Scene 18
 見つけた。ロシナンテは慌てて時計を見た。顔を顰める。思ったよりも、時間を食った。
 彼が手にしたのは、アタッシュケースだ。中には先日、受け取るはずだった金が詰められている。これを持ち帰ることが、彼の目的だった。
 急いで行かなければならない。花子はもう、船を盗んだ頃だろうか。問題が生じれば港に迎えに行くつもりだったが、今のところ、計画に支障はない。上手くいっていれば、向こうだって船を盗むには十分の時間があったはずだ。このまま西の海岸に向かっていいだろうか。
 突如、外がカッと明るく光った。真昼間であるのに、目を刺すような光が、窓を通してロシナンテの下にまで届く。閃光弾。ニーヴァの合図だ。ハングスがこちらに来ている。
 ロシナンテは、アタッシュケースを引っ掴んだ。壊した鍵を無理やりに閉め、小脇に抱える。彼はそのまま窓から飛び降りた。危なげなく着地を決め、屋敷の裏から走り去る。
 ハングスがこちらに来たということは、計画通り、花子は無事だろう。
 ならばこのまま、西の海岸に向かおう。





▲▽▲






「運ってのは、生きる上で、大切なんだ。なあ、そうだろぉ?」

 下衆め。けれども花子の口から罵倒が吐かれることはなかった。食いしばった歯の隙間から、呻き声が漏れる。石畳に立てた爪は、力が入りすぎたために、砂に塗れ、破れ、割れた。けれども爪先は痛まなかった。その程度の痛みでは、押し殺すことのできない傷があった。
 足を、撃たれた。後ろから。帰還できる安堵に目を曇らせ、船目指して一直線に駆ける花子は、己の過ちに気がつかなかった。人が、いなさ過ぎた。いくら海賊が島にいるから、と島民に呼びかけたところで、港に人がいないなど、そんなことが、ありえるだろうか? 島民が姿を隠しているのには、他に理由があったのだ。
 カッツェのことは、この島に住む人間なら、誰だって知っている。裏の人間たちを束ねる支配者。偉大なる少佐がいまだ放逐できない悪党。異常者。連続暴行事件の黒幕が彼であろうことは、誰もが考えていることだった。ハングス少佐が赴任してからだいぶんましになったと言え、彼が残したおぞましい”武勇伝”を忘れるには、島の傷は浅くない。
 港には、彼がいた。

 カッツェは港に駆けてくる花子を見つけ、非常にうれしかった。取り逃がした獲物が、この手の中に。
 駆ける花子の足に狙いを定め、彼は三回引き金を引いた。そのうちの二つが彼女の足に当たる。兎を仕留めたような感覚。なぜか兵服を着た、あの小癪な女が無様に崩れ落ちるのを見て、カッツェは歓声を上げた。
 地面に転がった女は、生意気にも、自分を睨み上げている。肉も力もない白い足から、赤い血が止めどなく溢れているのが扇情的だ。ああ、いいなあ。カッツェは歓びが身体を巡るのを感じた。自分よりも小さく、弱いものを痛めつけるのは、この世のどんな愉悦にも勝る。

「……噂通り、イカれた男ですね」

 花子は、わざとらしくカッツェの下半身に目をやり、鼻で笑った。「狂ってる」虚勢を張ることしか、今の彼女にできることはない。這いつくばったまま、何とか前に進もうと腕で上体を持ち上げるも、砂が肌を引っ掻くばかりで微塵も進めない。痛みは燃えるようであるのに、反対に身体はどんどん冷えていくようだった。揺れる頭で、動かない足を振り返る。血は鮮やかな赤色をしている。太い動脈をやられたか。……これでは、もう。
 霞んだ目で、腕に巻いた時計を見る。待ち合わせの時間を過ぎていた。
 ロシナンテは西の海岸に向かっただろう。彼は来ない。助けはない。
 ならばここで、死ぬしかない。

「私を殺せば、コラソンが怒ります。ドンキホーテ・ファミリーとの戦争は避けられませんよ」

 口をついた出鱈目が無駄であることを花子は知っている。それでもいま、彼女が他にできることがないのなら、無駄と分かっていても出まかせを並べるしか道はない。このイカれた男は、端からドフラミンゴに喧嘩をふっかけるつもりだったのだ。そもそも、彼女を殺してもコラソンは怒らず、ドフラミンゴが動くこともない。ただ、あの白い子どもが。あの子だけが、置いてかれてしまう。家族も、故郷も、夢も、未来も、すべて奪われ、私がまた置いていくのか。そんな。それだけは。泣いてしまう、あの子が。どんなに寂しいだろう、泣かないで。守るのだ、そのためにどれだけ捨てたことか。持っている倫理をたくさん曲げて、やっとここまで、ローくん。
 帰りたい。

「そりゃあ好都合だなあ」

 痛みに意識さえ揺らいできた。必死に歯を食いしばり耐える花子を、カッツェは愉しそうに見下ろしている。彼は花子に歩み寄り、砂利に塗れた薄い手を踏みつけた。踵で、力を入れて踏みにじる。彼女は呻き声さえ上げない。そんな力もないのか。そう思うと、このまま服を剥ぎ取り、内臓を破くようなセックスをしても、いいかなあ、という気になる。

「あの弟君が怒って、俺を殺しに来るんだろ? それで、俺があいつを殺せば、ドフラミンゴが来るんだろ? 楽しみじゃねえか、それは」
「……、」
「うん?」

 カッツェは花子の胸倉に手をかけ、持ち上げた。なす術もなく、比べてしまえばあまりに小さい身体が持ち上がる。だらりと弛緩した四肢は、持ち主の無力さを表しているかのようだ。色を失った唇が僅かに動く。掠れた声を聞こうと、カッツェは顔を近づけた。

「……ろ。コラ、ソン。……コラソン様、……後ろに、」

 愉快な命乞いかと思えば、聞くだけ無駄だったようだ。この戯言には、いささかカッツェも閉口した。まさか、あの時部屋にドフラミンゴがいると錯覚させたように、この場にコラソンが現れたとでも言うつもりか。くだらない。

「あのなあ、嬢ちゃん。同じ手を二度使うのはy」

 パンッ
 乾いた音。身体が二つ、崩れ落ちる。



「花子ッ!」

 駆けだしたロシナンテは、カッツェの遺体には目もくれず、すぐさま花子を抱き起した。血の気を失った肌と、いまだ流れ続ける命の源。激しいコントラストに、ロシナンテはぞっと、目眩がする。

「もう大丈夫だ」

 声をかけるも、彼女は反応を返さない。我に返ったロシナンテは、慌てて自身にかけた”凪”を解いた。花子を抱いたまま、半分千切るようにシャツを脱ぐ。細く裂いた布地を足の付け根にきつく巻くと、止めどなく流れていた血液がようやっと勢いを弱めた。

「……テ、どし、て」
「喋らなくていい」

 ロシナンテは、シャツで花子を包むと立ち上がった。大柄な彼のシャツは、花子をすっぽりと覆い隠す。弱々しい声を聞くだけで、ぐっと胸が詰まる。
 間に合ってよかった。本当に、よかった。

「帰るぞ、花子」

 胸に抱く花子はぐったりと柔らかく、心細くなるほど頼りない。
 取り乱しそうになる己を必死に奮い立たせ、ロシナンテは手近な小舟に飛び乗った。アタッシュケースを放り投げ、積荷を足蹴にし、花子を寝かせる。彼女は目さえ開かない。

「帰るからな、花子。ローが待ってる。踏ん張れ、死ぬんじゃねえぞ!」

 港につなぎ止められた綱を撃ち抜くと、小舟はふらりと波に乗り、ゆっくりと動き出した。帆を操り、風を拾う。
 よく晴れた美しい空の下、揺れる小さな小舟は男の死体を一つ置き去りに、海賊たちを運んで行く。





▲▽▲






「……これは一体」

 ハングスがマフィアの邸宅にたどり着いた時、すべてはもう、終わっていた。少佐は素早く辺りに目を走らせる。
 荒れ果てた邸宅には、足の踏み場もないほどに人間が倒れている。……その殆どが、マフィアたちのようだった。夥しい量の血。海兵たちも、深傷を負っている者が多い。

「軍曹、何があったか説明してもらおう。私の指示は島に潜り込んだ賊の捕縛だ。それが何故マフィアへの討ち入りになるのか」

 嵌められたのだ、あの忌々しい二人組に……考えてみれば唐突に本部から視察が入るなんて、あまりにタイミングが良すぎる。どれだけ聞き込みをしても、島の住民は見慣れぬ人影など影さえ見ていないと言う。すべて罠だった。海賊は奴らだ。奴らもまた、カッツェと取引をしている身。こちらの繋がりに気づいていても不思議はなく、それを使って軍曹たちを言い包め、騒動の隙を突いて逃げ出す算段だったのだろう。

「また、花子曹長の行方がわからなくなっている。……見たところ、ロシナンテ中佐もいないようだ。先ほど本部に確認を取ったのだが、サムイスに視察など送っていないそうだ。彼らの行方に心当たりは」
「少佐」

 ハングスにはまだ余裕があった。奴らが何を言って彼らを誑かしたのかは想像がつく。しかし証拠さえなければいい。海賊たちの陰謀だったのだと言って仕舞えば済む話。
 床に倒れている者たちの中に、カッツェの姿はなかった。奴が死んでいれば、より簡単に事は運ぶのだが、奴め、一体どこに。
 ハングスに、軍曹は穏やかな声をかけた。彼の後ろには、部下たちが真摯な顔つきをして並んでいる。彼が鍛え上げた自慢の部下たちに欠けはなく、それが軍曹を殊更勇気づけた。胸を張り、息を吸う。

「あなたを共謀罪、収賄罪、および海軍則違反により拘束します。あなたに拒否権はありません。身柄は拘束後本部に引き渡され、処分は本部により後日正式に下されます」
「……なに?」

 どういうことだ、何を言っている。
 眉を顰めるハングスの後ろ、彼についてきた海兵も同様、当惑した顔をする。軍曹は懐から一枚、紙を取り出した。よく見えるよう、眼前に掲げる。

「マフィアの邸宅から一枚の契約書が出てきました。署名は確かに、このマフィアの頭のものです。この島における暴行事件に目を瞑り、時に婦女を献体する代わりに犯罪者の首と金を流せとは、一体どういうことですか?」
「は?」



 書類はロシナンテから渡されたものだ。ハングスに心当たりがないのは当たり前。

「騙せということですか?」
「証拠と逮捕の順番を変えるだけだ」

 被害者がみんな海軍を信用できないと示したらしい。と言うことは、彼女たちは海軍の関与を知っていたことになる。

「直接その場に居合わせるような真似はしていないだろう。だが、全員が海軍の関与に気がついているのなら、形には残らずとも事件と少佐には何らかの繋がりが、そうとわかる形であったと考えられる。となれば、こういうものが出てきたところで、状況的にはおかしくねえ。第三者を納得させるには十分すぎるくらいだ」

 紙面には、マフィアが捉えた賞金首をすべてハングス照査に献上すること、その対価として武器の密輸や、彼らが起こす事件を黙認することが明確に記されている。下に書かれたのはカッツェのサインだ。本物とまるで同じように綴られている。
 あばら屋の中で、花子は持ってきたガラス板とロシナンテの腕を机がわりに、本物のサインをそっくりそのまま写しとった。転写にしては見事な出来で、写しとったサインには不自然なインク溜まりなど一つもない。彼女曰く、日頃からサインのコピーは練習しているらしい。ドフラミンゴのサインであれば、もう写し取らずとも本物と見分けがつかないように書けるのだと言う。
 ハングスが言い逃れできない状況を作る。偽りの契約書を、奴はもちろん否定するだろう。けれども奴と組んでいたのは十九の時分に自分が与する組織の頭を殺して椅子を奪い取ったような男だ。万が一があったときのために、裏切りなどできないよう、こういったものを用意している可能性をハングスだって否定できないだろう。

「でも、それじゃあもしも少佐がまったくの無罪だったら……」
「その可能性はまずないから無視していい。そもそも、そんな不確かな話じゃあおれたちが本部から来るわけがねえだろ」
「確かに」

 軍曹は黙ったまま、偽の契約書を見つめている。
 この方法は、海兵がとるべき策ではないとロシナンテだって理解していた。しかし他に手がないのもまた事実。軍曹が受け入れなかった場合、他の方法を提示したいが、何分時間がないのだ。ロシナンテは花子がハングスに疑われる前に、マフィアの邸宅に行かなければならない。

「あんたがこれを受け入れ難いってのもわかるが……」
「いえ、やりましょう」

 部下が見守る中、軍曹はロシナンテから偽の契約書を受け取った。戦闘中、傷つくことがないように、しっかりとしまい込む。

「いいのか?」
「こんな手を使わなければ悪を打てないのは、すべて私の力不足。何か一つでも失敗すれば、私が軍から退きましょう」
「軍曹」
「これがあれば、少佐を信じる他の隊の者にも説明をしやすい。すべて片付くのが早ければ早いだけ、早く被害者に平穏を返せるのだ。そう思えばこれしきの泥を被るのを厭う気はない」




「こんなもの、私は知らない!」

 叫ぶハングスに、軍曹は冷静に返す。

「私が知っているあなたなら、自ら書類を用意するなんて間抜けなことはしません。だが、この書類には確かにあなたのサインがある。これで言い逃れは通用しません」
「出鱈目だ、貴様、よくも」
「これが全くの偽りでしたら、あなたの代わりに私が軍から姿を消します」

 ジェフィスがハングスの後ろに回り、その腕を捻り上げる。軍曹の隊を筆頭に、マフィアと対峙していた兵は皆、ハングスを取り囲んだ。残りの者は唐突な状況についていけず、困惑してまごついている。

「生け捕りにしたマフィアたちに聞けば、すべてわかること……」

 本当の作戦を知らない部下達の説得にも、契約書はかなりの威力を発揮した。加えて、最初の被害者を家に送り届けたのが少佐だったこと、被害者達が皆一様に海軍を信用できないと示したこと、これまで少佐が首を上げていたならず者とカッツェの繋がり。これらを聞いてなお、ハングスを疑わない者はいなかった。ハングスと共に遅れてやってきた者達さえも、場の雰囲気に呑まれたか、誰も尊敬すべき男を救おうとはしない。
 拘束されたハングスは、燃え盛るような目で軍曹を睨み上げた。彼はそれを、涼しささえ感じられる、穏やかな面持ちで見つめ返す。

「この島に生きる者は誰一人としてあなたのための踏み台でないと、ようやく証明できる」





▲▽▲






「……ロシナンテさん」
「気がついたか」

 か細い呼び声に、ロシナンテが振り返る。身体を起こそうとした花子を、彼は操っていた帆を手放し、船底に押し留めた。船の揺れで崩れた積荷を積み直し、その上に彼女の足を乗せる。

「無理に起こすんじゃねえよ。ああ、でも少し顔色はマシになったか? とはいえ流れた血が戻ったわけでもねえし治療もしてない。じっとしてろ。死ぬぞ」
「一体何が、」
「港であの下衆野郎に撃たれたことは覚えてるか?」

 花子が頷く。あの時、もう死んでしまうだろうと思っていた。自分を知る者もいない異邦で、誰に知られることなく、あの子の元に帰ることもできず、惨めに死んでしまうのだろうと。

「あの時……あなたが。夢かと」

 本当に驚いたのだ。ロシナンテとは西の海岸で落ち合う約束だった。助けに来るならば彼しかいなかっただろうが、彼が来る可能性なんてまるでないと思っていたのに。

「……屋敷には、あの男の姿がなかった」

 窓から飛び降り、駆け出したところで、ふと疑問に思ったのだ。奴がいないのは僥倖だった。だが、それなら奴は一体どこに?
 まさかそんなことはないだろうと思ったが、奴らが船を壊したのなら、こちらの逃亡手段は港から船を盗む一手しかない。待ち伏せでもされていた場合、花子一人ではどうにもできないだろう。
 首尾よく船を盗んでいるなら、すれ違いになり、西の海岸で花子は待ちぼうけを喰らうだろう。しかし、花子一人では満足な航海術もなく、スパイダーマイルズまでは帰れまい。何より、ロシナンテを置いていけば彼女はドフラミンゴに殺されるのだから、そんな選択をするはずがないのだ。だからロシナンテは、より確実な道を取った。より確実に、二人で帰れる道を。

「正直、おまえが奴に胸倉掴まれてたときには、もう駄目かと」

 あの時の心臓を、ロシナンテは覚えている。とても怖かった。小さな身体を抱き抱えたとき、その軽さがどれほど心細かったことか。閉じた目が、二度と開かなくなってしまうかと思った。もう二度と、笑ってくれないかと。

「……なぜ、私、だって、」

 言葉は途切れ途切れな上に掠れている。少しだけ花子の上体を抱き起こし、水を飲ませると、彼は船底を整えてやった。ボロ布や千切ったシャツの上に、やさしく寝かせてやる。その間ロシナンテは、花子の顔を見なかった。放り出した帆に向き直る。

「長話は障る。寝てろ」

 なぜ、と訊かれるのはわかっていた。そしてその答えは、ロシナンテも持っていない。
 花子には知らせていないが、ロシナンテは常に連絡用の電伝虫を携帯している。彼がその気になれば島から脱出せずともドフラミンゴに状況を伝えることは可能だった。そうすればこんな回りくどいことをしなくともすぐさま援軍が来ただろうし、目的は果たされたはずだ。作戦の最中、海軍証だって取り返した。花子が握るロシナンテの弱みはなく、彼はいつだって、花子のことを切り捨てられる。任務を優先するのなら、彼は彼女を見殺しにするべきだった。秘密を知る者がいないほうが、兄を止める上ではずっとやりやすいのだから。
 それをしなかったのは、ロシナンテが自分の目的よりも花子の命を優先したからだ。任務が失敗すれば、ドフラミンゴは何の躊躇もなく花子を殺すだろう。 それが許せなかった。兄にこれ以上殺しをさせたくないのだと彼は時分に言い聞かせたが、それが理由ではないのだと、本当のところ気づいている。

 兄のためでも、ローのためでも、ましてや花子のためでもない。花子を守ったのは、自分自身のためだった。
 嬉しかったのだ。頼りにしていると、そう言って彼女が笑ってくれたことが。どうしても、もう一度笑って欲しかった。ローにするように信じ切った微笑みで、どうしたのかと首を傾げてほしい。弱い彼女が、こちらを警戒せず、微笑みかけてくれたのなら。
 花子がローに向けるそれが、男女の情ではないことなんてわかっている。母親のような慈愛、それが欲しいのだろうか。あの小さな身体に、ありもしない母への幻想でも抱いているのだろうか。ロシナンテは考えたくなかった。
 情に流されていけないことは、重々承知している。けれどこれは情ではなくて欲だった。信用してはいけない女に信用されたい。何と言う浅ましさ、愚かしさだろう。

「……おまえに怪我させて、ローは怒るだろうな」

 返事は返ってこなかった。寝ているのだろう。ロシナンテは振り向かず、輝く海面をじっと見据える。

























 ハニートラップなんてものがこの自分に適しているなんて微塵も考えてはいなかったが、まさか、こんなに上手くいくとは。

 花子はロシナンテを信用していない。信用する理由も、信用するつもりも、まるでない。彼女が愛するのはローだけだ。他の人間なんて、それがたとえ自分だとして、どうなろうと知ったことか。

 ロシナンテがわざと花子を任務に同行させたとき、その理由を推察し、いけると踏んだ。この男のお人好しさは並大抵のものではない、この状況で、自分の弱みを握る非力な人間を生かしておく理由がないのにも関わらず、心を砕くというこの愚かしさ。まったく、呆れるを通り越して感心してしまうほどだった。共謀の提案も、今となってはいい手だったと心から思う。

 彼女は演じた。ふと気が抜けた風を装っては口元を綻ばせ、頼りにしていると警戒を解く。

 共謀を持ちかけてから、花子はロシナンテを具に観察した。彼女がローといるとき、彼の視線が、ほんの僅かに変わることにも気がついていた。
 面白いほどついてきた結果。ロシナンテは彼女が表情を変えると、必ずはっとするような顔をする。それが弱者への哀れみだろうとどうでもいい。同情を買えるなら、買えるだけ買おう。彼が西の海岸ではなく、港まで駆けつけてくれたことは、花子の勝利を意味している。ロシナンテはもう花子を裏切りはしないだろう。花子が裏切るその日まで、彼は愚直にも弱者を庇護する盾となる。
 でも。

「……おまえに怪我させて、ローは怒るだろうな」

 こんな人間になりたいなんて、思ったことはない。なかったのに。

 ロシナンテの声に、花子は返事をしなかった。いつかきっと死なせることになる人間に、何を返せるというのだろう。
 どうなったって知らない。利用するだけしてやる。海賊も海軍も全員惨めに死んでしまえ。
 呪いのように唱え続けている。いまだって。それと同じ胎の中で、自分を呪う声もする。花子は強く目を閉じた。歯を食いしばる。痛みがあるのは良かったかもしれない。少しでも気を抜けば、どうか許さないでくれと縋りついてしまうから。


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