Scene 12

“北の海”中腹に座す島の名を、サムイスという。
 治安が悪い島の多い“北の海”において、サムイスは比較的安全な島と言えた。島付近の海流が特殊であり、その海流にのみ存在するプランクトンは特殊な糸を吐く。海に浮かぶその糸は見た目が美しいことに加え、氷の十万倍もの冷却効果を持っていた。食べ物を包んでおけば、ちょっとした航海であれば十分に食材の鮮度を保つことができる。島民は海から糸を手繰り寄せ、機織り、それを特産品として多くの島々に輸出しては島を豊かにしていった。氷織物と呼ばれるそれは、遠く“偉大なる航路”に存在する夏島で重宝され、加えて冷却設備を積むことのできない小さな船にも多く用いられた。政府もまた、偵察用の小型船や田舎の駐屯所に配置する小さな船にはこの織物を使用することもある。氷織物には顧客が多く、サムイスはこれにより繁栄した。
 豊かな島には人が集まり、人が増えれば犯罪も増える。治安が悪化すれば織物の供給にも不都合が生じ、それは織物を利用する世界政府の不利益となる。そのためサムイスは“北の海”にしては珍しく海軍駐屯所の整備された島だった。二日もあればぐるりと回れてしまうほどの島には西と東にそれぞれ海軍の駐屯所が配置され、本部所属でないとはいえ少佐が駐在している。
 表通りには青いタイルが敷き詰められ、島の豊かさを表していた。子どもたちが駆け回り、買い物籠を持った女たちの談笑が聞こえる。平和を絵に描いたような光景が、この島の日常であった。
 けれどもそれは、一面に過ぎない。

▲▽▲


 しくじったと気がつくときは、大抵が手遅れだ。背中に冷たい銃口を突き付けられ、ロシナンテは自分自身に舌を打った。

「悪ぃなあ、コラソン」

 部屋の奥、最も金のかかった椅子にふんぞり返るようにして座る男は、厭らしい笑みを浮かべてロシナンテを眺めた。両手の指は太く、それぞれに金の指輪が嵌っている。時計は金がかかっていればいいとばかりにごてごてとダイヤで装飾され、照明を浴びて輝いている。悪趣味な野郎め。背に受けた男の声に、ロシナンテは唸った。

 豊かな街、サムイス。この島に溢れるのは子どもたちの笑い声と女たちの談笑、夕飯の匂い、ありふれたささやかな幸せ。しかしひと度その皮を捲れば、暴力と欲望に塗れた町が顔を出す。
 人が集まるところには金がある。金があるところに集まるは、何もまっとうな商売人だけではない。

 カッツェという男がいた。路地裏でゴミ屑のように生きていた彼は、十二の頃裏町に救うマフィアに拾われ、十九で首領の首を取った。人を陥れることに関して彼の右に出る者はおらず、彼は裏町で生きる日陰者たちを次々と破滅させていった。ある者は裸にした上で犬に食わせ、ある者は縛り付け、その目の前で妻と娘を犯して楽しんだ。若い時分からタカが外れたような彼の行動は年月を経るごとにより残虐になっていき、彼に異を唱える者は翌日には姿を消した。
 サムイスの裏の顔として幅を利かせるカッツェにドフラミンゴが目を付けたのは、そう最近の話ではない。
 野心家のカッツェは武器を好んだ。ドンキホーテ・ドフラミンゴは彼のイカれた言動をいたく気に入り、大量の武器を都合してやった。カッツェはドフラミンゴの顧客としては古馴染みであり、得意先でもある。

 だからこそ、ロシナンテは油断していた。付き合いの長い輩がいまさら裏切ることはないだろうと、タカを括っていたのだ。どんなにイカれた男だろうと“北の海”一の悪党であるドフラミンゴに喧嘩を売るなど常識はずれな行為はしないはずだと思っていた。自身が憎んではばからない悪党の名に胡坐をかいて敵に背を取られるなど、自分自身に反吐が出る。

 金の回収が名目上食事会となるのはそう珍しいことではない。指定された高級レストランでは、VIP用だろう豪奢な個室に通された。人払いがされているのか彼らの他に客はなく、給仕も最低限の人数しかいない。円形の部屋を囲むようにぐるりと壁際に立つマフィア連中の中で、ロシナンテと花子はつつがなく食事を終え(ロシナンテが入り口で派手にすっ転び、加えて必要な書類を忘れたのは割愛するとして)、マフィアから金の入った旅行鞄を受け取り、あとはレストランから退場するだけのはずであった。

 狙われたのはロシナンテだ。どう見ても戦闘能力のない女よりも、ドンキホーテ幹部であるコラソンを始末した方が話が早い。
 背を返した瞬間に向けられた銃口。一つ二つではない。振り向かずとも、気配で分かった。部屋を取り囲む男たちが構える銃口は、すべてがロシナンテに向けられていた。あまりに間抜けが過ぎる。

「おれはよぅ、おたくらには感謝してるんだ」

 欲と暴力が綯交ぜになって、どろどろに腐りきったような声だった。弾を装填する音。金の指輪をはめた人差し指をトリガーにかけ、ボスの座に出した男は勝利を確信して笑っている。

「あんたらにはずいぶん稼がせてもらった。ドフラミンゴはいい取引相手だ。裏切るのは、おれも心苦しい」

 思ってもいないことを、よくもぺらぺらと。けれどもロシナンテは、背を突く銃口に黙って両手を上げることしかできない。後ろにいる下衆がどんな顔をしているか背を向けているロシナンテには見えなかったが、目に浮かぶようだった。

「だからよぅ、せめて弟君の死体は送りつけてやらねぇとなあ。おれはこう見えて慈悲深いんだ」

 カッツェの言葉に、マフィア共はげらげらと声を上げて笑った。中にはロシナンテを指さし、これ見よがしに嘲笑する者もいる。けれどもロシナンテはただ黙って間抜けのように立っているほかなかった。コラソンは喋れない。言い返すこともできなければ、彼の後ろには花子がいる。銃弾を浴びるとしたら、ロシナンテだけでは済まないだろう。下手に動くわけにはいかない。ロシナンテの能力は隠密活動には向いているが、直接的な戦闘に使えるものではなかった。打てる手がない。

「まあ、そこの女は」

 花子を見下しながら、カッツェは言葉を続けた。値踏みするような視線を背に受けたまま、花子はいつも通り凪いだ表情をして立っている。

「こっちで適当に遊ばしてもらってからリサイクルしよう、安心してくれや」
「お言葉なのですが」

 突然の女の声に虚を突かれたのは、ロシナンテだけではなかった。一瞬、下卑た笑い声が止む。
 まるで突きつけられる銃口なんて視界に入っていないかのように、花子はくるりと振り返った。背筋を伸ばし、まっすぐにカッツェを見つめる瞳には恐怖も、動揺も、焦りもない。いつもと変わらない、凪いだ瞳だった。
 花子は首を傾げた。心底不思議でたまらないという色を付けて、言葉を舌へ乗せる。

「なぜ、あなた方が裏切ることを、我らの王が承知していなかったと、そう思われるのですか?」
「……あ?」

 これには早くも勝利の余韻に浸っていた男も笑みを引いた。ぎらついた眼が、鋭く花子を睨めつける。部屋に殺気が満ちるのを感じ取ったロシナンテが周囲に聞こえないよう花子を呼んだ。何か策があるのかもしれないが、ロシナンテが身動きを取れない現状で相手を煽るのは得策ではない。
 けれども花子は彼に構わなかった。至極丁寧な所作でカッツェに頭を下げる。その表情と吐き出す言葉のために、丁寧なお辞儀は慇懃無礼な姿勢となって殊更マフィア連中の気を荒立てた。

「あなた方はいい商売相手でした」

 一つ、また一つと銃口がロシナンテから花子に移る。ロシナンテがもう一度、先ほどよりも焦燥を滲ませて花子を呼ぶが、それでも彼女は振り向かない。

「あなたが慈悲深いというのは本当でしょうね。たいした質の武器を卸しているわけでもないのに、こちらが少し甘い言葉を吐けば尻尾を振り、涎を垂らして大金を積む。ええ、ほんとうお優しい方」
「口の利き方には気を付けな」
「あなた方こそ、お気をつけなさって」

 今度はわかりやすく、花子はカッツェを嘲笑した。

「我らが王は、身内を傷つけられるのを許さない。コラソン様は、王の弟君であらせられる。本来ならば、あなた方のような下衆が口を利くことも許されないというのに、よくもまあ思い上がった真似をなさる」
「何が王だ。薄汚ねえ海賊風情が、ゴミ塗れの王冠被った気になって悦に入ってるんじゃねぇ」

 無表情から一転、花子はにっこりと笑いかけた。笑いかけられたカッツェは――否、カッツェは背筋を冷たいものが流れるのを感じた。この女は己を見ていない。己の奥にいる人間に笑いかけている!

「……とのことでございます。若君」

 花子が恭しく頭を下げるのと、カッツェが振り返るのは同時だった。円形の部屋には、どの席の後ろにも幾分かの余白がある。ちょうど、人が一人立っていてもおかしくない程度の。恭しく頭を下げた女に呆気にとられ、男たちははっとして部屋の奥を振り返った。ロシナンテさえ、この部屋にドンキホーテ・ドフラミンゴがいるのではないかと錯覚した。
 武器ひとつ持たない女の挙動に、一瞬の空白が生まれる。銃口がわずかに逸れた瞬間を花子は逃さなかった。戦闘能力が著しく欠如している彼女は、虚勢が己の鎧であり、一瞬の躊躇こそが敵であることをよく知っている。いつも着ている、黒いワンピース。そのポケットに忍ばせた拳銃は三種類。
 後ろに誰もいないと気がついた男どもが怒り狂って花子に銃を向ける前に、花子は引き金を引いていた。部屋が目を射殺すような光に溢れる。誰もが腕で目を覆った。怒号が飛び交う。花子はロシナンテに触れるほど近くに立っていた。すぐさま自分たちに“凪”をかけ、ロシナンテが拳銃を構える。見えずとも逃走経路は把握している。音もなく割れる窓ガラス。小さな身体を引っ掴み、ふたりで飛び込む。ここが連中のアジトではなく、レストランであったことが幸いした。降り立った庭には人影がなく、建物を囲む門もさほど高いものではない。

 夜の闇を、ロシナンテは花子を抱えてひたすらに走った。景色が音もなく、千切れるように置き去りにされていく。後ろから、品のない怒声が追いかけてくる。

「置いていきますか?」

 肩に担がれた花子が言った。花子はこんな速度で走れない。ふたりで生き残るには、ロシナンテが花子を連れて行ってやらなくてはならない。

「舌噛むぞ」

 ロシナンテが言ったのはそれだけだった。


 船を置いた西の海岸からちょうど真逆の海岸は険しい岩場になっており、民家もなければ人気もない。たった一つ置き去りにされたように建つあばら家に人がいないことを確認したロシナンテは、するりとそこに入り込んだ。厚く埃が積もった床に花子を下ろし、自分も座り込む。

「……悪かった」

 今回のことは、ロシナンテの責任だ。海軍将校ともあろうものが、潜入先の悪名に胡坐をかき、悪党に隙を突かれるなど目も当てられない。
 力なく項垂れるロシナンテはさぞ辛辣な言葉が降ってくるだろうと覚悟を決めていたのだが、花子はただ一つ肩を竦めただけだった。

「今回のことは仕方がないでしょう。あちらが上手だったのだと認めてしまった方がいい」

 責めるわけでもなく淡々と告げられる言葉に、ロシナンテは大きな肩を縮こませた。自身に非があるとわかっている状態で責められないのも、それはそれで居心地が悪い。

「でも、どうしてあんな挑発したんだ?」

 縮こまったまま、ロシナンテは花子を伺うように見た。いくら大男とはいえ、座り込んでしまえば花子の方がいくらか目線は高くなる。今回、花子がいなければ無傷で退路の確保はできなかっただろうことを彼は承知していた。

「ここまでうまくいくとは思っていませんでしたけど」

 花子はしばし逡巡するように視線を落とした。光源のない闇の中で、白い顔がぼうっと浮かび上がって見える。

「もともと警戒はしていました。ただの金の受け渡し、それも取引の年月からしてもう何度も行っているはずなのに、あまりに相手側の数が多かった。反対に店には私たち以外の客はいませんでしたし、レストラン側の人間も最低限。考えたんです。これは私たちを嵌めるために、邪魔になりそうな一般人をあらかじめ排除しておいたのではないかと。まあ後ろ暗い取引をしているゆえの人払いとも考えられましたが……。けれど可能性があるのなら、いざという時は盾になる必要があると考えたので」
「盾?」
「あなたのです」
「……」

 言葉を失うロシナンテに、花子は続けた。

「挑発して私に銃口が向けられれば、あなた一人の命ならどうにかなると思ったものですから。さらに隙を作れれば御の字。けれどあんなにも信じていただけるとは、予想外でしたね。私の演技はそんなに堂に入っていましたか?」
「死ぬ気があったのか」
「ええ」

 二本の足で歩いているか、という質問に答えるように花子は頷いた。

「いけませんか?」

 ロシナンテは答えなかった。答えずとも、彼を見れば花子の言葉に何を思っているかはわかる。床に座る大男をじっと眺めた花子は、ばつが悪そうに視線を床に落とした。

「積極的に死のうとは思いませんが……。私が死んでも、あなたならきっと、あの子をあの海賊団から救い出してあげることができる」
「おれがいたって、ローは救われやしねぇよ」

 ロシナンテは吐き捨てるように言った。何を馬鹿なことを。そんなことは、花子とて十分承知しているだろうに。
 返事のない花子を、ロシナンテはちろりと横眼で伺った。花子は黙って、ただじっとロシナンテを見ているばかりだ。凪いだ表情が、いつも通りであるはずなのにどことなく親に置いて行かれて途方に暮れた子どものように見えたもので、きゅっと心臓が締め付けられるような心地になる。それを誤魔化すようにロシナンテは「あー」と意味のない声を上げると、花子に向けて腕を伸ばした。反射的に身を竦めた花子が、恐る恐る、伺うように伸ばされた腕に身体を近づける。その様子に、ロシナンテはまた胸を痛めた。弱い彼女は、こんな些細なことにさえ警戒してしまうのだ。近づいてきた頭にようやく手が届くようになると、ロシナンテはなるたけ乱暴に、けれど優しくその髪をかき混ぜた。

「二度とするなよ」
「……ええ」
「それにしたって、問題だな。船はこことは真逆の港。電伝虫で助けを呼べば、任務を失敗したことがばれちまう」
「そうなれば、どの道私は殺されかねませんね」

 立ったままの花子が、ロシナンテを見つめながら言った。

「ドンキホーテ・ドフラミンゴにとって、私は多少の価値こそあれど、いずれはローくんの世界に対する憎しみを増幅させるために殺しておきたい人間ですから。任務失敗の制裁とすれば、大手を振って殺せるというものです」
「そうなりゃおまえはスパイダーマイルズに連れて帰れねえな。なんとかしてこの島から逃がしてやるから、どっかちがうところで静かに生きとけ」
「ええ。ですが、もうひとつ手があります」
「手?」

 自分たちはこの島最大のマフィアに追われている身で、ここにもいつ追手が来るかわからない。相手の数は多く、こちらはロシナンテと花子だけである上、花子は戦闘員としては数えられないので実質戦えるのはロシナンテだけである。船もなく、一度島を脱出してから体勢を立て直すこともできなければ助けも呼べない。そんな状況で、一体どんな手があるというのか。
 花子はロシナンテに背を向け、床に打ち捨てられたボロ布を眼前に広げていた。花子がロシナンテを振り返る。

「私もあなたも殺されず、任務も成し遂げる。その上であなたの矜持も守れる、とっておきの手がね」


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