Scene 20
 よく晴れた日だ。空には雲ひとつない。窓から差し込む光で廊下は明るく、眩しいくらいだった。ローは花子を探して歩く。
 鍛錬も勉強も今日の分のノルマは終えた。陽はまだ高く、久しぶりに花子を街に連れ出してやるつもりだった。以前一緒に出かけてからというもの、やっぱり花子は給金で自分のものを買うという発想がないらしく、溜め込んでばかりいる。化粧品をとても大事に少しずつ使っているのを知っていた。そう高価なものでもないうえ、最低限のものしか持っていないはずなのに、花子はこれでいいのだと言って笑う。

「ローくん以外、お化粧したところを見せたい相手なんていないもの」
「なら、おれが見たければいいのか?」
「そう言われたら張り切っちゃうなあ」

 結局のところ、ローと出かける時にしかめかしこむ気はないらしい。

 女は着飾るだけで楽しく過ごせるのだとジョーラに聞いた。先日、セニョールから花子が好きそうなカフェを教えてもらったこともあり、いつかのようにまた、二人きりで出かけるつもりだった。ドフラミンゴから受け取った分け前も、財布にたっぷり入れてある。普段医学書を買うときにしか使わないそれで、花子のものを揃えるのが楽しみだった。また、以前のように喜んでくれるだろうか。あんな風に笑ってくれたら、いいな。

「ね、いいでしょ!」
「行こうだすやん」

 聞きなれた声にローは足を止める。ダイニングからだ。

「今日はお天気もいいんだし、出かけなくっちゃ。私、ずっと一緒に行きたかったお洋服屋さんがあるの」
「こいつ、いっつも誘いたがってただすやん。ローもいない今のうちがチャンスだって」
「でも、勝手に出かけて怒られないかな?」
「私たち、べつにいつも好きな時に外に出るわ」
「アジトに篭ってるのなんて、花子だけだすやん」

 扉を開けると、花子が子ども二人を前に、曖昧な顔をして微笑んでいた。最初にローに気がついたのはバッファローで、「げ」と言わんばかりに顔を引きつらせる。次いで振り返ったベビー5も、ローを見ると無邪気な笑みを強張らせた。

「あ、ローくん」

 花子が微笑む。彼女は立ち上がり、戸口に立つローと視線を合わせるように膝を折った。

「お勉強お疲れ。休憩? 紅茶入れようか?」
「いや……今日の分はもう終わった」
「本当? すっごいなあ」

 小さな手がやさしく頭に伸ばされ、帽子の毛を撫ぜるように動く。それがローは好きだった。帽子の下で一瞬口元を綻ばせた彼は、目を上げる。剣呑さが隠しきれない。

「何の話をしてたんだ?」
「バッファローくんとベビーちゃんがね、お出かけに誘ってくれたの」

 花子の後ろ、気まずそうな顔をしている二人に目を向ける。バッファローはあからさまにげんなりした顔をして肩をすくめたが、ベビー5はローの視線に「なによ」と唇を尖らせた。

「いっつもローばっかりじゃない! 私だって、たまには女の子同士お出かけしたいもん!」
「あ?」

 睨み付けると、あまりの眼力にベビー5の目には涙が浮かぶ。「こら、ローくん」花子が困ったように眉を下げ、指の背でローの目元を撫でた。

「女の子を睨みつけたら駄目でしょう」
「……あんなのべつに女じゃねえ」
「そんなこと言って」

 子どもらしい言い草に、嗜めている筈がうっかり笑ってしまう。ベビー5は幼いながらに器量が良く、年頃になれば人目を引く美人になるだろうと花子は思った。それをローに言いはしないけれど。彼らはあまり、未来の話が好きではない。

「ローの意地悪! ばか! きらい!」
「……」
「ひっ」
「睨まないの」

 泣きべそをかいたベビー5が、花子の背中にしがみつく。それに構ってやる花子がローは気に食わなかった。帽子の鍔を下げ、表情を押し隠す。
 今日は一緒に出かけようと思って、鍛錬だって勉強だっていつも以上に頑張ったのに。それを邪魔されて怒ったからと、どうして自分が悪者になるのだ。

「べつに、行きたきゃ行けばいいだろ」
「ローくんは一緒に行かない?」
「行かない」

 花子はローの所有物ではない。好きな時に好きなことをするのが許されていて、そうしてほしいと思ってもいるのに。ローは花子と約束をしていたわけではない。責める謂れがないのはわかっている。
 彼は手に持った財布を背に隠した。子ども臭い駄々をこねて奴らに笑われるのは嫌だったし、花子にそんなところを見られたくはない。
 別にいい、と自分に言い聞かせる。明日だって、頑張れば、今日よりもっと早くノルマをこなせるかもしれない。誘えばきっと、花子が断らないと知っている。買い物だってカフェだって、逃げるわけではないのだ。

「あっ、そうだった。ごめんね、ベビーちゃん」

 背中にしがみつくベビー5に、花子は肩越しに振り返り、申し訳なさそうな顔をした。えっと目を丸くしたベビー5が顔をあげたのが、ローに見える。

「今日はローくんと本屋さんに行く約束をしてたの。昨日一冊読み終わったから、新しい本教えてほしいって頼んだんだ」
「そうなの?」

 ベビー5は人を疑うのが得意でないし、我が儘を言うことにも慣れていない。もはや我関せずとばかりに積んであった菓子箱を摘むバッファローと花子を交互に眺め、悲しそうに眉を下げる。

「ついていっちゃ駄目?」

 花子がローをちらりと見る。固い彼の表情を見て、彼女は俯く少女の柔らかな髪を撫でた。

「誘ってくれてありがとう。すごくうれしい。今度、女の子同士二人で行こうね」
「うん……」

 肩を落とすベビー5を、バッファローが気の毒そうに見やる。その二人に「冷凍庫に、新しいアイス入ってたよ」とこっそり教えてやった花子は、ローに向き直って微笑んだ。自分を見る穏やかな瞳をローは見つめ返す。

「花子……」
「支度するから、少しだけ時間くれる?」

 ローは頷いた。右手で左胸を掴むように抑える。
 願いが叶ったという喜びと、自分の我を通させた後ろめたさがあった。それでも、うれしいものはうれしい。だって、ローだって花子と出かけたかった。今日はそのために頑張った。
 花子の手を引いて、ローはダイニングを出る。恨めしげなベビー5の視線には、気付かないふりをした。



▲▽▲




「どうしてわかったんだ?」
「なにが?」

 カフェは、遅い昼食を取る客がまばらにいる程度だ。テラス席の端に座ったローは、正面に座る花子を眺める。ポットの紅茶をそれぞれ頼んだ。スパイスの香る異国の紅茶を飲む花子は、楽しそうに頬を緩ませている。

「おれが出かけたいって」
「だってローくん、お財布持ってたし、背中に隠しちゃったでしょ。誘いに来てくれたのかなって」

 合っていてよかったと、花子が笑った。「今日いいお天気だもんねえ。私もローくんとお茶したいなって思ってたから、うれしい」

「……よかったのか、あいつら」

 断らせたのは自分なのに、こんなことを訊くのも気が引けるけれど、もし花子に本当はあの二人と出かけたかったのだと言われたらとても悲しい。それでも訊いてしまうのは、そんなことないよ、と言ってほしいからだった。ローくんがいいなって思ってたよと言ってほしいから、こんな馬鹿な質問をしている。

 花子といると、たまにローは、自分がとても浅ましいような気がしてくる。花子に自分を見ていて欲しくて、ずっと手を握っていて欲しくて、そういった感情を持て余してしまうことさえあった。他のことなら自制が効くのだ。花子のことだけ我慢ができない。
 これは多分、あの日からだったとローは左手に目を落とした。中指に嵌った金色の指輪。花子がくれた約束は、ローの血肉に染み込んでいる。

 ローの選んだ生成色のワンピースを着た花子は、とても可愛いとローは思う。彼女がゆったりとした仕草でポットを傾け、「大丈夫だよ」と言ったので、「そっか」とローはうれしくなる。

「三人だけで出かけるの、ちょっとあれかなって思って、ジョーラかセニョールでも探しに行こうと思ってたの。ローくんとなら、二人で出掛けられちゃうのにね。変でしょ」
「変じゃねえよ」

 変どころか、素敵なことだ。
 子どもたち二人にもデリンジャーにも花子は穏やかに接するけれど、そこにある温度がローと彼らでは違うことを、彼らはみんな気付いている。それはローの優越感でもあった。幼くても海賊だという意識があるのだろう。花子が何の警戒も見せないのはローの前だけだ。
 やっぱり、花子の特別はローだけだ。

「こっちも食べろよ、おいしいぞ」

 切り分けたケーキを花子の皿に移す。さして甘いものが好きなわけでもないけれど、花子は甘いものが好きだから、ローはいつも一緒に食べる。

「わっ、ありがとう。私のもあげるね」
「いいよ、もう貰った」
「え?」

 首を傾げる花子にローは笑った。今日はもう、たくさんすてきなものを貰ったのに、花子はいつも気づかない。

 化粧品を買いたいと言ったローに花子は不思議そうな顔をしたが、それでもなにも言わず付き合ってやった。店に入ったローが、花子の部屋に置かれたものをすべて手に取るのを眺めていた彼女は、振り向いたローに「他に欲しいものは?」と尋ねられ、ようやっと目的を察する。

「えっ、いいよローくん、悪いよ」
「おれが買いたいんだって」

 おろおろとする花子を脇に財布を取り出すませた少年に、店員がその愛らしさに頬を緩めた。

「きみ、いい男だなあ」

 きれいなショッパーに品物をしまいながら、店員が花子に茶目っ気を含ませてウィンクをした。

「こんないい彼氏、なかなかいませんよ」
「本当に」

 眉を下げながらも微笑んだ花子が頷いて返す。「私にはもったいないくらいで、困っているんです」
 彼女らの会話がローはうれしくて、得意げにならないよう、気を付けなくてはならなかった。受け取ったショッパーも花子には渡さず、手を引いて歩く。男は女に荷物を持たせるもんじゃないと、セニョールに言われていた。

 本屋で互いに好きな本を物色し、これは花子が買ってくれた。花子が気づかないうちに支払いを済ませようと思っていたのに先を越され、ローが眉を寄せると花子が笑った。つんと、人差し指が彼の眉間をつつく。

「これは日頃のお礼」
「日頃のお礼?」
「そう」

 賑わう通りを手を繋いで歩く花子が朗らかに言う。

「ローくんいつもありがとうって、感謝の気持ちだから、受け取ってね」
「……そんなの、」

 おれの方が、ずっとずっとお礼を言わなくちゃいけないのに。

 近頃、体力が落ちた。白斑も、随分表在化してきたように見える。病は確実にローの身体を蝕んでいる。
 夜中、夢見が悪くて起きることがある。燃え盛る病院。父と母は病ではなく、人間に撃ち殺された。妹は業火に包まれて死んでいった。必ず救いの手は差し伸べられると言ったシスターは、救えるだけの子どもたちを集め、騙されて死んだ。
 もう何も信じていない。

「花子」

 ローにはわかる。同じ地獄を見た彼女もまた、もう何も信じられないのだと。
 花子にはローしかいない。ローには花子しかいない。

 見上げると、空がよく晴れているから眩しくて、花子の肌の白さに目が眩むようだった。「うん?」視線に気づいた彼女は、やさしくローを見下ろす。「どうかした?」「花子」繋いだ手は温かく、柔らかく、ローは大事に、大事に握り直した。

「おれのこと、好きか?」

 くすくすと降ってくる笑い声に、心臓を擽られるようなこそばゆさはあったけれど、ローは真剣だった。じいと花子を見つめれば、彼女は子どもの期待に応えるように、柔く頷く。蕩けるような笑みを浮かべて、花子が言う。

「世界で一番、愛してるよ」



























 そう言った花子がロシナンテの部屋から出て来るのを見た時、ローは怒りで頭が割れるかと思った。

 晴れた日だ。廊下を歩いていたローは、渋々ロシナンテの部屋に向かっていた。もちろん、ローが自らロシナンテに会いにいくなんてあり得ない。ドフラミンゴに言いつけられ、呼びに向かっただけだ。
 呼びに行っただけだとしてもどうせ殴られるのだから、誰か大人に行かせればいいのに。そう思いはしても逆らわなかったのは、ドフラミンゴがローに駄賃をくれたからだ。パトロンから渡されたという、北の海有数のパティスリーの菓子箱。かつてフレバンスがまだ平和だった頃、父が患者からもらってきたことがある。その時、花子がいたく感激したのをローは覚えていた。ローたちに遠慮をして彼女は全然手をつけなかったけれど、彼女がこの菓子をとても気に入っていたのは明らかだ。
 ローが行かないのならばバッファローにやるとドフラミンゴは笑い、ローは二つ返事で引き受けた。自分が食べたいわけではない。だが、花子に食べさせてあげたい。

 日に当たった絨毯は、ローの足音をすっかり飲み込んでしまう。音もなく廊下を歩き、曲がり角まで来たところで、ちょうどロシナンテの部屋が開いた。そこにいるのならば話は早い。蹴られた時に菓子箱が飛んでいかないよう腹に隠しながら、ロシナンテを呼び止めようとローは口を開く。
 その時だ。
 ちょうどローが大きな花瓶の影になって見えなかったのだろう。キョロキョロと不自然な動きで辺りを見回したロシナンテは、誰もいないことを確認すると下を向いた。その脇からするりと出てきたのが花子だった。
 ローは息を止める。
 ロシナンテの部屋から出てきた花子は、気怠げに髪を掻き上げた。花子はロシナンテを振り返り、口を開く。顔を引っ込ませたロシナンテの方は扉に隠れてしまって、ローからは見えない。
 不思議なことに、筆談をしているだろうロシナンテだけではなく、花子の声も聞こえなかった。けれど、何らかの会話をしているのはわかる。反射的に身を隠したローは、そのままそうっと顔を覗かせ、二人を伺った。こちらには気づいていない。

 一体なぜ、花子がロシナンテの部屋なんかにいたのだ。ローの知る限り、二人は上司と部下でさえあったものの、任務から帰ってきてからは特に言葉を交わす様子もなかったのに。仕事だろうか? いいや、だとしても、部屋に入る理由にはならない。

 ここのところ、以前に増してローはロシナンテが気に食わない。ロシナンテが花子を見ていることに、彼は気がついていた。ふとした瞬間だ。朝食の席や、たまたまアジト内で遭遇した時などに。あの目つきを何と言い表せばいいのか、ローは正確な言葉を持たなかった。ただ、以前と温度が違うことははっきりとわかる。
 実際、サムイス島の任務を経てからは彼らは廊下で会えば他愛のない話を二、三交わすようになっていたのだが、花子はそれがローの目には届かないよう気を配っていた。ロシナンテもまた、自分の感情を広く知られないよう注意していた。

 話はまだ終わらないのか、花子が立ち去る様子はない。ローは苛々と舌を打った。そもそも、どうして隠れなければならないのだろう。さっさと出て行って要件を伝え、花子を連れて行けばいいだけの話だ。
 ローが立ち上がりかけた瞬間、上体を屈めたロシナンテが頬を掻いたのが扉の向こう側に見えた。花子に向かって身を乗り出すように、彼はさらに大きな身体を屈める。

 そして彼は、花子にキスをした。キスをした。

 キスをしたのだ。ローの花子に。

 ローの花子に!!!



 それからどうやって自室まで戻ってきたのか、ローはよく覚えていない。気がついた時、彼は自分の部屋の中心に立っていた。息が切れていた。贈り物の菓子箱は足元に転がり、砕けた中身が溢れ出ている。

 ローは怒りに任せて机上を薙ぎ払った。積み上げられた医学書が、大口を開いて墜落する。ページの折れた本の群れを見ても、彼の感情はなお行き場を失う。心臓は喚き散らし、血液が轟々と耳の奥で鳴っていた。荒い呼吸を繰り返す。目の前がチカチカとして、足元ばおぼつかない。

 なぜ、どうして、コラソン。なぜ、あいつなのだ。あの男が、花子の何を知っている? 初めて会った時なんて、容赦なく蹴り飛ばしていた。任務から一緒に戻ってきた時だって、花子は死にかけていたではないか! あの二人が愛し合っているなんて、そんな馬鹿な話があるものか。

 かつて、自分で言った言葉だった。「他の男ともデートしろよ」そんなこと、いまは微塵も思っていない。どこかに行ってしまっては嫌だ。ロー以外の人間と、だなんて。だって、花子が世界で一番愛しているのはローなのに。彼女自身がそう言ったのだから、間違いようもない。ローだって花子を愛している。

 間違いなく、あれはコラソンが強要した関係なのだ。戦えない花子のことだ、きっと恐ろしくて逆らえないのだろう。そうに違いない。部屋の中で、どんなに恐ろしい目に合っただろう。辛くて苦しくて、何度もローを呼んだかもしれない。

「花子」

 ローは両手で顔を覆った。
 自分が花子を助けてやらなければならない。彼女もそれを望んでいると、ローは思った。ずっと二人で助け合ってきた。まさか、このまま彼女がローの手を離し、ローを置いて行ってしまうだなんて、そんなこと、あるはずがない。あるはずがない。
 ローにはもう、花子しかいないのだ。

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