Scene 21
「なんでお外明るいの?」
「祭りだよ。フレバンスはいつも栄えてる」

 あの日のことを覚えている。
 ラミはもう、自分で身体を起こすこともできなかった。病院のベッドに横たわり、外の喧騒に耳を澄ませていた。雪が大好きだったのに、降っても外で遊べなくて、最初は泣き喚いていたのに、それすらももうしなくなった。

 妹の傍で絵本を読んでやっていたローは、海賊がやってきた場面で声を張り上げる。外の騒ぎを、少しでも妹から隠すために。人間が殺し合っているだなんて、島の人間が謂れのない理由で殺されているだなんて、そんなこと妹には知ってほしくなかった。
 トントン、軽い力で扉が叩かれる。読み聞かせを止め、ローは立ち上がって戸を開けた。コートを着た花子が立っていた。「ラミちゃん、おはよう。ローくんもいたんだね」にっこりと笑う彼女はコートを羽織っていて、耳の先と鼻の頭が寒さに赤らんでいる。

「花子」
「いい子のラミちゃんにお土産があるの」

 そう言ってベッドの側までやってきた花子は、後ろに隠していた手を「じゃんっ」とラミに見せた。彼女の手に収まるほどの雪うさぎが、つぶらな木の実の目をつけてちょこんと蹲っている。

「わあっ」

 手を伸ばしたラミが起き上がろうとしたので、ローは慌ててその背を助け起こしてやり……背骨が浮いたその感触にゾッとした。もともと食の細い子どもな上偏食なので、母が頭を悩ませていたことは知っている。それでも、こんなに痩せ細ってはいなかったはずだ。そう言えば、ローはここのところ、ラミが食事をしているのを見ていない。

「うさぎちゃんだあ」
「かわいいでしょ」

 手に雪うさぎを乗せてもらい、無邪気にはしゃぐ妹の横顔をローは見る。ふくふくと丸かったはずの頬っぺたは、いつの間にかごっそりと肉が落ちていた。

「花子が作ったの? すごく上手!」
「そう言ってもらえると嬉しいなあ。赤い木の実を見つけて、もうこれはうさぎちゃんしかないなって」
「いいなあ。私も雪遊びがしたい」
「お熱が下がったらね」

 そう言って花子は、持ってきた皿の上に雪うさぎを乗せ、窓際に置いてやった。「ここならラミちゃんからもよく見えるし、たぶんあんまり溶けないから」「うん」手を拭いたラミは、いい子に横たわる。前に、熱があるのに雪で遊びたいと、外に駆け出した時とは大違いだ。

「ごめんね。ローくんのも作ってくればよかったんだけど」
「おれはいいよ」

 黙ってその様子を眺めているローに気を使ったのか、花子がしゅんと眉を下げる。それにローは首を振った。彼はうさぎが欲しいわけではない。

「ねえ、花子。お話をして。お姫さまが出てくるやつがいい」
「お話なら、おれがしてやっただろ」
「お兄ちゃん、下手っぴなんだもん」

 それに海賊はきらーい。ませた様子でつんと顔を背けるラミに、ローは「なんだとっ」と大袈裟に腹を立てて見せる。それを見ていた花子は楽しそうに笑い、ベッドの傍に椅子を引き寄せた。ローもまた、ベッドに腰掛ける。
「じゃあ、今日は雪のお姫さまのお話にしようか。あるところに、美しい王国がありました。ふたりのお姫さまはとても仲がよくーー」


「ローくんはとってもいいお兄ちゃんだね」

 病院からの帰り道、恥ずかしがるローを説き伏せ、花子は手を繋いで歩く。教会のみんなに見られたらとそわそわしてしまうけど、ローだって手を繋ぎたくないわけではないのだ。花子の手は柔らかくて温かくて、ローは好きだった。二年も住んでいるくせにいまだに「迷子になっちゃうから、お願い」と言う花子には、バレているのかもしれない。

「そうでもないよ」
「妹にお話をしてあげるお兄ちゃんは、いいお兄ちゃんだよ」
「下手くそって言われたけどな」
「ふふっ。でもラミちゃん、楽しそうだったでしょう」

 たしかに、今日のラミはここ一週間のうちで一番元気だったように思う。でもそれは何も、ローのためだけではない。
 ローは隣を歩く花子を見上げた。そう背の高くない彼女でも、ローよりは身長がある。下から見上げる彼女の肌はつるりとしていて、病人らしい色はどこにも見当たらなかった。もちろん、白斑もない。フレバンスの住人は、花子くらいの年齢になると全員白鉛が表在化している。

「……花子」
「なあに?」
「逃げないのか?」

 きょとんと、花子が不思議そうな顔をするのが意外だった。ローを見下ろす彼女の目は、どんぐりのように丸くなっている。

「え、何それ? 何の話?」
「この島の人間がどんな目に合ってるか、花子はちゃんとわかってるだろ」

 父と彼女が子どもたちに隠れて真剣に話し合っているところを、ローは見てしまった。白鉛病の病態、誤った情報と政府の仕打ち。そのために生まれた凄惨な差別。その時に父親が花子をこっそり島外へ逃す算段をつけていたのをローは知っている。花子がそれを断ったことも。

「逃げたって、誰も責めない。父さまも母さまも、ラミも、おれだって。帰る場所はないって花子はそう言ったけど……どんなところでも、ここよりはマシだろ」

 花子の故郷をローは知らないし、彼女はあまりその話をしたがらなかった。はじめのうちはどうにか帰り道を探していたようだったが、最近ではその様子もない。多分もう帰れないだろうと、一度だけ聞いたことがある。
 だとしても、フレバンスにとって花子は異邦人だ。この島の理不尽な差別に彼女は関係がない。白鉛病を患っていない彼女なら、国境を越えることは容易でなくても、どうにか逃げ出せるだろう。ここから出ていき、穏やかに暮らすことを望むのが普通なんじゃないだろうか。彼女は長い寿命を持っているのだ。ローと違って。

「花子だけでも、どこか平和な島で幸せになってくれれば……おれは……」

 繋いだ手に力を込めるのが怖かった。ここで振り解かれてしまったら、ローはどうすればいいだろう。
 二年間。これが長いのか短いのか、ローにはわからない。浜辺でローが花子を助けた日から、二人はいつも一緒だった。言葉を喋れるくせに知らない単語が多く、時には常識さえ知らない花子の面倒を、ローはよく見てやった。電伝虫を初めて見た時、花子が悲鳴を上げたことをローは知っているし、風呂の沸かし方やランプの芯の変え方など、生活における本当に些細なことの一つひとつを教えてあげたのだ。とても遠いところから来たのだと言う彼女は、ローにとっては当たり前のことに驚き、感動し、苦労し、笑った。
 そんな彼女には、どうか生き延びて欲しいと思っている。死んでほしくなんかないし、怖い目にだって合ってほしくない。本当だ。
 でも、手を離さないで欲しいと思っている。ローは怖い。一緒にいて欲しい。ひどい矛盾だ。
 こんなことを思っているとわかったら、花子はローのことを嫌いになってしまうかもしれない。だからローは、一緒にいてなんて、一度も言ったことはない。
 繋いだ手が、ぎゅうと強く握られる。あんまり強い力だったので、ローは叫んだ。「痛い! 花子!」「お馬鹿なローくん」握った手から力が抜け、それでも花子の手は、しっかりローと繋がっている。ローが見上げても、彼女の顔は見えなかった。前だけを見据えるその手が、小さく震えていることだけがわかった。

「今日のお昼ごはん、何だろうね。私、ホワイトシチューがいいなあ」





▲▽▲






 ここに来て一週間が経った頃、ローはコラソンをナイフで刺した。花子が来る前の話だ。
 同じことをやればいい。だが、まるで同じというわけにはいかない。以前、コラソンはちっとも死ぬ様子を見せなかった。今度は確実に殺すのだ。あいつはローの花子を傷つけた。許すわけにいかない。
 懐にナイフを隠したローは、真っ直ぐに海へ向かった。コラソンをそこで見たと、セニョールたちが話しているのを彼は聞いた。前の時はバッファローに目撃されたが、もうそんなヘマはしない。自信があった。ここにきた時に比べ、彼は強くなっていたし、海賊らしい狡猾さも身に付けていた。今度は上手くやる。

 あの男は、あの時、どうしてローに刺されたことをドフラミンゴに言わなかったのだろう。歩きながらそのことをローは思い出したが、すぐに頭から追い払った。そんなことは、今どうだっていいことだ。花子を苦しめる敵を殺す。これだけが必要だった。どの道あの男はクズなのだ。フレバンスの人間が死に、あんな男が生きさばらえているなんて、不条理ではないか。

 街を歩く。海に近づくごとに人気は減った。都合がいい。コラソンは本当に海辺にいるだろうか。いるといい。探すのに時間をかけたくはない。なるべく早く殺し、さっさとこんなところを出ていくのだ。
 ドフラミンゴの弟に手をかけたことがわかれば、ローとてただでは済まないだろう。それくらいのこと、彼だって承知している。造った荷物は既に街中に隠してあった。今日花子はアジトから出て、港近くの店でローを待っているはずだ。ひとりで待っていて欲しいと言ったローに花子は不思議そうな顔をしたが、彼女がローを疑うなんてありえない。必ずローを待ってくれている。

 海岸で、ローは足跡を見つけた。男にしたってかなり大きいその靴跡を彼はよく知っている。注意深く身をかがめ、遮蔽物の影を進んでいく。
 コラソンは海に向かってタバコを吸っているようだった。呑気に腰を下ろして、燃えかけただろうコートは脇に置いてある。その方がいい。刃物を刺すのに、衣服というのは思いの他邪魔だ。それが外套であれば尚のこと。
 なるべく音を立てないよう柔らかい靴を履いてきた。ゆっくりと砂に足を下ろせば、水分を含んだ砂地は音もなく足を沈ませる。一歩一歩、なるべく気配を消して近づく。考え事でもしているのかも知れなかった。海を眺める背中は無防備で、こちらを振り向く気配もない。
 好都合だ。
 後方十mまで来たところで、ハッとした様子でコラソンが動いた。傍のコートを引き寄せ、振り返りざま銃を手に取る。それよりも早く、ローは駆け出してた。身を低くし、獣のようにしなやかに。コラソンがトリガーに手をかける。彼の表情が変わる。目が大きく見開かれ、銃の標準が逸れる。好機だ。寸前、ローはナイフを両手に握った。確実に殺すには、片手では足りない。
 肉を破る感触。肋骨の合間を狙った。寝かせたナイフは狙い通り骨と骨の隙間に沈む。思い切り力を入れた。横だ。引けたのは数cm。抜き取る。出血を促すために。
 血飛沫が舞った。ナイフの先から飛んだ血液は、赤くコラソンと、ローの頬を汚す。ぬるつく血液の、その温度を感じなかった。ローは目の前の男に集中する。
 立ち上がりかけたコラソンは、そのまま身体を前に折った。左手が胸を押さえる。シャツはぐっしょりと赤く濡れている。鮮やかなその色に、ローは狙い通り、大きな動脈を掻き切ったことを確信した。
 バランスを崩した巨体が崩れ落ちる。銃を離した右手が地を掻き、砂に痕を残す。伏したままコラソンはローを睨み上げた。血の飛んだ頬。唇が動くが、ひゅーひゅーとか細い息が鳴るだけだ。無論、彼に声などないだろうが。
 ローは震えた。高揚だった。爪先から頭まで、達成感に満ち満ちている。頬が赤くなるのがわかり、ローは笑った。惨めな敗北者を見下ろしながら。
 やった
 やった!
 花子!!!
 倒れたコラソンを置き去りに、ローは走り出す。血塗れのナイフを持ったまま。





▲▽▲






 先日からローの様子がおかしい。一体何があったと言うのだろう。
 ここ数日、ローは花子から離れなかった。休憩時間はもちろんのこと、勉強中や鍛錬の最中でさえ花子が目の届くところにいることを望んだ。挙げ句の果てには花子の仕事中、ドフラミンゴの部屋に入り浸るようにまでなった。ドフラミンゴや幹部連中が赤ん坊返りかと揶揄っても、離れようとしない。ただの我儘でないことはわかる。花子といる時、ローは普段よりも穏やかな表情を見せるのに、沈んだ表情は笑みを浮かべることはなく、目は暗く澱んでいるのだった。流石に様子がおかしいと花子が問い詰めても、ローは答えなかった。ただ、どこにも行かないでと言うだけだ。そんな子どもに、抱きしめてやる以外何ができるだろう。どこにも行かないよとローの背を撫でながら、花子は何もしてやれない自分が情けなかった。
 花子の相談相手といえばロシナンテくらいしかいないが、ローが四六時中張り付いている状況で彼と口を利くのは不可能だった。元々、彼らは人前で極力関わりを持たないよう気をつけている。それはローの前とて同じことだ。情報の漏洩を度外視しても、いつか自分が裏切って死なせるだろう男と親しくしているところを、花子はローに見られたくない。
 病気で身体が辛いのかもしれない。それで、悪い夢でも見たのだろうか。ローの白鉛が日毎に表在化していることに、花子も気が付いている。彼の父親が残したカルテを花子も読んだが、もしかして、残された時間は思っていたよりも短いのではないか? そう考えるたび、花子は焦りでおかしくなりそうだった。ドフラミンゴからはまだオペオペの実が見つかったどころか、その片鱗さえも聞いていない。一体いつ、ローの病気は治る。間に合うのか。ローが病魔に犯され死の淵に立つようなことがあったら、その絶望にきっと花子の方が先に死んでしまう。

 花子は手の中のメモを見下ろした。ローの字だ。白い四辺の紙には、事細かに今日一日の指示が書かれている。昼過ぎに港近くの店で昼食を摂り、退店。数日分の食料を購入し、波止場裏のベンチで待機……何をするつもりなのか、ローは花子に告げなかった。朝、彼女が目を覚ました時には同じベッドに入っていたローはすでに着替えを終えていて、彼女にこの紙を差し出した。何も訊かず、言う通りにして欲しいと言う彼に、花子は一も二もなく頷いた。
 ただ、心配なのは数日分の食料のことだ。そんなものが必要だとすれば、どこかに出かけることになる。だが、一体どこに? ドンキホーテ・ファミリーに遠征の予定はない。花子を除き、ファミリーの面々は各々好き勝手にアジトを出入りしている。子どもたちも例外ではない。いままで外泊はなかったと思っていたが、キャンプでもしたいのだろうか。
 メモを渡したローは、今日はやることがあるんだと、花子の部屋を出て行った。ここのところ、あれだけ一緒にいたいと強請っていたのに。
 昼食を終え、適当な果物と乾パン、水を用意した花子は、ローの指示通り波止場近くのベンチで彼を待った。
 ぬるい潮風に髪が絡まる。フレバンスに流れ着いた時には短かったこの髪も、もう随分伸びた。流れる髪を耳に掛けながら花子はぼんやり考える。スパイダーマイルズに来てからというもの、整容にとんと興味が失せた。伸ばしっぱなしにしていたが、邪魔だし切ってしまおうか。ローはこの髪が気に入っているようだけれど。
 ああ、あと、あの男もか。

「花子!」

 聞き慣れた声。駆けてくる足音に花子は立ち上がった。近づく小さな人影に手を振る。「ローくん」陽も落ちかけた波止場には人気がない。向こうのほうで、海鳥が鳴いている。波の音に紛れ、自分の声はとても小さく聞こえた。否、本当に発声できたのかも怪しい。
 花子は手を挙げたまま固まった。喉は引き攣り、目は見開かれ、愛しい子どもに縫い留められる。

「ごめん、待たせた」

 足を止めたローは微笑んで花子を見上げた。彼女が持つ荷物に目をやり、満足げに頷くと、自分の荷を抱え直す。

「花子の分の着替えもこっちに入ってる。勝手に用意したのは悪かったけど……計画を話したら怖がると思ったんだ。ごめん」
「ローくん」
「うん?」
「それ、……どうしたの?」

 首を傾げたローは……花子の視線が自身の右手に向けられているのを見て、ナイフを握ったままであることを思い出した。途中、荷を回収する際に捨ててこようと思っていたのだが、あんまり急いでいたので忘れたのだ。「ただのナイフだよ」事実、それは彼に取っては何の変哲もないナイフでしかない。既に事は済んでいる。花子だって、普段ならばローがナイフを握っていてもあまり気にはならなかっただろう。それが血塗れでなく、白い頬に血が付いていなければ。

「何があったの?」

 海鳥が鳴く。ローは左手で花子の手を掴んだ。「盗めそうな船を見つけてあるんだ、行こう」手を引くも、花子は動かない。二度引いて、それでも彼女が凍りついたままであるので、仕方なしにローは彼女を仰ぎ見た。いつコラソンの死体が見つかるとも知れず、少しでもドフラミンゴから距離を取っておきたい。それでも花子が怯えている以上、ローは安心させてやりたかった。この世の何よりも優先するべきは、彼女だから。ローは努めてやさしく語りかける。

「コラソンを殺したんだ。死ぬところは見てないけど、たぶんちゃんと殺せてる。だから、おれたちはドフラミンゴから逃げないといけない。大丈夫、ちゃんと段取りは考えてる。いますぐ船を出せば、夜に紛れて逃げられる」
「……殺した?」
「うん」

 目の前で歯を見せる子どものことが、花子には信じられない。
 一体何を言っているのだろう。痺れた脳は緩慢に情報を反芻する。荷物、船。白いメモに書かれた指示。食料を用意しろと……、血塗れのナイフ。夜に紛れて、逃げる? どこへ?
 コラソン
 殺したんだ

「そ、その血は……」

 やっとのことで吐き出した声はみっともなく震えていた。声だけでなかった。あまりの恐ろしさに、骨の髄まで冷え込んでいる。寒い。戦慄く足がきちんと地面に立っているのか、花子にはわからない。きゅうと絞られた視界はローだけをくっきりと写している。彼の頬に散る、黒くなったそれを。

「ああ」

 ローは微笑んだ。

「返り血だよ」

 瞬間、
 自分で思うより早く、花子はローの手を振り払っていた。買い込んだ食料が地面に散らばる。踵を返し駆け出そうとした彼女を、済んでのところで子どもの手が捕まえる。

「花子! どうしたんだ!?」
「離して! 死んじゃう!」

 ローはどこから来た。どこで殺した。彼はどこにいる。

「ロシーが死んじゃうっ」
「行かないで花子」

 ローは花子の腰に抱きついた。
 かわいそうに。ローは思った。かわいそうな花子。海賊団なんかに身を置いて、怖い思いをして、きっと逆らえばひどい目に遭うと思っているからこんなことを言うのだ。小さく薄い身体をした花子から見れば、コラソンのような大男が、どれだけ恐ろしいことだろう。
 花子を抱きしめたまま、ローは彼女の背に手を伸ばした。なるだけやさしく、背を撫でるように叩いてやる。かつて母がしてくれたように。悪い夢を見た時、花子がしてくれるように。

「あいつに嫌なことされてたんだろ。もう怖がらなくていいんだ。二人で逃げよう、こんなところ」

 オペオペの実の話を、ローだって忘れてはいない。けれど、一体いつそれは手に入るのだ? 花子に話して以来、ドフラミンゴがその単語を口にしたことはない。元よりとても確率の低い話であることを理解している。
 ローは疲れてしまった。手に入るかわからない希望よりも、いま目の前にいる大切な人を守りたいと思うのは、悪いことだろうか。ローはもう、死んでしまったってよかった。仕方がないことだと思える。だからこそ、限りある命を花子のために使いたい。彼女が笑って暮らせればいい。彼女を苦しめるものはすべて死ねばいいと思っているし、彼女の平和を作るのが、自分であればいいとも、願っている。
 いつかローにはそれができなくなってしまうから。

「おれが守るよ」

 生きている間は、どんなことでもしてやりたい。
 ローは花子を愛している。

「……ローくん」

 花子は細く、息を吐き出す。
 尖った痛みに、唇がひび割れていることに気がついた。舌で湿らせる。塩のベタつきを感じる。
 落ち着け。花子は自分に言い聞かせた。落ち着いて、いま、この子が言った言葉を考えろ。
 ローは逃げると言った。ドフラミンゴから。コラソンを殺したから。ローの持つ荷物も、用意させた食料もこのためだった。盗める船も見つけ、逃げる算段もついていると言った。頭の良い子だ、きっとしっかり考えたのだろう。だが、花子は知っている。ドフラミンゴがどれだけ優秀な“悪のカリスマ”であるか。
 いまローを連れ出すわけにはいかない。ドフラミンゴは本格的にローを右腕に育て上げるつもりだ。もはや逃す気はないだろう。ローが花子を連れて逃げ出せば、事実はどうあれ花子だけが殺される。ローのせいで。それだけはいけない。

「……聞いて、ローくん」

 背に触れる小さな身体の温かさを噛み締めながら、花子は振り返った。後ろから抱きつくローを剥がし、目線を合わせる。

「私はコラソンを助けに行く。治療をしなくちゃ。ローくんはこのままアジトに帰って。誰かに何か訊かれても、絶対に知らないってだけ言うんだよ。出来る?」
「助けにって……なんで……」

 ローは信じられない気持ちで花子を見つめる。
 たったいま、ローはコラソンを刺してきた。花子を救うためだ。

「花子、まさかあいつのこと……ッ!」

 目の色を変えたローの肩を掴み、花子は叫ぶように言う。

「私たちがふたりで生きてファミリーを抜けるには、あの男を利用しなくちゃならないのッ」

 ローの病気の話。病院が頼りにならないのならば、ドフラミンゴがオペオペの実を手に入れる可能性に賭けるしかない。病気を治して逃げ出すためには、花子がドフラミンゴに近しい者と親しくなっておく必要がある。
 いくらかは本当で、ほとんどが嘘だ。花子はロシナンテを裏切ることも、死なせるつもりだということも、ローには話さなかった。

「黙っていてごめんなさい。余計な心配をかけたくなかったから。まさか、こんなにローくんを追い詰めちゃうなんて……!」

 失策だ。ローがコラソンを気に入っていないことを花子は知っていた。だからこそ自分たちの関係を隠していたのだが、それが仇となるとは。ローがベビー5たちに見せる自分への執着を、花子は親を取られまいとする嫉妬程度のものだと思っていた。これほどの激情だとは、思ってもみなかった。
 コラソンは生きているだけで価値がある。彼が兄に花子を自分のものにすると宣言をした時点で、彼女の身の安全は保証されたようなものだった。もちろん、永続的なものではない。それでも、海軍も、海賊も敵に回す花子を守れるのは、世界中にコラソンしかいない。
 震えている。それはこの子への恐れでもあると、知られてはならない。花子はローが可愛い。世界で一番大切な子どもだ。それなのに、いま、花子はローが恐かった。
 いつから間違っていたのか、何がいけなかったのか、花子にはもうわからない。フレバンスに流れ着いた時から、いつも必死だった。生きたかった。生きていてほしかった。すべてそのためにしたことなのに。

「花子……」

 子どもが自分を暗い目をして見つめているのに、無力な女は微笑んでやることしかできない。





▲▽▲





 
 しくじった。
 人生でそう思うのは一体何度目だろう。
 いい加減砂を噛むのに嫌気が差し、ロシナンテはどうにか身体を仰向けに転がした。たったそれだけの動作で全身が悲鳴を上げる。短く息を吐き出す毎に、命が流れ出ていく感覚がある。
 夕陽が世界を赤く染め上げていた。穏やかに波打つ海面は橙色に輝き、空の美しさを反射させる。それを眺めながら、また一つ息を吐き出す。

 医学を学んでいるだけあって、良い腕をしている、糞ガキめ。悪態を吐けるだけまだ余裕があるなと、ロシナンテは胸の内で苦く笑った。とは言え悠長なことを言っていられる状況ではない。流れる血は勢いを弱めず、どれだけの量になっただろう。冷えた砂もどんどん熱を奪っていく。本当に動けなくなるまで、そう幾許もない。
 それでもロシナンテはぼんやりと夕焼けを眺めるだけで、何もしなかった。できることがないのだ、仕方がない。隠し持った電伝虫はあるが、一体それで何をする? センゴクに助けを求めたところで無理があるし、ドフラミンゴに伝えればローが殺される。ローが死ねば、花子だって殺される。いや、殺される前に、死んでしまうかも知れない。
 花子
 彼女のことをどう思っているのか、ロシナンテは己の感情を読み解けていなかった。思春期に熱烈に抱いた恋情とは違う。ローを見つめるあの眼差しに、母親を求めているのかとも考えたが、抱いてみてそれも違うとわかった。あの小さな女を前にすると、ロシナンテの感情は絵の具の氾濫のように判別がつかない。それは優越感でもあり、郷愁の苦しさとも似ていて、ひび割れる寂しさ、飢えの渇き、ぎゅうと胸を掴まれる愛しさでもあった。
 死にたくはない。兄を止める使命が果たせていない。それでも、ここで自分が黙って死ねば、少なくともあの二人が逃げる時間程度は稼いでやることができるだろう。そう思って仕舞えばもう、ロシナンテは電伝虫に手を伸ばす気にならなくなった。諦めたいわけではなくとも、彼の守りたいものは、誰も彼の手を素直に掴んでくれないのだから。

 足音が近づいてくるのを、ロシナンテは遠く聞いた。波の音に合わせて意識が遠退いては我に返り、それを繰り返す。目蓋が赤く照らされて、目を閉じていることに気がついた。終わりが近いのかも知れない。息を吐く。
 自分は、たった一つでいい、誰かに何か、してやれただろうか。

「ロシー、ロシー!」

 肩を強く揺さぶられ、ロシナンテは重い瞼をゆっくりと持ち上げた。焦点がうまく合わず、視界はぼけている。真上から、自分を覗き込んでいる人間がいることはわかった。垂れた長い髪が首筋を掻くのが鈍った感覚の中でこそばゆい。手が触れている箇所だけが燃えるように熱かった。

「ロシー……っ」

 雫がロシナンテの頬を濡らす。後からあとから降ってきて、一粒、ロシナンテの目に入った。滲む視界の奥、赤い光が揺れる中で女が泣いているのが見えた。血の気のない唇を震わせ、とてもかわいそうな、可愛い顔をしている。
 夕陽を背負った花子が泣きながら自分に縋っている。奇妙なほど幸福な気分に、ロシナンテは微笑んだ。


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