かった。無様な呼吸を繰り返し、床に這いつくばりながら花子は、目の前に立つ男を見上げた。男は苦悶するような表情で花子を見下ろしている。花子は笑った。男は驚いたように目を丸くした。

「取引しましょう、中佐殿。断るという選択肢は、あなたにはない」

 ロシナンテが諦めたように頷き、ぱちんと一つ指を鳴らした。花子は床を這う姿勢のまま、顔が埃塗れになるのも構うことなく力強く拳を握った。

 勝った!!!

「条件は何だ」
「……え、」

 唐突な聞きなれない声に、花子は勢い良く上体を起こし辺りを見回す。もし第三者にこの話を聞かれていたとしたら終わりだ。顔を青くして必死に辺りを探すも、しかし埃っぽい室内には花子とロシナンテ以外の影はない。

「おれだ」

 ロシナンテはしゃがみ込み、花子の目の前で自分を指さした。確かに、ロシナンテから発せられた声のようである。花子は目を眇め、胡乱な視線をロシナンテに投げた。

「……口が利けたんですか」
「ああ。これも秘密にしておいてくれ」

 なんてことないようにロシナンテは肩を竦めた。海軍であることがばれている以上、こちらを隠していても仕方がないし、いちいち筆談をするよりこちらの方が早いと思ったのだ。

「悪かった。立てるか?」

 一応、礼儀として手を差し出してはみたものの、案の定花子はその手を取らなかった。まあ、自分の首を絞めた男の手なんか借りたくないのは理解できる。ロシナンテはため息を吐いて手を引っ込めた。

 埃塗れの床に倒れた花子は、酷い有様だった。もとより衣服が擦り切れていたこともあり、より一層みすぼらしく見える。けれどもしゃんと背筋を伸ばし、ロシナンテを射抜くように見つめるその姿は堂々としたもので、どこか気品さえ感じられた。

「先に申し上げますと、私はあなたを信用していません。信用する気もありません。けれどもこの先、あなたの秘密を黙っている以上、私はあなたの共犯者です。互いに互いの邪魔をしない。これを最低条件として、話をさせていただいてもよろしいですか?」
「そりゃかまわねえが……。ひとつ訊いてもいいか?」
「どうぞ」

 しゃがみこんだまま花子を見上げ、ロシナンテは煙草に火をつけた。その瞬間、例のごとくコートが燃え上がり、慌ただしく消火するのを花子は冷めた目で眺めている。

『こいつが共犯とかやっぱ外れだろこれ……』

 なんとか火を消したロシナンテは、仕切り直しとばかりに再度しゃがみこんで煙草を咥えた。紫煙を美味そうに吐き出すその顔は化粧のせいで笑っているようにも泣いているようにも見える奇妙なものだが、目ばかりは鋭く花子を見据えている。

「おまえはドフィに忠誠を誓ってるんじゃないのか?」

 花子は笑った。薄い笑みを浮かべ、わずかに首を傾げてみせる。ロシナンテは、ここで初めて花子が成人女性であることを認識した。ロシナンテから見れば子どものような容姿であるのに、どことなく色気を纏った笑い方だった。

「いいえ。私、昔から鳥類って苦手なんです」


<< >>


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -