Scene 17
 始まっただろうか。花子は市街地の方を見やる。海岸沿いでは、何一つ聞こえない。

「どうかされましたか?」

 かけられた声に、花子は振り返った。まだ年若い海兵が、不思議そうに目を丸めて花子を見ている。
 人気のない海岸に、一艘の筆が打ち捨てられるようにしてあった。そう大きなものではなく、一人でも動かせるほどの大きさしかない。船は破壊され、乗れる状態ではなかった。残された物資も何もない。
 海岸を捜索するべきではないか、とハングスに告げたのは花子だ。「島民の安全を見回るのも重要かと思いますが、まずは賊の足取りを掴むのが先ではないかと」そうして船を停めた西の海岸にハングスらを連れてきた花子は、彼らに壊された船を発見させた。船はもう乗れる状態ではないのだから、賊は島内にいるだろうと即座に市街地へ戻ろうとしたハングスを引き留める。

「周辺に残っている足跡が新しい。賊が自身で船を壊すでしょうか? そんなことをすれば足が無くなるだけです」
「では、一体なんだと?」

 苛々と問い詰めるハングスに、彼女はおっとりと首を傾げた。

「ひとつは、賊が複数人いて仲間割れをした可能性です。もうひとつは、この島内にいる不届き者と、何らかの理由で揉め、退路を断たれたか。……そういえば、サムイスには中規模のマフィアファミリーの存在があると聞いていますが」

 ハングスはむっつりと押し黙り、部下たちに船周辺から手掛かりを探し出すよう命じた。場合によってはカッツェたちにコラソンを捕らえさせなければならない今、海軍本部の人間を連れて彼らに接触することは避けたかった。
 意味がないとわかりきっている捜査をさせながら、花子さも熱心に現場を捜索しているかのように振舞った。作戦の進行と、逃げ出すタイミングを考えながら。





▲▽▲






 渡された書類に、軍曹が怪訝そうに眉を顰めてロシナンテを見上げた。

「なぜ、あなたがこのようなものを?」
「あんたらが捜してる“大物海賊”とやらから手に入れたんだ。奴はおれたちの獲物でな」

 その書類は花子から渡されたものであるが、ロシナンテはしれっと嘘をついて肩を竦めた。嘘も隠し事も苦手ではあるが、腐っても潜入捜査官。これくらいならば造作ない。
 ロシナンテが持っていた書類には、カッツェらとドンキホーテ・ファミリーの悪事が書き留められていた。「サムイスに潜り込んだのはドンキホーテ・ファミリー幹部コラソン。もう捕縛して、本部に引き渡してある」実際はロシナンテ自身がコラソンなのだが、そんなことを夢にも思わない軍曹は、食い入るようにして書類に目を落とした。

「厄介な連中だと思ってはいましたが……。まさかあのドンキホーテ・ファミリーと手を組んでいたとは」
「てことはおれたち、最終的にはドンキホーテ・ファミリーとやり合わなきゃならないってことですか?」

 ニーヴァが分かりやすく眉を下げ、ロシナンテを見上げた。そう歳も変わらないだろう男の仕草がなんだか可愛らしく、ロシナンテが笑う。

「心配いらねえ。ドンキホーテはカッツェが捕まればサムイスから手を引くだけで、間違っても攻め込んだりはしないさ」
「よくご存じなんですね」
「そりゃあ、まあ」

 班員の言葉に軽く返し、ロシナンテもまた、書類に目を落とした。

「おれはもう、何年もあいつを追っているからな」

 ハングスを討つと決めてから、軍曹の行動は早かった。彼はすぐさま己の班員を集めると、ハングス少佐と島に巣食うマフィアの癒着、暴行事件の真相、それをずっと単独で追っていたこと、ロシナンテは視察ではなく、ハングス少佐とマフィア連中を討ちに来たことを打ち明けた。力不足を理由に悪を見逃してきた己の不甲斐なさを詫びる彼に、彼が想像していたような罵倒は降らなかった。

「軍曹ってば、ちょっとお堅いからなあ」

 呑気に言ったニーヴァの言葉に、屈強な男たちが賛同する。

「それで、今日やるんですね」
「ああ」

 己を信じる部下たちの視線を受け止めた軍曹は、それを裏切らない覚悟を持って、強く頷いた。

「頼む」
「しかし、うまくマフィアどもを一網打尽にできたとして、それが少佐の罪を暴くのに繋がるでしょうか? 言い逃れされて終わりなんじゃ」

 ニーヴァの疑問はもっともだった。不安げに眉寄せる彼に、ロシナンテは「だろうな」と頷いてみせる。

「ハングスは用心深い男だ。奴らが具体的にどういう取引をしたのかは知らねえが、契約書なんて残していない可能性のほうが高い。暴行事件に直接関係しているとも思えねえし、マフィアとの癒着を暴くのは一苦労だろう」
「だったらどうすれば」
「焦らなくていい」

 証拠もないまま、実績のあるハングスを捉えるのは至難の業だ。作戦を立てた時点で花子も理解していた。けれどもこれは、ハングスの悪事を暴くための策ではない。マフィア連中に海兵をぶつけ、その間にロシナンテと花子が逃げ出すための、いわば海兵を囮とした逃亡劇だ。その果てにハングスが捕まらなくとも、この島がどうなろうとも、花子に興味はない。
 ここに関しては、ロシナンテは花子に同意しなかった。どんなに嘘を吐いていても、彼は誠に海兵だ。罪もない島民たちが悪辣な人間の支配下に、その本性も知らないまま置かれ続けていることを、彼の正義は看過しない。

「ハングスとマフィアは金で繋がっている。この島は豊かだ、動いた金は端た金額でもねえだろう。マフィアがいなくなれば金の動きは変わる。莫大な金なら、痕跡は必ず残る。それを探せ。そうすりゃあ奴らの癒着の証明に道筋はつけられるはずだ」
「ロシナンテ中佐。それではいけません」

 遮ったのは軍曹だった。ロシナンテは彼を見る。軍曹は静かにロシナンテを見つめ返した。

「それでは、癒着の証明にはなりましょうが、暴行事件に少佐が関わっていた証拠が出ない。被害者は、事件の真相を知らないま、傷つけられた心と身体を抱えて生きていかなくてはならなくなる。それではいけない。私たちは、間違っていた男を信じた自分たちの愚かさを含め、すべてを明るみに晒し、もう悪党はどこにもいないのだと言ってやらなければならない。そうでないと、誰も救われません」

 落ち着いた声だった。確固たる意志が横たわっている。

「しかし、それならどうする。そもそも、あんたはどうして奴が暴行事件に関わっていると疑った?」

 貢物は金だけではない。融通だ、と花子は言っていた。彼女がそれを察したのは、取引先であるマフィアの金の流れを正確に把握していたためでもある。暴行事件の後は金が動くことに、彼女は気づいた。動く金は賄賂。とすれば、マフィアは必ず島の上部の人間に繋がっている。けれど、軍曹がそれに気づいたわけはない。ならば、一体何故。
「軍曹」と、彼の部下が呼ぶ。気遣わしげな声だった。それを手で制し、軍曹が口を開く。

「最初の被害者は、私の娘でした。結婚前夜のことです」
「……」
「あの晩、娘は夜勤中の私に夜食を届けに来ました。そして業務中の私の代わりに、少佐が娘を送ると言ってくださった。戻ってきた少佐は、無事送り届けたと私に言いました。だから、翌朝娘が路地裏にボロ雑巾のように捨てられていたのは、送り届けた後にまた外出したからだろうと」

 ロシナンテは理解した。襲われたと言って迷い込んだ子どもを問い詰める、軍曹の気迫。完璧に取り繕われた少佐の本性を、どうして彼の部下がこうもあっさり受け入れたのか。彼らは知っていたのだろう。この事件に対する軍曹の執念と、重い腰をあげないハングスへの疑念と怒りを。

「あんたは初めから奴を疑っていたのか?」
「いいえ」

 軍曹は微笑む。

「愚かなことに、私は彼を信じ切っていましたから。そんな私に、娘は何も言わなかった。……幸い命は無事だった娘は、結婚こそ駄目になりましたが、外には出られずとも静かに暮らしております。犯人について、娘はいまだに何も言ってはくれません。娘だけでなく、その後の被害者もみんな、何一つとして言わないのです。おかしな話でしょう。いくら暗かったからと言って、相手の人数も、身体の大きさもわからないなんて、そんなことがありますか?」

 真っ先に疑ったのはマフィア連中だった。軍曹はハングスに、奴らへの聴取を嘆願した。神妙な顔をして嘆願を聞くハングスは。けれども一度も彼の願いを受け入れることはなかった。「奴らの武力は私たちの手に余る。まだその時ではない」軍曹がいくら己の部下たちを鍛え上げたとして、その言い分が変わることは終ぞなかった。

「考えました。被害者たちは、何に怯えているのか、脅されているのか……。そして気がついたんです。少佐が首を上げる悪党共は、カッツェと揉めていると噂のあった者ばかりだと。娘に聞きました。他の被害者たちにも。声に出さなくていいから、この島の海軍を信用できるか答えてほしいと……首を縦に降った者は、誰もいません」
「……そうか」

 それは、使えるかもしれない。
 ロシナンテは懐に目を落とした。先ほど見せたドンキホーテ・ファミリーとカッツェの契約書の他に、もう一枚用意していた紙がある。ハングスを野放しにはできないと譲らないロシナンテに、花子が渋々用意したものだ。よくもまあ、こんなものを用意できると言えば、彼女はしれっと肩を竦めた。「私のように力がない者は、どれだけ他人を騙せるか、これにかかっているんです。生き残るためにね」

「本当に、被害者はみんな海軍を信用できないと言ったんだな?」
「え、ええ。言ったというか、口に出してはいないのですが……」
「なら、少佐を捕まえるのは、可能かもしれない」

 ロシナンテが、懐から紙を取り出す。作戦を説明する。


 軍曹はまず電伝虫で、三つの班のうちハングスが参加していない班と合流した。ハングスを島の英雄だと信じ切った海兵たちを、説得する時間はない。軍曹は合流した班員たちに「海賊はマフィアの下へ潜伏している」とだけ告げた。動揺する兵士たちが疑問を持つ隙を与えず、軍曹は三つ目の班から小隊を結成した。小隊の役割は、応援という名目でハングスの下へ向かわせる。無論、表向きの役割である。
 小隊を作り、ハングスの下へ向かわせれば、その分戦力は減り、加えて向こうにこちらの動向が知れることになる。作戦に疑問を呈した軍曹を、ロシナンテは無理やり説き伏せた。

「これは保険だ。少佐への連絡を怠れば、万が一作戦が失敗した場合、こちらの疑念が露見する。となれば、手段を選ばず地位を上げてきた男だ、どれだけの部下が犠牲になるかわからねえ。指揮を執った軍曹はもちろん、その部下全員、マフィアとの癒着に気がついた可能性があるとして始末されるだろうな。ああいう奴は、自分を守るためならなんだって犠牲にできるんだ」

 連絡さえしておけば、「マフィア連中が当該の海賊から武器の密輸をしている情報を手に入れたための家宅捜索である」と言い訳が立つ。ハングスが駆けつけてきたとしても、その前にすべてを終わらせておけばいいのだ。
 ロシナンテの説得に、海兵たちは一様に不安げではあったが、最終的には合意した。海軍本部将校が味方に付いていることで、戦力に自信がついたのだろう。「それでいい」鷹揚に頷きながら、ロシナンテは内心胸を撫で下ろしていた。

 小隊を結成し、ハングスの下へ向かわせる本来の意味合いは、花子への連絡だ。それを合図に彼女は逃げ出し、海軍の船を盗む手筈になっている。もし少佐に気づかれることなく、マフィア共との戦闘が終わってしまえば、船を盗むタイミングを失う。それでは困るのだ。

「実は先ほど少佐から連絡が入った。どうやら大々的に賊を探したことが仇になったらしい。少佐の班は、マフィア共の下っ端から襲撃を受けているようだ。賊の捕縛は我らに一任すると言われた」
「少佐が……」
「小隊は少佐たちの応援に向かえ。マフィア共を殲滅し、少佐の支持を仰げ! 他の者は私と共にマフィア邸宅へ向かい、戦闘準備!」
「はっ!」

 真剣な面持ちで敬礼をする部下たちに、軍曹は重々しく頷いた。

「いい機会だ。不必要に戦闘を始めて、島民が巻き込まれるようなことがあってはならないと、少佐はマフィア共を泳がせてきたが……。この島に仇なすものは、すべて捕らえよ!!!」
 




▲▽▲






 足音が聞こえる。花子は身体を強張らせた。耳を澄ます。足音は複数あるようだった。こちらに駆けてくる。
 海岸の捜索を終え、市街地に戻ろうとしているところだった。ひとり歩みを止めた花子を、ハングスが振り返る。

「なにか……?」
「先に行ってください。先ほどの船に、気になることがあります」

 言うや否や、花子は踵を返して走りだした。ハングスがそれを怪訝に思う間もなく、足音が彼らに近づいてくる。

「少佐! 御無事でしたか!」

 駆けてきたのは、違う班に配置したはずの兵が五人。いずれも武器を掲げている。

「どうして彼らが? 無事とは一体何の話だ?」

 首を傾げる部下たちの声を遠くに聞きながら、ハングスは頭を巡らせていた。
 計ったようなタイミングで視察に来たという、海軍将校。海岸を捜索するべきだという誘導。何も見つからなかった捜索に、気落ちする様子ひとつなかった。足音が聞こえるや否や、逃げ出した背中。
 ……あの女!!!

「……? マフィア共から襲撃を受けていたのでは?」

 駆け付けた兵たちも、呆けた彼らの様子に首を傾げた。その中心で、彼は怒りに身を煮えたぎらせる。





▲▽▲






 大きな工場を持つ富裕層が住む、高級住宅街。その中で一際大きく、頑強な塀で囲まれた邸宅。
 玄関口で、若い男は、嫌そうな顔を隠しもせず、目の前の海兵を見やった。壮年の海兵だ。無駄なく鍛えられた、いい身体をしている。よく日に焼けた精悍な顔つきに、整えられた口髭が似合っていた。その後ろには、およそ三十人ほどだろうか。ピッシリと姿勢を正した部下たちが、これまた真面目腐った顔で立ち並ぶ。男と相対している海兵ー軍曹は、面立ちを険しくし、男を睨むように見つめ返した。

「だから、うちにはべつに、なにもないって」

 面倒だ――若い男はそう思った。そもそも、一体どうして海兵なんかがこの邸宅にやってくるのだ。この島を取り仕切っている少佐は、完全にこの組のボスと手を組んでいる。海兵が家宅調査に入るなんて、まずないはずだというのに。

 こういう時に限って、運の悪いことに、ボスはいない。あのイカれた男は、昨夜獲物を取り逃した憂さ晴らしに、街に女を捕まえに出た。帰ってくるのは早くて夜中だろうか。
 まったく、お気軽なことで……ともかく、ボスの不在中に海兵を屋敷に入れただなんてことになれば、どんな目に合うかわからない。お引き取り願おう。若い男は、人相の悪い顔つきで海兵を睨み上げた。「ウチが一体何したってんだ、アァン?」その鼻先に、一枚の紙が突きつけられる。一瞬、惚けた顔をした男が、怪訝そうに書かれた文字を読み上げ……顔色を失くした。

「ドフラミンゴ・ファミリーと密約をしていたという証拠がある。……中を改めさせてもらおう」





▲▽▲






 潜兵はロシナンテだ。彼は自分とニーヴァ、ジェフィスとが発する全ての音を消した。

「これが悪魔の実……! すっげえ!」

 無邪気なニーヴァの声も、音にはならない。それでも軍曹は、しっかりと年若い部下を睨みつけたが。

 音を立てず、彼らは見張りの目を掻い潜り、マフィア共が根城にしている豪奢な邸宅の裏口に身を潜めた。塀の影で息を殺し、合図を待つ。
 時間はない。小隊が少佐の下へ向かってから、いくらか経っている。彼らと合流すれば、ハングスは何が起こったのか、はっきりと理解するだろう。嵌められたことに気がつけば、彼はまっすぐこちらに向かってくるはずだ。……そうだといい。ロシナンテは、花子のことを思った。

 ハングスは花子を追うだろうか。いや、己の地位や名誉に執着している人間だ。何が起こっているか理解したのなら、花子を追うよりはカッツェたちと手を切ることを選ぶだろう。そして、マフィアが持つ己との癒着の証拠を隠滅するために駆け付けてくる。あたかも前々からマフィア共を打つ機会を狙っていたのだと言わんばかりに。……そんなことを許すつもりはないが。
 けれど、もし。もし予想が外れ、奴が自棄になったら? そうなった時、彼は花子を追うのではないか? なりふり構わず自分を破滅さえようとした人間を捕まえ、痛めつけるのではないか? ……わからない。けれど万が一にでもそんなことが起きれば、花子の命は確実に消える。
 そうなれば、ローはどうなる。ロシナンテは、スパイダーマイルズに残してきた子どものことを思った。彼が花子を連れてアジトを出た時、あの子どもは、ロシナンテを射殺さんばかりに睨みつけていた。無理もない。花子はローにとって、たったひとつの拠り所だった。ロシナンテが花子を死なせてしまったら……。

(少なくとも、口効いてもらえないってレベルじゃなさそうだな……)

 思考の海に沈むロシナンテの背を、軽く叩く者があった。振り返る。ロシナンテの影に隠れるように息を潜めていたニーヴァが、そっと地面を指さした。目を落とす。柔らかな土に、指でなぞった跡があった。

「軍曹たち、大丈夫っすかね」

 音もなく、ロシナンテは頷いて笑った。「大丈夫だ」音を出さずとも、ふたりには伝わったらしい。ニーヴァとジェフィスは顔を見合わせ、微笑み合った。真剣な顔つきでロシナンテを見上げる。ニーヴァの指が、地面をなぞった。

「勝ちましょうね」

 当然だ。
 ロシナンテは、強く頷いた。懐に忍ばせた獲物を握る。
 そうだ。勝つのだ。そして自分は、あの女をあの子の下に連れ帰る。なんとしてでも。
 その時、邸宅の中から男たちの怒号と、何かが割れる、大きな音がした。カッと、窓ガラスが強く光る。閃光弾だ。ジェフィスが、音にならない声を上げる。
 ロシナンテは瞬時に立ち上がった。走り出す。ふたりがついてきているか、確認する猶予はない。

 壁に沿って東に回ると、見張りの男が二人、屋敷内を指さし怒鳴り合っていた。先ほどの音で、戦闘を知ったのだろう。喚く彼らはロシナンテに気がつくのが遅れた。片方が、音もなく現れた侵入者を認めるも、もう遅い。

「おまっ――」

 一人はロシナンテを見る間もなく倒れ、もう一人も、その声が誰かに届く前に地面に沈んだ。手際よく見張りを片付けたロシナンテは、彼らから武器を拝借し、遠くに投げた。腕の骨を折っておく。
 ロシナンテは手近な窓に近寄ると、ガラスを叩き割った。彼の能力により、ガラスは音もなく砕け散る。そこに駆け寄る海兵が二人。

「すっげえ」

 海軍本部将校の実力を目の当たりにしたニーヴァが、尊敬の目をロシナンテに向ける。音にならずとも、緊張感のない同僚の様子に、ジェフィスが拳で彼を小突いた。普段、ドジだなんだと野次られることの多いロシナンテは久しぶりの称賛に気を良くしたが、流石に相好を崩し、頬を掻くような真似はしなかった。かわりに笑ってみせる。イメージはガープだ。

「いくぞ。気を引き締めろ」

 音のない指示に、ふたりもまた、音もなく敬礼を返した。視線を交わした三人が、邸宅内に忍び込む。

 屋敷は、既に混戦状態だった。怒声と弾丸が飛び交い、そこかしこに血が流れている。倒れている者も多い。
 数と地理では優勢なものの、賊が奇襲に対応しきれていないことはすぐに分かった。奇声を上げ飛び出していく賊どもに、時に鉛球を打ち込みながら、三人は屋敷内を駆けていく。姿は見えるものの、音を発しない彼らに注意を払う者はいない。みな、対峙している相手だけで精一杯であったし、海兵が上手く彼らを助けた。三人を見つけた人間はすぐさまその顔貌を切りつけられ、怒り狂って目の前の敵に飛び掛かった。

 あまり時間はない。ロシナンテは振り向かないまま、続く二人に合図を出した。意図を理解した二人は視線を交わし合い、互いを鼓舞し、武運を祈った。武術に長けたジェフィスは戦闘に加わり、ニーヴァは玄関口に駆けていく。ハングスの接近をいち早く知り、軍曹に伝える伝令役として。
 彼らの気配がいなくなったことを確認し、ロシナンテもまた、駆け出した。彼は軍曹の下に行き、先頭に加わる作戦だった。音の反響からして、もっとも人が集まっているだろう場所はエントランスホールか、それに続く応接間か。恐らく軍曹はそこにいるはずだ。
 けれどもロシナンテが向かったのは屋敷の奥、一等静かな場所だった。戦闘は主に、屋敷の入り口付近で繰り広げられている。マフィア共は全員、出払っていた。人気のない廊下を、ロシナンテは走っていく。地図がないため、勘に頼ることになるのが厄介だ。舌を打つ。足の速さに自信はあるが、一刻も早く目的を達して、この場から立ち去りたかった。

 スパイダーマイルズのアジトはその構造上、ドフラミンゴの部屋はダイニングのすぐ近くにあった。走った道筋を頭に描き、脳内に地図を作り上げていく。造りからして、スパイダーマイルズとは違い、カッツェの部屋は奥にあるだろう。それは幸いだった。もし戦闘から離れていることを海兵に見咎められれば、言い訳は効かないだろう。けれども彼の目的は、戦闘に参加し、マフィア共を討つことではない。誰にも見つからないよう、けれどもスピードは殺さず、ロシナンテはまっすぐカッツェの部屋に向かう。
 部屋を見つけるのに、さほど時間は必要なかった。屋敷の前方では、いまだ喧騒が続いている。それに背を向け、ロシナンテは扉に向き直った。重厚な扉には、いたく細かな彫刻が施されている。ロシナンテは顔を歪めた。彫刻は実に繊細であったが、いかんせん、モチーフの趣味が悪すぎる。切り落とした睾丸を豚に食わせている彫り物を扉に施すなど、相当気が狂っているに違いない。
 彼は銃を構えた。どうせ、扉は鍵がかかっているに決まっている。ノブを捻るまでもなく、引き金を引く。鉛球が二発、的確に蝶番を打ち砕いた。蹴り破る。
 部屋は無人だ。悪趣味な調度品に出迎えられたロシナンテは、慎重に足を踏み入れた。





▲▽▲






 息が切れる。肺が十分に膨らまず、脇腹が刺すように痛んでいる。それでも花子は足を止めなかった。走り続ける。
 まさか、こんなに上手くいくとは。そんな状況ではないにもかかわらず、笑ってしまいそうだった。思った通り、少佐はロシナンテが寄越した小隊を連れてマフィアのアジトに向かった。花子を追う者はない。彼女は、まっすぐ港に向かっていた。そこに船がある。
 船さえ手に入れれば、あとはどうにでもなるだろう。この島がどんな結末を迎えるにせよ、逃げ出してしまえば、そんなことは花子には関係がないのだから。戦闘の最中、混乱に乗じてロシナンテが金を奪ってくれば尚のこと。ドフラミンゴからの要求はクリアできるし、裏切り者を片付けたおまけまでついてくる。万々歳だ。

 町に人気はなかった。海賊が島に上がり込んだから、と島民たちに言って回ったのも無駄ではなかったらしい。誰もいない石畳の小道を、花子は無我夢中で走り続けた。島の外れにいたために、港は遠く、加えて時間に猶予がなかった。彼女は混乱が収まるまでに盗んだ船を、寂れた西の海岸まで回し、そこでロシナンテと落ち合うことになっている。

 ロシナンテは無事だろうか。一瞬、ちらりと頭をよぎった考えを花子は打ち消した。腐っても海軍将校、加えてドンキホーテ・ファミリー幹部だ。こんなところで死ぬ腕ではないだろう。ここで彼に死なれると、花子が困る。彼女一人では船を操れないし、スパイダーマイルズに帰りついたところで、ドフラミンゴに殺される。

 坂を登りきったところで、下った先に港が見えた。よく晴れている。水平線はまるで、空と海が溶け合うかのようだった。水面が陽光を反射して、きらきらと眩しい。波止場には、ロープの先に船がいくつか繋がれていた。穏やかな波に乗り、揺り篭のように揺れている。
 がくりと、身体が揺れた。気がついたとき、花子は石畳に尻をついていた。安堵のためだった。
 震える身体を、彼女は抱きしめた。歯が、カチカチと音を立てる。ぎゅっと強く目を瞑るも、目蓋は暖かく照らされ、これが夢ではないことを教えてくれた。この怖い夢も、もうすぐ終わるのだ。
 よかった、これで帰れる
 ローくん
  震える膝を叱咤し、彼女は立ち上がった。大きく息を吸う。一回、二回、三回。肺も、腹も、痛みを訴えていた。彼女は希望を胸に、一直線に坂を駆け下りる。 


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