Scene 19
 ロシナンテは、アジトの廊下を歩いていた。日の当たらない廊下は昼間でも薄暗い。けれど、彼がその顔に影を落としているのは、そのためばかりではなかった。どうしたもんか。手の中を見つめ、ロシナンテはもう何度も繰り返した台詞をまた繰り返す。肩を落とし、歩く彼の他に人気はない。
 彼の大きな手には、小さな箱が乗せられていた。ピンク色の立方体は、白いリボンでめかし込んでいる。どう贔屓目に観たところで、贈り物にしか見えない。ロシナンテはため息を吐いた。足音の反響に、湿っぽい音が混ざる。
 ロシナンテが花子と共にサムイスから帰還して、一ヶ月が経っていた。彼らはその計画通り、ドフラミンゴに金を渡し、カッツェが彼を裏切ったこと、機転を利かせたロシナンテが海軍を騙し、カッツェを討ったことを話した。金を得てきたことが功を奏したか、ロシナンテが無傷だったためか、ドフラミンゴがそれ以上サムイスに手出しをすることはなかった。失血死寸前の花子にローが業を煮やしてロシナンテを攻撃し、返り討ちにした以外平和なものだ。

 あれ以降、ロシナンテに対する花子の態度は、明らかに変わった。朝食の席で目が合えば僅かに唇を綻ばせ、目を伏せる。大っぴらに共にいることさえないものの、廊下で二人きりすれ違うと、彼女は必ず声をかけてくるようになった。他愛のない話を二、三交わし、誰に見咎められる前に離れていく。あの日のように微笑んでくれることさえないものの、纏う空気は以前の刺々しさとは比べ物にならない。
 信用を得られ始めているのではないかと、ロシナンテは考えた。それならば、素直に嬉しい。彼女が信用してくれるのであれば、ロシナンテはあの二人の力になってやれる。幼い子どもの手を握り、世界の全てを敵として生きる女の助けになれるのであれば、海兵になった甲斐もあるというものだ。

 しかし、それとこれとは別だろうと、ロシナンテにもわかっている。手の中の箱は、彼が花子のために用意した、正真正銘の贈り物だ。大したものではない。店先で見つけ、似合うのではないかとふと思った。気がついたら店員に微笑まれながらラッピングの色を選んでいた。どうしてこうなった。
 捨てるわけにもいかず持ち帰って来たものの、この箱の処遇について決めかねている。こんなもので釣ろうとしていると思われては堪らないし、何の下心もなくぽんと渡してしまうのも躊躇われる。なぜか。下心があるからだ。
 余計なことをした。ロシナンテは肩を落とす。せめて、食べ物か何かにしておけば、ローと分けろとでも言ってやれたのに。

 いつまでもぐじぐじと悩んでいたって仕方がない。とりあえず仕事だ。コートのポケットに箱を突っ込み、ロシナンテは踵を返してドフラミンゴの部屋に向かった。雑念を払うよう、大股で歩く。
 扉を叩く。返事はなく、首を傾げた。出掛けているはずはないのだが、たまたま席を外しているのか。ならばそう時間を開けずに戻ってくるだろうと、ロシナンテは身内ゆえの気安さでドアノブを捻った。中にはドフラミンゴも、花子もいない。ソファに座り、煙草に火をつける。至福の一服を楽しむ……つもりが、引火したコートの消火に慌てることになったけれど。
 ガタッ

「……?」

 ドタバタとロシナンテが騒ぐ音の他に、なにやら硬い物音がした。執務室ではなく、隣室のプライベトルームからだ。なんだ、いるのかと、焦げたコートを肩にかけ、彼は立ち上がった。執務室同様、純金のノブがついた扉を叩く。
 返事はなく、けれどもドフラミンゴの足音がする。
 考えればよかったと、ロシナンテはすぐに後悔することになった。なぜ執務室に花子がいないのか、ドフラミンゴがプライベートルームにいるのか、その理由を。

「どうした、ロシー」

 戸を開けたドフラミンゴは衣服を身につけておらず、肩にかけたタオルに、シャワーかと思う。と、その奥に見えたものに、ロシナンテが凍りつく。
 閉め切られた暗い室内。ドフラミンゴの巨体を補ってなおあまりある大きなベッド。それ・・はベッドの片隅で、シーツの海に溺れていた。死んだようなか細い肢体、散らばる黒い髪。うつ伏せになっているため、顔は見えない。
 目の前にあるものを、ロシナンテは認めたくなかった。この部屋で一体何が起こったか。たった今彼が扉を開けるまで、彼女が何をされていたか。
 メモを取り出そうとして、しかし指は動かない。身体が支配から逃げ出してしまったのか、ただぼんやりと、阿呆のように彼女を見つめる。息を吸う、ひゅっと掠れた音だけが、ひどく大きく聞こえる気がする。目の奥が熱い。足の裏が痺れ、いまここに立っているということさえも、遠い夢のように感じる。

「ん? ……ああ」

 ロシナンテの視線に気がついたドフラミンゴは、肩越しに振り返った。「おい」かけられた声に、投げ出された指先がぴくりと震える。けれども彼女は起き上がらない。

「ご苦労だったな。もう戻っていい」
「……はい、若君」

 掠れた声は羽音のようだ。ロシナンテの鼓動よりも小さいのではないかと思う。

「で、ロシー。用件はなんだ」

 振り返った兄を、ロシナンテは見なかった。弟に、ドフラミンゴはつまらなそうに鼻を鳴らす。「まあ、後でもいい」シャワールームに消えていく大きな背中。災厄が去っていく。ぱたんと軽い音とともに残されたのは、たった二人きり。
 花子!!!
 叫ぶ、済んでのところで彼は己に“凪”をかける。雪が溶けるように強張りが消え、気づいた時にはもう駆けていた。抱き起こした彼女はぐったりと力なく、気怠げにロシナンテを見上げる。

「……デリカシーのない人」
「黙ってろ」

 ロシナンテの声は音にはならない。小さな身体をシーツで包む。部屋の暗さと篭った空気が、じっとりとまとわりついているようだった。逃げるように部屋を出る。





 能力者であることを知られていないロシナンテの部屋には、大きな浴槽がついている。風呂の準備をしてやろうとしたロシナンテは危うく溺れかけ、なんとか自力で風呂場を出ると、彼は花子を風呂場に放り込んだ。腕一つ上げるのも辛いのか、温かなお湯に浸かった彼女は目を閉じたまま、じっと動かない。離れるのも心配で、その背を支えたままじっと覗き込む。

「……死にはしません」

 目を閉じたまま、僅かに唇だけを動かし、花子が言った。浴槽にはやっと臍に被るくらいの湯しか入っていない。それでも、意識を失えば溺れてしまう量であるし、ロシナンテでは助けられない。

「だけどよ、」

 手を離すことを渋るロシナンテに、花子がやはり、唇だけを動かす。

「能力者でしょうあなたは……。溜まった水のそばにいるのは危険では」
「んなこと言ったって、いまのおまえだって溺れちまうだろ」
「ええ……ふふっ、溺死とは予想外ですね」
「笑い事じゃねえ」

 動けぬ花子に観念したロシナンテは、服を着たまま浴槽に入った。途端、気怠さが彼を襲うが、底に腰を下ろし、背を側面につけることでどうにか耐える。ロシナンテは花子の身体を引き寄せた。自分に寄りかからせて支え、ソープのボトルに手を伸ばす。

「……堪忍しろよ」

 思い切り泡を立て、なるたけ触らぬようにしながら小さな身体を洗っていく。花子はされるがままぐったりとロシナンテにもたれかかり、もう僅かな声さえ出さなかった。濡れたシャツは身体に張り付き、合わせられた肌の柔い熱を感じる。浅く眠っているのか、目を瞑る彼女の小さな鼓動に合わせ、胸は上下していた。泡の奥に感じる肉の感触に歯を食いしばりながら、ロシナンテは丹念に汚れを落としてやる。途中、嘲笑うかのようについた赤い痕に、怒りで可笑しくなりそうだーー通常の情事ではつきそうにない、食い破られたような痕。犬歯が刺さったか、皮膚が破れて流血している箇所さえある。

 泡を流したロシナンテは、どうにかいつものドジで取り落とさないよう、注意深く花子を浴槽から出した。自分が出ようとしたところで滑って顔面から着地をしたが、彼女の上に倒れなかったのは僥倖だった。濡れた花子をタオルに包み、ベッドに横たえてやる。彼女とともに持ってきたシーツは、燃やして捨てた。

「おい服……これしかねえが」

 女物なんて用意しているわけもなく、彼はクローゼットからシャツを引っ張り出す。緩慢に頭を持ち上げた花子は大きなシャツに目をやり、頷いた。

「少し寒いので……着れるだけありがたいです」
「わかった」

 抱き上げて着せてやる。ロシナンテのシャツに、花子は埋もれるようでもある。不格好なそれに本人は満足したのか、ゆるゆると目を閉じ、ロシナンテは彼女を抱き上げたまま水を飲ませてやった。また寝かせる。

 胸の奥が焼けつくように痛かった。怒っている。

 傍の椅子に腰を下ろす。横になって身体を丸める彼女は、子どものように見えた花子が目を開け、ロシナンテを見る。布に埋もれたままの手が髪を掻き上げた。ほんのりと茶色を混ぜた夜色の瞳。いつものように凪いだ表情が気に食わない。

「……鼻血出てますよ」
「どうでもいい」

 言われてみれば、とろりとした感覚がある。乱暴に腕で顔を拭い、ロシナンテは花子を睨め付けた。

「いつからだ」
「なにが」
「ふざけてんなら、足を折る」
「……そう長い期間でもありません」

 花子が答えた。ロシナンテは舌を打つ。
 少なくとも、二ヶ月前はこんなことはなかったはずだ。恐らく一ヶ月ほど前、二人がサムイスから帰ってきた辺りだろう。

「なぜ言わなかった」
「気を遣わせると思ったので」
「正気か?」
「兄弟のセックスの話って、気まずくありません?」
「ふざけるなって言ってんだ!」

 怒声。能力のおかげで部屋の外に漏れ出ることのない音は、びりびりと、窓ガラスを震わせた。脳が沸騰するような感覚に任せ、ロシナンテは怒鳴る。怒鳴りながら、こんなに怒ったことは久しぶりだと、どこか冷静な頭の片隅で考えた。その冷静さは、花子を正しく見下ろしている。シャツに包まれたか細い肢体。彼は目を逸らした。

「何をされているか、分からねえようなガキじゃねえだろう!」

 花子の目は、暗いガラス玉のようだった。「仕方ないでしょう」面倒臭がっていることを隠そうともせず、花子は寝返りを打ち、ロシナンテに背を向けた。

「逃げるのに必要な情報でも入れば御の字。そうでなくとも、彼の機嫌を損ねるわけにはいきません。殺されたくはない。いまここで死ぬのはあの子に対する裏切りです」
「それを本気で言っているなら、おれはおまえを馬鹿だと思わなきゃならなくなる」

 最悪だ、と思った。こういったことを、他者の尊厳を踏み躙るために使ったドフラミンゴも、それを受け入れた花子も。どちらも嫌な人間だと。熱く、込み上げてくるものを押し留めるように、ロシナンテは息を吐く。吸って、吐く。知らぬうちに握られた拳は、力み過ぎて震えている。

 何に対する怒りなのか。彼女を蹂躙したドフラミンゴか? いいや、自分は彼女に怒っているのだと、ロシナンテは認めないわけにいかなかった。感情は、粘度のある液体に似ている。沸き上がるそのすべてが、身の内で吠え猛るようだ。なぜ、こんなことを許したのだろう。許さなければならなかったのだろう。腹立たしくて、とても悲しい。

「おまえがこんな目にあってると知って、ローが喜ぶわけねえ……!」
「なら、他にどうしろと?」

 ベッドに横たわったまま、花子は首だけでロシナンテを振り返った。濡れた黒髪がシーツに散らばっている。相も変わらず、目も、声も凪いでいるのに、そこに横たわっているのは、ロシナンテには諦念に思えた。

「身体なんて安い対価だ。あの男相手に命乞いができるものを私は他に持っていないのだから。今更何を犠牲にしたって構わない。生きれば勝ちだ、私たちの。どんなに惨めで情けなくても、もう私、それだけでいい。あの子が生きるための助けになるなら、裸で犬の真似をしたって構わない」

 そして花子は、突き放すように言う。

「……あなたには分からないでしょう」

 生きる力がないということ。この世界では、力の差が残酷なまでに現れる。

 尊厳は過ぎる贅沢品だと、花子はそれを諦めた。倫理も価値観もとうに捨てた彼女が次に差し出せるものは、あまり多くなかった。
 暗い目を見てロシナンテが感じたのは憐憫だった。それと同時に、眩暈のような懐古に彼は刹那瞬きをする。サムイス島の夜、花子を待っていた彼は破れた屋根から星空を覗いた夜のことを思い出していた。郷愁というには苦い愛しさが、ぐっと喉元を締め付ける。

「分かるよ」

 それを言うのがやっとだった。
 花子は振り向かせた首を戻し、何も言わない。シャツに包まれたなだらかな曲線を視界から外し、ロシナンテは彼女に背を向ける。扉を開けた。廊下は暗い。





▲▽▲






「なんだ、どうかしたか、ロシー」

 ノックもなしに入ってきた弟に、ドフラミンゴは機嫌よく笑いかけた。執務机に反り返って座る巨体を見下ろし、ロシナンテはポケットからメモを取り出す。

《あれに手を出すの やめろ》
「ほお」

 揶揄うように眉を上げるドフラミンゴ。よもや、弟の不機嫌に気がついていないわけでもあるまいに。人を食ったような態度にロシナンテは咥えた煙草を噛み潰した。感情を露わにすればそれだけ不利になると、頭ではわかっている。それでもロシナンテは、ドフラミンゴのように器用にはなれない。

「フッフッフ、随分気に入ってるみたいじゃねえか。あんなぼろ雑巾みたいになっても連れて帰ってきてやったくらいだもんなあ」

 実際、それはドフラミンゴを驚かせた。死んだような女をロシナンテが抱えていたとき。殴らなくなったことといい、部下として連れて行くと言い出したことといい……まさかとは思っていたが、あの女はいつの間にか、ロシナンテに取り入っていたらしい。一体どんな手を使ったのやら。

 ドフラミンゴはいずれ花子を殺そうと思っている。ローの病気を治すためにオペオペの実を手に入れてやると言ったのは、全くの嘘というわけではないのだ。手に入れる算段はある程度ついていた。あとは運次第と言ったところか。病気を治してやったとなれば、いよいよあの女は用済みになる。今のローは花子をよすがとして生きているようなところもあるが、病気が治った頃に殺し、ローを裏切ったのだと嘯いてやればいい。あの子どもは一層世界を恨み、ドフラミンゴの忠実な右腕になるだろう。
 そのとき、万が一にでもロシナンテが花子を殺したくないなどと言うことがあれば……。そこまで考え、ドフラミンゴは己の思考に首を振った。まさか、コラソンがドフラミンゴの決定を無視してまであんな女に執着すると言うこともないだろう。自分たちはたった二人の、血を分けて兄弟なのだ。ドフラミンゴはロシナンテを信じている。
 まあ、その時までのお遊びになら、貸し出してやっても不都合はない。悠然と腰掛けたままドフラミンゴは笑う。

「それなりに具合の良いおもちゃだったが、可愛い弟に譲ってやろう」

 下衆め。
 弟の音のない罵倒に気が付いたかは定かではない。フッと、ランプを消すようにドフラミンゴから笑みが消える。じっとサングラスの奥から見つめる瞳がどんな色形をしているのか、知っているのは僅かな人間だけである。

「……あれを見ていて、おまえは腹が立たねえか?」

 眉を顰めた弟を見て、やはり、と兄は思った。ロシナンテにはわからないのだ。あの時、吊るされた父と弟は痛みと恐怖に泣き叫ぶだけだった。彼のように、怒りはしなかったのだ。身の内の全てを焼き尽くすような炎を、持たなかったのだ。

 花子を見ているとドフラミンゴは苛立った。何の力も持っていない、生きるのに不足した女を彼は嫌っている。かつての彼のように奪われ、追い詰められ、それなのにどうして。どうしてあんな風に、愛した者とまだ生きることを許されている? ドフラミンゴは許されなかったのに。母は死に、父親は殺した。殺さなければ、今頃あの無能のために彼と弟は命を落としていただろう。
 あの日、父親に銃を突きつけた子どもに、弟を生かしたいという思いがなかったと、誰が言えるだろう。
 あの子どものために、どんなことでもしてみせると言う彼女と一体何が違うだろう。

 花子は彼らの過去を持っている。非力で、身を守る術さえ持たず、吹けば変わるような他人の気紛れ一つで命を奪われかねない日々。
 イカれた女だと思う。圧倒的な弱者のくせに、涙ひとつ見せやしない。感情さえも死んだかと思ってみれば、ローに対してはどうだ、あの甘さは。あの女。あいつはまだ抗っているのだ。ただ生きていくことさえままならないくせに、この世界に膝を折っていない。

 あの凪いだ表情はドフラミンゴが手酷く抱いても変わらなかった。どんなに酷くしたって、逆に甘やかしてみたところで、花子は嬌声一つ上げなかった。死んだ肉のようになされるがまま、目を閉じていただけだ。嵐が過ぎるのを待つ草花にも似ていた。
 ドフラミンゴは花子を屈服させたい。蹂躙し、痛めつけてやりたかった。あの日の自身と同じように。

 ロシナンテは兄を見る。暴君に対し、彼は理性的だった。その思想を一生涯かけても理解してやれないことを知っている。道はもう遠い昔に分かたれたのだと知っているのは弟だけだ。
 ただ。長い脚を組んで優雅に座る兄を、彼は哀れに思った。自分が傷ついたのと同じだけ他者に傷つき、諦めて欲しいと望むドフラミンゴが弟を守るために沢山のことをしてくれたと、ロシナンテはとてもよく知っているから。





▲▽▲






 部屋に帰ると、花子はまだベッドに横になっていた。いてくれてよかったと思う反面、どれだけひどいことをされたのかと想像だけで苦しくなる。小柄な彼女がドフラミンゴの相手をするなんて、さぞかししんどかっただろう。

「大丈夫か?」

 声をかけられ、花子が身じろぎをする。うつ伏せになったまま首だけを僅かに動かしロシナンテを認めた彼女は、細い声で「どちらに?」と問いかけた。ベッドの傍に跪き、ロシナンテは横になった花子と目を合わせる。シーツに散らばった黒い髪はまだ濡れていた。

「もうドフィの相手はしなくていい」
「……」
「心配するな。話をしてきただけだから」

 無論、それは花子が望むことだった。ロシナンテが自身を抱えて部屋を出た時、こう言った顛末になることを期待する下心がなかったとは言えない。

「……あなたにメリットがない」
「いいんだ」

 ロシナンテは花子に触れないまま、やさしく言う。

「おれはおまえに傷ついてほしくないんだよ」
「私ばかりが守られている……これでは、対等な協力関係と言えませんね」
「そんなことは気にするな。おれはこれでいい」
「では、あなたが望むことで、私に何かできることはありますか?」

 ゆっくりと身体を起こした花子は、真正面からじいとロシナンテを見つめた。
 もはや隠し通すことなどできない。ロシナンテは花子に惹かれていたし、それを彼女が知っているとわかっていた。目が合い、簡単な言葉を交わすだけで、まるで思春期の少年のように胸躍ってしまうのだ。
 花子はロシナンテをじっと見つめる。いつも凪いでいる瞳が潤んで揺れているように見えるのは、ロシナンテの気のせいだろうか? 自然、湧いた唾を飲み込み、ロシナンテは目を逸らした。

「なら、……ロシーと呼んでくれ」

 家族だけが呼ぶ愛称だった。幼い日、母に名前を呼ばれ、胸に飛び込んだことを覚えている。幸せだった。あの時の甘さを、自分は花子に求めているのだろうか? 馬鹿な話だ。だが、花子がローを見つめる瞳も、呼ぶ声もまるで……。

「ロシー」

 そっと目を戻す。彼女はまだ、ロシナンテを見ている。不思議な色をした瞳の中に映る己は、どうしようもなく浅ましい顔をしているように見える。喉が鳴った。ふと、花子の唇が、花弁が解れ落ちるように和らぐ。

「ロシー、お願いが」
「なんだ」

 自分で呼べと言っておいて、これはよくなかった。彼女の声が、身体の内に木霊するようだ。まるでローを呼ぶときのように、彼女は呼んだ。それは甘過ぎて、痛みすらある。
 子どものような女なのに、けれどもたしかに彼らは男と女だった。締め切った部屋に、互いの欲が水を注ぐように満ちていく。噎せ返るような性の匂い。何を望んでいるか、望まれているか、目を逸らすことができない。

 花子が目を伏せた。細い両の指先が、そっとロシナンテの頬に触れる。指先は冷たい。綻んだ唇から漏れた息は震えていた。緩慢に、花子が目を上げる。視線が絡む。それ以上、何も必要がない。
 座る彼女の足を持ち上げ、ロシナンテはその付け根に歯を立てた。抱き抱え、ベッドの中央に移動する。象牙色の肌にロシナンテの歯形がつく。
 花子は拒絶をしなかった。ロシナンテに好きにさせ、時折感じ入ったように呼吸を深くする。声ひとつ出さない女がその睫毛を震わせるだけで、どうしようもなく昂った。ロシナンテに比べ、花子はとても小さい。丁寧にと思う反面、ドフラミンゴが付けた痕を見つけては、食らい付くように上書きしていく。
 顔を上げると、潤んだ瞳と目が合った。何も言えない彼に、彼女は微笑む。
 着せたばかりのシャツを脱がせる傍ら、これではあの悪辣な兄と一体何が違うのだと、冷静な精神が嘲笑う。いますぐ手を離し、ドフラミンゴもロシナンテもいない、安全な場所へ逃がしてやるべきだ。わかっている。けれど、どうして止まれるだろう。触れ合ったところからとろけそうなくらい気持ちがいいのに。どうしようもなく幸せなのに。

 こんなことをしたいのではなかった。ただ笑ってくれさえすれば。あの笑顔を見せてくれれば、それだけでよかったはずだった。
 己の行動に裏切られ、いっそのこと泣いてしまいたかった。白い子どもが頭をよぎる。彼は暗い目で、ロシナンテを睨んでいる。ロシナンテは笑った。結局のところ、彼女を擦り減らす下衆の一匹にしかなれなかった。
 喜んでほしいと、そう願って買った小箱は、脱ぎ捨てたシャツのポケットに埋もれたままだ。もう二度と渡すことなんてできそうにない。
 腐っていく。


<< >>


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -