Scene22.5
 二週間。ふたりはその小さな売春宿に引き篭もった。ロシナンテは一週間足らずで歩けるまでに回復していたが、花子のために留まることにした。弱り切った彼女を、とてもではないが海賊どものアジトになど戻せなかったし、あの兄に会わせたくなかった。
 必要なものは宿の者に買いに行かせ、ふたりは抱き合って眠る以外のことをまともにしなかった。肌が汗でべたつこうとかまわず、もたれかかるたびに自身の頬がロシナンテの胸にぺたりと張り付くのを、花子は笑った。風呂に入るときには、ロシナンテが花子の髪を洗ってやった。剥き出しになった胸元を合わせ、互いの鼓動を感じながら眠る。起きるのは大抵昼か夕方で、時間を無為に食い潰すことだけが、花子を落ち着かせた。そんな生活に、ロシナンテは花子が望む限り、付き合ってやるつもりだった。

『ここにずっといたいな。もうどこにも行きたくないし、誰にも会いたくないの』
「だから、なんて言ってるかわからねえって」

 以前言っていた、故郷の言葉だろうか。花子はあまり喋らなくなり、口に出すほとんどをロシナンテにはわからない言葉に変えた。そんな花子を腹の上に乗せ、ロシナンテは長い髪を梳くように撫でる。ロシナンテの身体が大きすぎて、花子がロシナンテの左胸に耳をつけると、爪先は膝を擽るところまでしか届かない。小さいなあ、小さいなあと思うと、ロシナンテの胸はきゅんと疼く。

『あなたみたいな人、とっても嫌いなの、ロシナンテ』
「お。いま、ロシナンテって言ったな」

 首を伸ばし、胸に抱いた花子と目を合わせる。茶色を混ぜた夜色の虹彩は、暗く淀んでいる。ロシナンテはわざと、大きく唇を釣り上げて笑った。

「おれのことが好きだって言ったのか?」
『ずっと一緒にいてね。私より先に死んでは嫌』
「……? やっぱわかんねえなあ」
「ふふ」



 ある時花子が本が読みたいと呟いたので、ロシナンテは急いで遣いを出して買いに行かせた。彼女の好みがわからず、ロシナンテは読書アレルギーである。何がいいのかわからないまま、とりあえず何でもいいから面白いやつを買ってきてくれと無茶難題を吹っ掛けられた宿のアルバイトは、多めのチップのために悩みに悩んで何を血迷ったか動物図鑑を買ってきた。妙齢の女にこれはないだろうとロシナンテは慌てたが、存外花子は気に入った様子で、ベッドに丸くなって図鑑を抱え込むようにし、飽きるだろうと思うほどに没頭した。特に、牙やツノのない、ふかふかした可愛らしい動物がお気に入りな様子で、ロシナンテの腹の上で図鑑を広げては、朝から晩まで過ごしたことさえある。鳥のページは絶対に開こうとしなかった。
 ろくに口を利かず、甘いものばかりを選んで食べ、風呂を嫌がり、起きる時にはぐずる。子どものようになった花子を、ロシナンテは思う存分甘やかした。欲しいと言ったものは何でも与えてやり、頬にキスをして、しかしそれ以上は何もしなかった。夜中、彼女が風の音に怯えて起きると、ロシナンテも起きてやり、下手な子守唄を歌った。



 そんな暗い蜜月を過ごしているうちに、花子は少しずつ動くようになった。ベッドから降りるのも嫌がっていたのが、朝には窓を開けるようになり、風呂に入るようになり、ロシナンテから与えずとも食事をする。そうして十五日目の朝、ロシナンテが目を覚ますと、花子はすでに起きていた。窓辺に座り、光を浴びながら通りに目を落としている。
 目を覚ましたロシナンテを、花子が振り返る。

「帰らなくては。あの子のところへ」

 この部屋で、花子がロシナンテにまともに話しかけたのは、これが初めてだ。

「ああ」

 ロシナンテは笑った。

「そうしよう」

 ローといることが、彼女の負担になっているのではないかとロシナンテは考えた。大切な子どもが日ごとにその命を蝕まれているのを間近で見続けて、ストレスを受けないはずがない。
 いっそのこと、<>花子のすべてのストレスが、ローに起因していたらいいのに。そうすればロシナンテは、おまえのためだと言って花子からローを取り上げてしまえる。その魅惑的な策は毎夜のようにロシナンテを誘ったが、けれど結局、ロシナンテは花子をローの元へ帰してやる他ない。花子が“生きたい”と望むのであれば、それはすべてローのためだったからだ。



 転がり込んだ状況が状況だった。荷物というほどのものもなく、部屋を片付けるのには一時間とかからなかった。ロシナンテが買ってやった動物図鑑を、花子は持って行く気がないようで、それがロシナンテにはとても残念だったけれど、彼女の思う通りにしてやった。
 宿の者に多めのチップを払い、外に出る。二人とも、久方ぶりの日差しに目が眩み、僅かな間足を止めた。潮風の匂いだ。ロシナンテは笑って花子を見下ろす。

「何か食って行くか? 」

 花子がちらとロシナンテを見遣る。元のように、愛想のない顔だった。

「いいえ、私は何も。あなたが食べたいなら、付き合いますが」

 ロシナンテも、特段腹を空かせていたわけではない。それでも、少しでも二人きりの時間を引き伸ばしたくて、「じゃ、どこか海沿いの店に入ろう」と花子を誘う。花子は素っ気なく頷き、ロシナンテの隣を歩いた。ロシナンテは、ゆっくり歩いているのがどうかバレませんようにと願う。
 天気が良かった。風は穏やかに、花子の長い髪を揺らし、彼女は億劫そうにそれを抑える。ロシナンテはそれを、眩しく目を細めて眺めた。花子の白さも細さも、この二週間で幾分か増したように思える。

「やっぱりおまえも食べた方がいい」

 ロシナンテは優しく言った。

「そんなんじゃ身体が保たねえよ。食うのだって訓練だ。いざドフィから逃げ出すって時に、踏ん張りが効かねえと困るだろ」
「……そうですね」

 花子は自身の手を、忌々しげに見下ろした。筋肉など少しだってついていない、弱い女の腕だ。

「あまり食欲はないんですが……パスタくらいなら、何とか」
「! パスタな! わかった、いい店知ってるぞ! 海鮮のやつが飛び切り美味くて……。そうか。花子はパスタが好きなんだな!」

 意気揚々と歩き出したロシナンテは、コンパスの違いで危うく花子を置き去りにしそうになった。「ちょっ、と」「! わ、悪ぃ!」小走りになった花子が息を弾ませたところで、己の失態に気がつき慌てて足を止める。

「すまねえ、大丈夫か? おぶったほうがいいか?」
「……平気です」

 硬い声に、大男はしゅんと肩を縮こまらせる。さっきまではちゃんと気をつけていたのに……。ドジを踏んでしまった。
 落ち込むロシナンテには気をかけず、「そんなことより」と花子は髪を払う仕草のついでに素早く周囲を見渡した。人通りが多いことに彼女は眉を顰めるも、今日が休日であることに気がつく。引き篭もっている間に、感覚という感覚が鈍ってしまった。感覚だけではないなと、花子は忌々しく思う。このくらい、走ったうちにも入らないというのに、鼓動は速度を上げたまま戻る兆しがない。

「普通に喋っているのは危険では? どこにあいつらがいるか……」
「あ、ああ、そうだった」

 ロシナンテが指を鳴らす。「サイレント」指の音を最後に、二人は街の喧騒から切り離された。

「これなら、ファミリーの連中に会っても俺たちの声は聞こえねえよ」
「そうですか」

 無論、ロシナンテが口を動かしているところを見られればアウトだ。潜入捜査である以上、どんな些細なことが命取りになるか知れず、そう言った細部にまで気を配る必要性をロシナンテは十分に理解している。
 理解した上で、ロシナンテは口を閉じるのではなく、能力を使った。大丈夫だと、彼は自分に言い訳をする。危ない橋を避けるより、彼は花子との時間を選びたかった。
 花子がそれに気がついていないはずもない。ロシナンテはなるべくさりげない仕草で彼女を伺ったが、凪いだ表情からは何も読み取れなかった。じっと見上げてくる黒い瞳に、ロシナンテはどぎまぎとして心臓を抑える。

「ど、どうかしたか?」
「手を」

 言いかけて俯いた花子を、ロシナンテは努めて優しく促した。「手が、どうかしたか?」なるべく我儘を聞いてやりたいのだと、全身を使って伝えたかった。
 逡巡するように視線を泳がせた花子は、息をすっと吸い、上目遣いにロシナンテを見つめる。
 そうしてするりと自身の腕に回された白い腕に、ロシナンテは危うく叫び声を上げるところだった。

「おっ、おお、おま」
「迷惑なら」
「迷惑じゃっ! ない!」

 離れていきかけた手を、ロシナンテは慌てて捕まえる。組み直された腕に花子はロシナンテを見上げ、仄かに眦を緩める。

「変な人。私の裸だって見ているくせに」
「そりゃあ……! そ、そういうのと、これじゃあ、話が違うだろ」
「何が違うんですか?」
「……。うるさい」

 ロシナンテは不機嫌に口を曲げたが、決して腕を解こうとはしなかった。ずんずん進んでいくように見せて歩幅を合わせられていることに気づいている花子は、僅かに後ろからロシナンテの赤くなった耳を眺める。

「私ね、こんなに安心して外を歩けるの、フレバンスを出てからは初めてなんです」
「……おう」

 隠れて恋人の真似事をしたことはあれど、こうして陽の下を二人並んで歩くのは初めてだった。とは言え、たったこれだけのことで赤面するなんて、初心な男だ。花子は自身の心が冷えていることに気づかずにはいられない。それがキリキリと、彼女の心臓に小さく深い傷をつける。
 暗い宿に閉じこもって、どこにも行かずに誰にも会わずにいたかったのは本心だった。ずっとこの大きな男の心臓の音だけを聞いていられたら、どんなにか幸せだっただろう。心からそう思うからこそ、花子は痛い。屈託無く笑い合う普通の恋人同士になれたら、どんなに気が楽だろう。
 自分の言葉がどれほど嘘くさく聞こえるか、花子は知っている。嘘で固めた姿しか見せてこなかった。あの暗い部屋でなら幼子のように甘えていられたが、そこから出ることを選んだのは、花子自身だ。

「本当なの」

 口の中で呟くような、本当にささやかな声を、幸いロシナンテは聞き逃さなかった。
 わかってる、と言いかけ、ロシナンテは言葉を変えた。

「おまえが言うことは何だって、嘘だなんて思わねえよ」
「……ロシー」
「どうした?」
『私より先に、死んじゃったら嫌だよ』
「ん、わかった」

 理解できない言葉に、ロシナンテは躊躇いなく頷く。
 ちょいと振り返ると、小さな女と目が合う。ロシナンテには遅すぎる速度でも、花子にとっては普通に歩く速度だった。周りにいる女たちと比べても、花子はあまりに小さい。小さく、華奢で、一番かわいい。腕の長さが違いすぎて、組むと言うよりは花子の手がちょんと手首のあたりに乗せられている程度だったが、それを見るのも堪らなかった。
 疼く心臓を抑え、ロシナンテはできる限り明るく笑う。

「俺もさ、おまえはパスタの他に、パンとスープもつけるべきだと思うぜ。デザートも食べたほうがいい!」

 言葉が伝わっていないことに、花子は安心した。

「食べるの、待っていてくれますか? 時間がかかります」
「当たり前だろ」
「残してしまうかも」
「俺が食うよ」
「食べている途中に海賊が来たら?」
「一緒に逃げよう」
「うん」

 花子は水を溢すように笑い、落ちた髪を耳にかけた。

「逃げようね、ロシー」
「……ああ。絶対」

 笑い返しながら、ロシナンテにはその時、花子がとても幼い女の子に見えた。同時に、幼かった兄の姿も浮かんだ。

「ぜったい、一緒に逃げような」


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