番外編if@
 暗い部屋に帰りたくなかったのだ。ひとりで眠るのが怖いだなんて、そんな子どものようなことを言うのはプライドが許さなかったけれど、それでも時計にはわざと気づかないふりをしていた。

「あれ、もうこんな時間」

 花子が顔を上げる。ローの胸がぎくりと波立ち、彼はそれに気づかないふりをする。
 花子の部屋で本を読むのは、ローにとってとても楽しいことだった。ベッドに二人並んで腰かけ、ローは時折、花子を見上げる。部屋の中では、花子の瞳は真っ黒に見える。花子は他人の視線に敏感だった。なのに、本を読むときだけ、花子はローの視線に気づかないし、気づいていても真剣であればあるだけ気づかないふりをする。それをローは気に入っていた。花子が本を読むのは、ローの前だけだから。

「そろそろ寝ようか」

 もう少し、気づかないでくれたらよかったのに。花子は本に栞を挟むと、柔らかくローを見下ろした。栞はこの前、ローが買ってきたものだ。青い布地に白い花が刺繍されている。

「ローくん、明日も早いでしょ」

 子ども扱いだ。そりゃあ、身体は小さいけれど、ローは普通の子どもではない。海賊団に身を置き、普通の子どもならしないような訓練や医療の勉強だってしている。安全な家に暮らし、両親に怒られつつもベッドに押し込められるような子どもではないのに。けれど、花子はローが遅くまで起きていると、いい顔をしなかった。「いい、ローくん」やんわりと手を握り、ローと同じ目線になるようしゃがんだ花子は、子どもに言うように言い聞かせる。「たくさん食べて、たくさん寝るの。それが、ローくんのいま一番大事な仕事なんだから」成長ホルモンや人体の仕組みなんて、ローのほうがよほどよく知っている。花子はローが大人に交じって略奪に向かうのを咎めない。夜更かしと好き嫌いだけは、眉を寄せる。
 少しくらい遅くまで起きていたって、朝は決まった時間に起きられる。何度言っても、花子はローに日を跨ぐまで起きていることを許さない。

「もう少し読んだら」

 集中しているふりをして、ローは顔を上げなかった。花子といる時、彼はあまり本に没頭しない。花子と一緒に穏やかな時間を過ごしているという事実こそが重要だった。

「でも、もう日付変わっちゃうよ」
「大丈夫だ」

 明日からしばらく、花子は時間が取れないだろう。船は明日の昼に、大きな島に着く予定だった。ドフラミンゴのでかい商談に、花子も同行する予定だ。それこそ、日付が変わっても姿さえ見られないかもしれない。

「困ったなあ」

 困らせたいわけではないので、ローは花子に、申し訳なく思った。でもまだ、一緒にいたかった。
 今日はすっと、ふたりで一緒にこもっていた。昼ごはんさえ、部屋に持ち込んでふたりで食べた。なかなかない幸せだ。それが終わって、暗い部屋に一人で帰るのかと思うと、とてもさびしくて、なかなか腰を上げることができない。

 俯いて文字を追うローには見えなかったけれど、それでも花子が自分を見下ろしていることを感じていた。困らせたいわけではない。彼女の言うとおり、おやすみと言って部屋に戻るべきだろう。夜が明ければ会えるのだし、島に着くまでは花子の部屋で本だって読める。花子の仕事が終われば、自分も少し勉強をさぼって一緒にいればいいだけの話だ。
 戻るよ、とローが言いかけたところで、「そうだ」と軽やかな声が降ってきた。ローが顔を上げる。彼を見下ろした花子は、いつもとは少し違う笑顔だった。まろやかに光を帯びた、母親をも思わせる微笑ではなく、子ども染みていてあどけない。

「お泊り会しよう」
「……お泊り会?」
「そう」

 彼女の手が、帽子越しにローを撫でる。小さな手だ。ローとそう変わらない。

「このままローくんがお部屋に帰っちゃうの寂しいなって」

 今日はずっと一緒だったでしょ、と花子が言う。
 花子も同じだったのだ。そう思って、ローはとても嬉しかった。寂しいのは自分だけではない。花子もまた、自分と離れがたいと思ってくれている。ローは胸に手を当てた。甘いものが、とくとくと注がれているような心地。もしかすると、花子は魔法使いなのかもしれない。普段ならば決して考えないような、夢のようなことを考える。だって、花子といると、ローはいつも幸せに満たされていくような気がする。
 栞も挟まなかった。もともと、さして面白いことが書いてあったわけでもない。本を閉じたローは軽い身のこなしでベッドから降りる。花子を振り返り、少しだけ笑う。帽子の鍔を、ついと下げる。あんまり嬉しいのだとばれるのは気恥ずかしい。

「パジャマ取ってくる」
「うん」

 本を置いたまま駆けていく子どもの背を見送り、花子も微笑んだ。





 電気を落とした室内で、並んで寝転ぶ。
 花子のベッドはあまり大きくなかったけれど、くっつくほど身体を寄せて眠るのであれば、毛布からはみ出すこともない。半ば、胸に抱かれる形になったローが、こっそりと花子を見上げる。彼女の右手は、彼の後頭部に添えられている。

「眠れない?」
「ううん」

 船が揺れるたび、カーテンがちろりと開いて夜空を見せる。月の光は、ちょうどよく花子を照らした。黄味がかった彼女の肌が、白い光に真珠色になる。つるりと光る頬が天使みたいにきれいだと思う。

「花子は美人だ」

 思ったことを言うと、彼女は一瞬、目を瞬かせた。黒い目は、夜の中でも黒い。「ええ」冗談を聞いた時のように、けたけたと花子が笑う。

「私、美人じゃないよ」
「そんなことない」

 嘘を吐いていると思われるのは心外だった。むっとしたローが言い返すのだが、花子は真剣に取り合わない。それが殊更不服で、ローは強く「本当だ」と言った。

「花子は美人だよ」

 言いながら、少し、美人というのとは違うかもしれないと思った。きれいなのだ。ローの目には、花子の愛情がよく見える。自分をどれだけ大切にしていくれているのかがよくわかる。だからこそ、彼女の造形までもが美しく見える。たまに、ファミリーの連中が侍らせる女を見かける機会があるが、きつい色彩を纏い肌をさらす女たちより、紅茶を淹れて笑う花子のほうがずっとずっときれいだ。

 そして、とローは思った。たぶん、そう思っているのは自分だけではない。
 いくらか前、コラソンが花子と二人きりで任務に行った。帰ってきてから、奴の様子が少しおかしい。時折、コラソンは花子を見ている。他のファミリーを奴があんな目で見ていたことはない。花子だけなのだ。花子だけをじっと見つめ、そうしてローが睨みつけると、奴は何もなかったように目を逸らし、どこかへ行く。そのくせ、ローのいないところで奴が花子を呼び出すことさえあった。あんな、熱の篭った視線に花子が気づかないわけがなく、それでも花子は呼び出されれば応じないわけにいかないのだ。花子がコラソンを好いているはずがない。彼女は何も言わないけれど、新しい傷もないけれど、花子が嫌な男に何をされているのか、そう考えるとローはいつも落ち着かなくなる。
 気に食わない。

「そんなこと言ってくれるの、ローくんだけだよ」
「みんな見る目がないんだ」
「ありがとう」

 笑う花子は、年端もいかない少女のようだ。「ローくんみたいなイケメンにそう言ってもらえるなんて、得しちゃった気分」
 ローも嬉しかった。自分の造形なんてどうでもいいけれど、女は顔のいい男が好きなのだと聞いたことがある。花子が自分の顔を気に入ってくれるのなら、それは嬉しい。

「なあ、花子」
「なあに」
「もし、おれの他に花子を褒める男が本当にいなかったらさ」
「うん」
「結婚しよう」

 海辺で花子が約束をくれた日、ローは花子に恋人を作ってほしいと言った。いまはそんなこと、少しだって思っていない。だって、花子は自分と一緒にいてくれると言ったから。彼女はきっと、最後までこの手を離さないでいてくれるだろう。

「大人にならなくたって、結婚くらい、できる」

 言い聞かせるように言えば、花子が彼の髪を掻き混ぜた。「うん」額に頬を寄せられる。あたたかくて、柔らかい。
 抱き締められたまま目を閉じると、規則正しい音がローの耳を打った。花子の心臓の音だった。胸の中は甘い匂いがする。





△▼△






「キャプテーン」

 呼ばれて振り向けば、ペンギンがこちらに手を振っていた。「ちょっとこれ、どうします?」見れば、手に何かを持っている。本だろうか。足を向ける。

「どうした」
「誰も読みそうにないから置いてこうかなとも思ったんですけど、キャプテン本好きだし、どうしよっかなって」

 海賊団を結成して、略奪はそう珍しいことでもなくなっていた。けれどやはり、みな血が騒ぐのだろう。蹴散らした相手は取るに足らない小心者の集まりで、早々に小舟に乗って逃げ出していた。ならばなぜ喧嘩を売ってきたのかと鼻で笑いたくもなるが、この長い航海の中、貴重な食糧が手に入ったのだ、僥倖としよう。

 ペンギンが掲げている本は、元は立派な装丁だったのだろうが、ひどく擦り切れていた。受け取る。「なんか、聖書みたいな感じですよ、それ」屈んだまま、床に積まれた山を漁るペンギンが言う。「おっ、宝石見っけ」本を見せた時よりも、よほど明るく彼が笑う。
 捲ると、つまらない文句ばかりが並んでいた。祈れば救われる、なんて、随分おめでたい頭をしている。海賊に宗教は必要ない。本自体あまりに痛み過ぎていて、売り飛ばすにも価値はないだろう。「捨てろ」そう言いかけて、ローはページを捲る手を留めた。手だけではなく、もしかすると、息さえ。「キャプテン?」物色をしていたペンギンが、動きを止めた彼に、怪訝そうに顔を上げる。

 天使が描かれていた。何の場面か、赤ん坊を抱いている。羽が生え、白い服を纏った天使は、この世の何よりも愛おしいのだと言わんばかりの表情で、腕の中を見下ろしているのだった。黒い髪の天使だった。

「……」
「どうしました?」

 興味を引かれたペンギンが立ち上がり、本を覗き込む。なんてことのない宗教画に見えた。そもそも、何の宗教なのか、それすら彼には判然としない。信仰心と海賊は相性が悪いのだ。

「あれ、キャプテンとペンギン、何見てるの?」
「なんかお宝ありました?」

 奪った食料を詰め終えたベポとシャチが近づいてきても、ローはまだ、本を見ている。

「いや、なんか……」

 気を遣ったペンギンが言葉を濁したところで、ローは天使が描かれたページを破り取った。傷ついた本を捨て、千切った絵だけを胸ポケットにしまう。

「なんでもねえ。それより、終わったのか」
「あらかた詰め込みましたよ。キッチン潤ったんで、今日は宴っすね」
「そうか。なら船を出すぞ」
「アイアイ、キャプテン!」

 ペンギンは捨てられた本を振り返った。とりわけ美しい絵でもなかったけれど、どうしてそこだけを、奪おうとしたのだろうか。

「気になるか?」

 ベポとシャチは首を傾げる。ペンギンだけがその意味を理解し、「まあ、ちょっとだけ」と軽く笑った。
「キャプテン、ああいうの、好きでしたっけ?」
「興味ねえな」
「っすよね」
「天使に会ったことがある」
「えっ」
「似てただけだ」

 赤子に向けられたものを、ローはよく知っている。かつてそれは、ローに向けられたものだった。彼女はいつも、あんな目をしてローを見てくれた。世界中に忌み嫌われたローを、彼女は世界で一番愛しいと言った。いつもやさしかった。

「やっぱり他の連中に、見る目がなかったんだろうよ」

 描かれた天使はきれいだった。まるで彼女と同じように。



前半部は本編19話後を想定しています。ifなので未来がこうなるとは限りません。


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