Scene 13
「人間の記憶とは思っている以上に曖昧なものです。自分の脳内で作られた記憶を本物だと誤認していることも多い。また、印象というのはたいてい頭と服装が強く他はぼんやりとしているものですから、簡単な変装というのは案外馬鹿にできないものです」

 そう言った花子はロシナンテの頭から帽子をはぎ取り、帽子に下がるハート飾りのついた紐と自身の長い髪を帽子の中に纏めて入れた。打ち捨てられていたボロ布は、元は男物のシャツだったようだ。花子は黒いワンピースを何の躊躇もなく脱ぎ捨てると、裾がひどく千切れているそれを頭からかぶった。ちなみに花子がワンピースを脱いだ時、ロシナンテは慌てすぎて頭を床にしこたま打ち付けた。

「あ、ああ。確かにそうしてると、女にゃ見えねえが」

 大きなシャツから覗く手足は、いつも以上にか細く頼りなさげに見える。一見すると、貧しい家の少年だった。一つ頷いた花子は、「それでは少し席を外します」とあばら家から出て行こうとする。

「ちょ、待て待て待て待て!」
「なんですか?」

 慌てて引き留めたロシナンテに投げられた胡乱気な視線。いや、なんでって。ロシナンテは少々不満だった。どう考えてもこの場合は引き留めるのが正しい。

「出て行ってどうすんだ。おまえひとりじゃ捕まっても逃げられねえだろ」
「問題ありません。考えがありますから」

 しかしロシナンテの心配もどこ吹く風。相変わらずポーカーフェイスというか能面のような顔を崩さないまま、花子はひらりと出て行った。「あなたは来なくて構いません。目立ちますので」と言い残して。
 置いて行かれたロシナンテは、なんだかやるせない気分のまま再び床に寝転がった。花子が心配でないわけではないし、ここに残ることに不満がないわけでもないが、花子の態度を鑑みるに、本当に考えがあるのだろう。またロシナンテが言ったように、スパイダーマイルズに帰れなくなることは避けたいに違いない。彼女が言った通り自分は目立ちすぎる。いまは花子に任せた方がいい。

 明かりのない小屋の中は真っ暗闇と言っても差し支えないが、多少時間が経てば目も慣れるものだ。板張りの屋根はひどく割れていて、その隙間からは夜空が顔を覗かせている。白い星がちらりと光っているのを、ロシナンテはぼんやりと見つめた。
 なんだか子どもの頃に戻ったようだ。あの頃はよくこうして、眠れない夜に星を数えた。穴の開いた、一枚切りの毛布。隣で身体を丸める兄は、星を読むのが上手かった。空腹と殴られた傷が痛んで眠れない時、兄は手を引いて外に連れ出してくれた。兄の指先にある星々はどれもこれもが宝石のようにちかちかと瞬いていた。兄が話す神話を聞いているときは、空腹も傷の痛みも、怖いものはすべて忘れられた。
 ロシナンテは目を瞑った。視界から星を追い出す。

 ロシナンテは花子のことを考えた。そしてローのことを。あの二人は、とても気丈にふるまっている。病に身を蝕まれるローは、ファミリーの前で決して弱音を吐くことはなかった。涙ひとつ見せず、冷静に自分が死ぬまでの時間を計算してみせた。そして花子もまた、いつだって背筋を伸ばし、自分を簡単に殺せる人間たちに対峙した。これらがどれだけ己を叱咤した上でなせる芸当か、ロシナンテだって想像がつかないほどの馬鹿ではない。
 故郷も家族も未来も奪われた少年と、故郷を失い、望まない暴力の世界に身を投じるしかなかった女性。彼らの気丈さは、見ていて痛々しい。あの頃の自分でさえ、まだ泣く余裕があった。父と母と兄に守られていた。では、彼らは? この無慈悲な世界で、一体誰が彼らを守ってくれるのだろう。
 二人について考えれば考えるほど、ロシナンテは無関心ではいられなくなった。救ってやりたい。もっと楽しいことをして美しいものを見て生きていくことが許されるのだと、言ってやりたかった。たった二人で助け合うその姿が、胸を締め付けてたまらなかった。彼らを見過ごすには、ロシナンテの情はあまりにも深すぎる。
 とはいえ、花子を手放しで信用することはロシナンテの立場が許さない。他の人間がいる前では、ロシナンテはあの二人に声ひとつまともにかけられないのだ。そしてあの二人がこちらの恩情――言い方を変えれば同情をそう容易く受け入れるとは思えなかった。
 優先順位を違えてはいけない。ロシナンテは大きく息を吐きだした。自分の使命とは、あの化け物となった兄を止めることだ。もうこれ以上の罪を重ねさせないこと、そのために周りの人間のほとんどを、時には自分自身でさえ欺いて海賊の身に甘んじている。どんなことをしてでも兄を止めると、兄の名前を手配書で見たその時に誓ったではないか。それに信頼して送り出してくれたあの人の期待を、一体どうして裏切れるだろう。
 ロシナンテは目を閉じたまま花子を待った。あの凪いだ海のような女のことを、考えないようにしながら。


 花子の変装は上手くいった。彼女は姿を消してからきっちり一時間後に、再びあばら家に姿を見せた。その手には船に置いてきたはずの荷物が抱えられている。

「ここに戻る途中、マフィアたちが港に向かうのが見えました。街中と港を中心に私たちを探し回っているようです。あの様子だとここにはしばらく来ないでしょう」

 そう言って荷物を広げた花子はロシナンテの化粧品を床に広げ、真っ先に化粧を落とすよう彼に要求した。どこから持ってきたのか、真新しい男物のシャツまで差し出してくる。

「さすがにサイズが合わないかもしれませんが、この際贅沢は言っていられません。無理にでも着てください」
「いや、おまえこれどうやって……」

 ぴっしりと糊の利いたシャツを目の前に掲げ、ロシナンテは困惑して花子を見やった。けれども花子に視線を向けたことで、彼はさらにぎょっと目を丸くすることになる。

「おま、一体何してきた!?!?」

 声を裏返すロシナンテとは対照的に、当の花子はなんてことのないように肩を竦めた。ボロ布のようなシャツと赤い帽子を脱ぎ棄て(「ちょ、それおれのだぞ!」という叫びは無視した)、手に入れたばかりの海兵の制服に袖を通す。

「駐屯所を訪ねたんです。暗い道で、知らない大人に襲われたと言って。人がいる中で隙を見て盗みを働くのはなかなか怖いものでしたけれど、こちらも非常事態ですし、仕方がないかと思いまして」

 温かいミルクをごちそうになりました。悪びれなく言う花子にロシナンテはげんなりと肩を落とした。そりゃあ、こんな痩せ細って薄汚れた子どもにしか見えない人間が助けを求めてきたら、ミルクの一杯ぐらいは出してやりたくもなるだろう。それがコソ泥だったというのだから、顔も知らない同胞に同情する。

「でもよ、こんなもんで一体、何をしようっていうんだ」

 目的が見えないながらも、ロシナンテは花子の言うとおりに化粧を落とし、シャツに袖を通した。心配していたほどサイズが合わないわけでもない。肩回りは少々きついが動けないというほどではなく、戦うには問題なさそうだ。
 床に広げた化粧品をあれこれと手に取っていた花子は、横目でロシナンテを見やった。派手な化粧を落としたロシナンテが自分の予想していた通り先ほどまでとはまるで違う人間に見えることを確認すると、すぐさまその視線を化粧品に戻す。

「言ったでしょう。私もあなたも生きたまま金を手に入れこの島を出て、あなたの矜持も守る手があると」
「だからそれは一体どういう手だよ」
「では聞きますが、現在私たちの問題として挙がっていることはなんですか?」

 花子の問いに、ロシナンテは一瞬思考を巡らせた。

「戦力だ」

 腐っても海軍将校だ。その頭は決して愚鈍ではない。すぐに答えを導き出す。

「こっちにゃ戦闘員はおれしかいねえ。相手はこの島最大のマフィアだ、ざっと百人は下らねえだろう。それをおれ一人で、なおかつおまえを守りながら相手取るのは到底無理がある。かと言ってこちらの応援は呼べねえ。戦力の差を埋める手段がない」
「正解です。問題はこの圧倒的な戦力差」

 ロシナンテの化粧品は派手なものが多い。その中から一番派手な色合いのものを選んだ花子は、それらを自分の肌に滑らせ始めた。小ぶりの唇がやたらと赤く塗られていくのを見ながら、「でもよ」とロシナンテが眉を下げる。

「それが分かってたところで、どうしようもねえのが現状だ。こんな格好したところで相手が油断するかって言やあ、逆に警戒されるのがオチだろう」
「いいえ、きっと諸手を挙げて歓迎してくれますよ」
「はあ?」

 ロシナンテにすげなく返し、気合を入れてアイメイクを始めた花子に、ロシナンテは苛立ちを交えて聞き返した。

「そりゃ、どういう意味だ」
「まあ諸手を挙げて歓迎、というのは少々違うかもしれませんけど。そもそも、あなた、自意識が間違っているんですよ」

 マスカラで右の睫毛をくるりと上げた花子がロシナンテを見上げる。

「あなた、海兵でしょう」
「? それがどうかしたか?」
「戦力が足りないのなら、補えばいいんです。それがあの海賊団には見込めないというのなら、別のところから補えばいい。それだけの話でしょう」

 口端をほんの僅かに持ち上げて、花子が首を傾げた。先ほどまでは薄汚れた子どもにしか見えない容貌であったというのに、化粧によって色彩を付けられた顔は、彼女から子どもらしさを拭い去った。

「頼りにしていますよ、ロシナンテ中佐」
「……まじかよ」

 花子の言わんとするところを察したロシナンテは、引き攣った顔で花子を見返した。けれどもその顔が崩れることはなく、がっくりと肩を落とす。

「矜持って、そういうことか」
「海兵さんのお仕事は、悪党どもを捕まえることですから」

 その法則だと、おれはおまえも捕まえなきゃならないんだが。目の前で表情を動かさず、けれども何処となく揶揄うような色を乗せた花子に、ロシナンテはそうは言わなかった。

「そんな上手くいくか?」
「さあ。けれどもやらなければ私は死ぬので、出来れば手伝っていただきたいですね」

 しれっと肩を竦めた花子は、一つ、大きな欠伸をした。広げた荷物の中から、自分の鞄を取り出し、中身を覗く。紙とインクを取り出した彼女はあばら屋をぐるりと見回した。窓ガラスはひび割れ、とても本来の機能を保っていない。大きなガラスの破片があちらこちらに散らばっている。

「明るくなったら動きましょう。もう直に夜が明けます」


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