Scene 22
 とてもアジトまで行く余裕はない。そもそもこんなところをドフラミンゴにでも見られればおしまいだ。
 動けないロシナンテをどうにか引き摺り、二人は安い売春宿に転がり込んだ。部屋に入るや否や、花子はロシナンテごと床に倒れる。なんとか大男の下から這い出し、花子はロシナンテを仰向けに寝かせてやる。そうすると、青白くなった顔や胸を濡らす血の赤さに、ぞっと血の気が引いた。

「どうしようロシー、血が、血が……っ」
「落ち着け」

 取り乱す花子に対し、ロシナンテは冷静だった。
 彼は薄べったい枕を二つに折り、傷口に当てると、それを上から押さえつけるよう花子に指示を出した。横たわった彼は彼女の肩を使い、下肢を挙上する。

「おれはデカいから、ちょっとくらい血を流したって死なねえよ」
「でも、……」
「心配すんな」

 自分より、よほど酷い顔をした花子の方が心配だった。
 頬を濡らしながら、花子は懸命にロシナンテの指示に従う。傷口を圧迫し、血液の流れが止まるのを確認すると、自分の肩の代わりにベッドに足を乗せてやった。階下の主人に湯を沸かさせ、温めたタオルで傷口を拭ってやり、飲ませてもやった。

「輸血とか……病院に……」
「必要ねえよ。おまえでいい」

 ロシナンテは笑う。
 彼の身体は、花子が思うよりも随分頑丈にできている。それでも数日はここを動けないだろうとロシナンテは踏んだ。もう夜も近い。薬を買いに行かせてと花子が頼んでもロシナンテは許さなかった。泣いて弱った女など、暴漢どもの格好の餌食だ。噂がファミリーに届くのを恐れ、宿の者を買い出しに行かせるわけにもいかない。

「いいから、ここにいてくれ。……シャツ、脱がせてくれるか。血で濡れて寒みぃ」
「うん」
「ありったけの布団持ってくるよう、店番に言ってくれ」

 店の男は季節外れの注文をつける客に怪訝そうな顔をしたが、潰れた羽毛布団を二枚と簡易ストーブを貸し出してくれた。ロシナンテの身体に合うシャツはなく、花子は彼を毛布で包んでやった。むっとするほど温めた室内で、ロシナンテの皮膚はとても冷たい。心細さに、花子は彼を布団にぎゅうぎゅうと押し包む。「狭えよ」身じろぎできないほどの不自由さにロシナンテは笑ったが、花子の気の済むようにさせてやった。

「寒くはありませんか? 他に何か、必要なものは?」
「そうだなあ」

 床に寝転んだまま、ロシナンテは花子を見上げる。先ほどまで稚児のように従順だった彼女は、幾らか落ち着きを取り戻したようだった。相変わらず目が潤んではいるものの、口調が戻っていることにロシナンテは気がついた。

「おれはまあ平気だ。それより、ローは平気なのか? あいつ、ナイフ持ったまま走ってったが……」
「ナイフは私が海に捨ててきました。ローくんはアジトに帰っているはずです」
「そうか。なら、大丈夫だろ」

 ローがなぜ自分を刺したのか。ロシナンテはなんとなく想像がついている。
 ファミリーに加入したばかりの頃、ローは後ろからロシナンテを刺したことがある。あの時よりも、ローにはロシナンテを殺すだけの、明確な理由があるのだ。自分が花子に目を向ける時、それに気づいたローがこちらを睨んでくることがあった。たぶん。砂浜で転がりながら考えたことだった。恐らくローは知ったのだろう。ロシナンテが、花子を好いていること。花子を自分の部屋に呼ぶこと。

「おれたちのこと、話したのか」
「……さっき、少しだけは」
「あいつ、おれのこと嫌いだからなあ」
「その……」

 言いにくそうに、花子は視線を下げた。「うん?」ロシナンテは、努めてやさしく促してやる。

「……その、ローくん、私があなたの部屋から出てきたのを見かけたらしくて……。それで、私があなたに何か……ひどいことをされていると思ったようなんです」
「ああ」

 予想と違わない回答に、ロシナンテは頷く。
 子どもたちには、見かける度に暴力を振ってきた。理由があると言え、向こうからしたら理不尽以外の何者でもない。加えてローが何よりも大切にしている花子に手を出したのだから、ローに言わせればこれは正当な攻撃と言えるのではないかとさえ思う。

 ひどいことをしている、というのが引っかかった。まるきり心当たりがないわけではない。あの日以降、ロシナンテは時たま花子を部屋に呼んだ。それは協力者としての情報交換も兼ねてはいたが、いつだって、下心がなかったと言えば嘘になる。花子は嫌な顔をしないどころか、稀に自分から仕掛けてくることさえあった。
 浮かれていたのだと思う。好いた女の肌に触れることを許され、求められていると誤解した。

 ロシナンテは床に転がったまま、花子を見上げる。こうやって見ても、華奢で、とても小さな女だ。弱りきったロシナンテでも、腕も首も、簡単にへし折ることができるだろう。

 ロシナンテを受け入れるのは彼女の生存戦略だと、少し考えればわかるだろうに。情事の最中、初めよりはだいぶん和らいだ顔を見せるようになっていたから、花子だって満更ではないのだと思っていやしなかっただろうか。彼女も自分のことを憎からず思っているのだろうと、どこかで信じ込んでいた。……信じ込もうとしていた。
 それは暴力と同義だと、ロシナンテはようやっと気がついた。花子にとって、ロシナンテとの蜜月は選択肢のない状況で選んだ性行為だった。決して自分から強要することはなかったと言え、花子が他に選べる道がないことなんてわかりきっていたのに。自分が、断らなければならなかった。だって、花子が何の悩みもない町娘で、幸せに暮らしていたら、ロシナンテを選んだだろうか? 選ばないだろうとロシナンテは思う。だって、花子はロシナンテのことを、少しだって好きではないから。ならこれは、暴力なのだ。兄が花子にひどいことをしたのと同じだった。
 いいや、それだけは違うとロシナンテは思いたい。たとえ二人の関係が暴力だったとして、ドフラミンゴと同じではないと。ドフラミンゴはただ手慰みに玩具を弄ぶ残酷さで花子を蹂躙したのだ。ロシナンテはそんなつもり少しだってない。なるべくよくしてやりたかったし、優しくしてあげたかった。見返りに愛してほしかったから。

 かつての母を思い返すと、いつも抱きしめられていた記憶がある。ロシナンテはよく泣く子どもだった。悲しいことがあった時、べそをかいてふらふらと母のもとへ行くと、母は穏やかに眉を下げ、両腕を広げてくれた。柔らかな胸に耳を付け、その肌の温かさに心臓が落ち着きを取り戻していく、あの感覚……。悪いことなど何も起こらないような安心があった。
 花子を見上げると、黒々とした瞳は不安に濡れていて、落ち着きなくあちこちをさ迷っている。窓を開けようか逡巡している様子や、やけに床の埃を気に留めている様子を見て、ロシナンテは安心させてやりたくなった。きつく包まれている腕を布団から出す。「花子」なるたけやさしく名前を呼んだ。彼女が振り返る。

「何か欲しいものでも?」
「ああ。……いや、えっと」

 これは暴力にならないだろうか。数舜迷い、ロシナンテは弱々しく笑った。腕を広げる。

「その、なんだ……すこし、寒いから」

 自分でもひどい言い訳だと思ったが、花子もそう思ったようだった。失敗したなと思ったとき、花子の顔はロシナンテが予想したように嫌悪を浮かべはしなかった。おや、と思っているうちに、彼女の目元にぎゅうと皺が寄る。色の薄い唇が震える。
 花子が口を開いた時、その声も震えていた。

「なんの、つもりです」
「す、すまねえ。そこまで嫌だとは」
「私にこれ以上やさしくして、一体あなたは何がしたいの?」

 花子は強く唇を噛む。ぷつりと皮が破れる感触があり、鉄の味が舌をじんわり濡らしたが、構わなかった。「……花子?」ロシナンテが、気づかわし気に名を呼ぶのが聞こえる。聞きたくないと叫べたらどんなにいいだろう。声を上げて子どものように泣くことができたら。それが許されたら。
 いいや。きっと許してくれるのだろう、この男は。

「もう……もうやめてください……これ以上は……」

 ロシナンテが花子を求めるのなら、言い訳ができた。対価を払っているからと、彼のやさしさを利用することができた。けれどそれも限界にきている。ロシナンテのやさしさが花子の盾になるのと同時に、それが彼女の精神を痛めつけた。捨てたはずの倫理が彼女を糾弾し、道徳が首を絞めていく。花子の精神はとうにまともではない領域に踏み込んでしまっている。

「私はあなたを騙している。あなたの気遣いもやさしさも利用している。あなたにかけた言葉も、向けた笑顔も、ぜんぶ計算でした。だってそうすればあなたは私を切り捨てられないことが分かっていた。あなたのことなんて、本当はどうだっていい。全部全部嘘なんです私は私が生き残るためにあなたを利用していた。だってそうしないと私たちは死んでしまうから!!!」

 純粋な親切に、肉を斬られるようだった。他人にそうしてもらえるだけの価値がないと花子は自身を評価している。差し出せるものがないために。すべてを損得で考える癖がついてしまった。疑う習慣もついた。もう、誰のことも無邪気には信じられない。この世界での経験が、これまでの花子を容赦なく殴り、痛めつけ、踏みにじった。

「こんな人間じゃなかったんです。本当は私、こんな人間ではなかった」

 花子は堪らず、両手で顔を覆った。低く呻く。

「働き者でもないし、仕事なんて大嫌いだった。子どもだって、かわいいとは思うけれど、あんまり得意じゃないんです。ありがとうと、素直に言える人間だった。お母さんはそうやって私を育ててくれた……っ。こんな、打算的で非情で、人の好意まで利用して意地汚く生きる方法を探すような、情けのない、惨めな人間になんてなりたくなかったッ!」

 叫びながら、頭のどこか冷静な部分が自身を俯瞰し、嘲笑うのを花子は聞いた。なんて愚かなんだろう。せっかくここまで騙してきたのに、こんなつまらないところで終わりにするなんて。何をしてでも生き残ると決めたくせに意気地のない。
 そう思うのと同時に、これさえもこの男に許してほしいと思っているのを、花子は否定できない。騙したのを赦してほしい。その上で受け入れてほしい。なんて浅ましいことだろう。もはや笑い話にもならない。

 花子は疲れ切っていた。ロシナンテを騙し、甘い関係を築く裏で摩耗していく精神。日に日に大きくなっていくローの白斑。ギリギリのところで踏ん張っていた彼女の心を折ったのが、ローがナイフを持って笑った、あの顔だった。「返り血だよ」そう言ってはにかんだ子どもを、ああ、抱きしめてやらなければいけなかったのに。すべて花子のせいなのに。恐ろしいだなんて、思っては、決していけなかったのに。
 ローがやさしい子どもだと花子は知っている。ずっとあの白い子どもに心を寄せてきた。どんなに苦しい状況でも、彼が他者への思いやりを捨てることはなかった。オペオペの実が手に入ったのなら、自分のように治らない病に苦しんでいる人を一人でも救いたいと、ベッドの中で切なげに話すことだって、ちゃんと知っている。
 愛しい子どもを凶行に駆り立てたのは花子自身だ。自責の念がどうしようもなく彼女を打ちのめした。

「ああぁ……」花子は啜り泣く。気が付けば床に座り込んでいる。もう二度と立ち上がれないのではないかと思うくらいに、身体は重く、苦しい。

「殺して」

 花子が言った。

「もう生きていたくない」

 広げた腕の行き場もないまま、ロシナンテは床に蹲る花子を見つめる。美しい髪がざらざらと散らばり、その中で子どものように泣きじゃくる女の造形は、哀れになるほど弱々しくか細い。

 死にたいと言ったことが、ロシナンテにもある。母を喪い、父が生きていた頃だ。窓から吊るされ、晒し者になり、身体中に矢を受けたあの日。地獄はここにあると思った。死んで、もうすべてを終わりにしたかった。やさしい母の腕の中に帰りたかった。

「知ってた」

 笑ってくれるどころではないなとロシナンテは思う。花子がローに向ける、あの顔を自分にも向けてくれたらいいと願っているのに、図体だけデカいばかりでちっとも彼女を笑わせることができない。死にたいと言葉にしてしまう人間がどれほど追いつめられているか、ロシナンテは知っている。

「おまえがほんとは、おれのことなんてちっとも好きじゃないことぐらい、おれは知ってた」

 動かない身体をどうにか起こし、ロシナンテは花子の髪に手を伸ばした。耳にかけてやると、腕の隙間から泣き顔が見える。目は真っ赤に晴れているのに、頬に血の気はない。なんて可哀想で、かわいいのか。ロシナンテは努めてやさしく、彼女の頬に唇を寄せる。

「なあ、花子。おれはそれだっていいんだ。おまえがおれを利用して、自分の身を守るためにおれを裏切ったって、おれはいいんだよ」

 だってロシナンテだって利用していたのだから。花子が自分を頼るしかない状況に閉じ込めて、好意のままごとを甘受していた。ひどい話だ。正義を背負うはずの自分は、知らぬ内に悪党に成り下がっていた。ロシナンテは花子に笑ってほしいのではない。笑いかけてほしいのだ。逃がしてやれなかった。彼自身の欲のために。
 ロシナンテは花子のことが好きだ。とても好きだ。
 正しく愛するとは、どうすればいいのだろう。

 ロシナンテは花子を抱き寄せた。長い腕の中に閉じ込める。しゃくり上げ、ひくつく身体を彼は慈しみ、撫でてやる。母が子を抱くのに似た仕草で、花子を膝に座らせるロシナンテを見たら、ドフラミンゴは言葉を失ったかも知れない。在りし日の彼らの母に、その面差しはあまりに似ていた。

「おまえが守らなきゃいけねえのは、おまえ自身とローだろう。おれのことなんて考えるな。いくらでも利用しろ。誰がどれだけ責めたって、おれが許す。もしおまえが、それでも苦しいと言うなら」

 たとえ打算だったとしても、そこに愛情のひとかけらもなかったとしても。ロシナンテが花子を見捨てることはない。困っているのなら手を差し伸べてやりたいし、泣いているのなら慰めたい。傷つけられたのなら、傷つけた相手を殺してやりたいとさえ思う。手放すことはできない。その代わりに、それ以外のことはすべてしてやりたかった。
 はじめはただの憧憬だった。手に入らない母性に焦がれていたのが、いつの間にこんなところまで来てしまったのだろう。振り返れば後ろに続く道は暗く、もう戻ることなど、出来るわけがなかった。たとえ行く先の方がもっと暗くとも、行き詰ってどうにもならなくなる日が来ようとも。
 もしそんな日が来るのなら、それは穏やかな絶望だとロシナンテは思う。その絶望を、彼は愛と呼んだ。

「そのときは、おれに申し訳ないと思いながら、苦しんで生きていってくれ」
「ひどいひと」

 涙にけぶった眼で、花子がロシナンテを見上げる。抱えた腕が余るほど、花子の身体は小さかった。覆い被さって、押しつぶしてしまえるほど、かわいらしい生き物だ。潤む虹彩に自分の姿しか映っていないのを見て、ロシナンテは微笑んだ。

「おまえのことが、好きなんだよ」


<< >>


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -