Scene 10

「若君。本日中にお目通しいただきたい書類です。それとこちらが以前から懸念されていた武器流通に渋っていたマフィア幹部のリストで、こちらと同じものをトレーボル様にもお渡ししてあります」
「フッフッフ、仕事が早えな」
「恐れ入ります」

 恭しく頭を下げる花子を、ローは本の隙間から複雑な思いで見やった。ドフラミンゴの執務室で、花子は書類の山を片っ端から仕訳けていく。早急に目を通すべきもの、日にちの猶予があるもの、その他にも案件別や各幹部に回しても問題なさそうなものを的確により分けていくその手に淀みはなく、ドフラミンゴが手放すのを渋り始めたのも頷ける働きぶりだ。

 実際、花子はすばらしくよく働いた。独自の方法を用いたファイリングはとても見やすく整理されていたし、物事の優先順位を間違えることもない。つまり、どんなに切羽詰まった案件があろうともドフラミンゴが「やれ」と言ったことは他のすべてを後回しにしてでも取り掛かる。その上で他の取引の期限も完ぺきに把握している彼女は、ドフラミンゴの要求をこなしたうえでそれらの期日も守ってみせた。取引は信用第一である。無法者たちはルールに縛られるのを嫌っていると思われがちであるが、実はアウトローな連中ほど所謂“暗黙の了解”やら自分たちが定めた規律やらを破るのを嫌っている。約束の日取りを破るなんてことはご法度だ。無法者こそ厳格にルール内で生きているのはとんだ皮肉だと鼻で笑いながらも、彼女はそれを完璧に遂行してみせた。スケジュール管理と書類整理は花子の十八番だった。まさかこんな世界で自らの得意分野が生きるとはまったくの想定外だが、仕事に精を出したのも無駄ではなかったということだ。何が必要になるか、人生ってわからない。

 花子としては、上司はドフラミンゴひとりのようなものであるし、人格破綻者であれ仕事に関しては非常に優秀な男なので文句もない。アウトローであろうが何であろうが、取引は取引。日取り確認や相手方の要求の整理、こちらの要求とのすり合わせなど以前の職場でやっていたことと大して変わらない上に残業なし、給料よしで現状に不満はないのだが、それを端から見ているローとしては気が気ではない。ローは花子に、海賊なんかになってほしくなかった。できればスパイダーマイルズなんかも出ていって、もっと穏やかな島で平和に生きていってもらいたい。

 けれどもそれは、ローが自ら花子を手放すということだ。それはできないとローは思った。ローにはもう、花子しかいない。世界中に対する絶望と破壊衝動をぎりぎりのところで繋ぎとめているのは花子なのだ。ローはとても聡い子どもだったが、感情を押しとどめて理性を優先させられるほど大人ではなかった。それに、とローはそっと視線を落とした。中指に嵌められた、小さな金色の輪っか。花子が言ったのだ。どんなことがあっても、手を離さないでいてくれると。

「どうかした?」

 ページをめくる音が聞こえなくなったことを不思議に思った花子が、いつの間にかローの目の前にしゃがみこんでいた。下からローを伺うその目は、心配と慈愛に溢れている。

「つかれちゃった?」
「いや、平気だ」

 本で顔を隠すようにして、ローは俯いた。

「花子こそ、働きすぎなんじゃねえか」
「ううん、そんなことないと思うけど」

 指を顎に当てて首を傾げた花子は、はてと思い悩んだ。この白い少年はなんだか機嫌がよくなさそうだけれど、いったい何が不満なんだろう?

「フッフッフ、おれが秘書を働かせすぎだって言いたいのか、ロー?」

 面白がるようなドフラミンゴの声に、ローは顔を背けた。帽子を目深にかぶり、顔を見られないようにする。
 再度ドフラミンゴがローを揶揄うため口を開いたとき、扉が騒々しい音を立てて開けられた。入ってきた人物は、勢い良く開けたせいで跳ね返ってきた扉にしこたま額を打ち付け悶絶している。部屋にいる人間全員が、冷ややかな目でそれを見ていた。はあ、とドフラミンゴが頭を抱えて嘆息した。悪のカリスマと言えど、この時ばかりは子どもに手を焼く父親のような哀愁を漂わせる。

「……ロシ―」
≪ごめん≫

 ロシナンテは額を擦りながら顔を上げた。ソファーに座るローが目に入り殴ろうと思ったが、絶対零度の視線を向けてくる花子がそばにいることに気づき、断念する。
 つかつかと、長い脚でドフラミンゴの前に進み出ると、ロシナンテはメモを一枚差し出した。

≪出張 行ってくる≫
「出張……? ああ、金の回収か」
≪そう 一週間くらい≫
「ああ、行ってこい」

 ひらり、とドフラミンゴは手を振った。しかしロシナンテは動き出さず、すっと人差し指で花子を示した。

≪連れていく≫
「あ?」

 これにはドフラミンゴも首を傾げた。
 たしかに、花子はコラソンの部下にすると彼自身が宣言した。けれどもこれまでたった一度だってロシナンテが花子を任務に同行させたことはなく、もはや花子はドフラミンゴの秘書だった。連れていく理由がわからない。

「連れて行ったところで、この女は役に立たねえだろうよ」
「はあ!?」

 これに反応したのはローだった。筆談でのやり取りに首を傾げていたが、その内容が花子に関することだと知ったローは激高して飛び上がった。

「ふざけんな! なんでおまえが花子を連れていくんだよ!?」

 唾を飛ばすほどなりふり構わず怒鳴るローに一瞥もくれず、ロシナンテはただメモを一枚、ひらりとその眼前に差し出した。

≪おれの部下 どうしようとおれの勝手≫
「ふざけるんじゃねえ!」

 おれの勝手!? そんなわけがあるか!

「絶対許さねえ! おまえなんかに任せられるか!」

 しかしローが憤慨すればするほど、ドフラミンゴは笑みを深くした。ローよりもよほどずる賢く、兄の性格を知るロシナンテはこれが狙いだったのだが、ローがそれを知る由はない。

「フッフッフッフ。まあそう怒るな、ロー」

 悠然とマホガニー製の執務机に頬杖をついたドフラミンゴは、サングラスの奥から弓なりにした目でローを見やった。

「おまえも言っただろ。こいつが働きすぎじゃねえかって」
「……だからなんだよ」
「花子」

 ドフラミンゴの声掛けに、花子は立ち上がって従順に答えた。「はい、若君」

「休暇代わりだ。コラソンの任務について行け」

 これに怒ったのがローである。飼いならされた犬よろしく首を垂れる花子とは裏腹に、ローは執務机に突進せんばかりの勢いでドフラミンゴに詰め寄った。

「おいっ! どういうつもりだよ!?」

 食って掛かるローを煩わしそうに片手であしらいながら、ドフラミンゴは「そんなに騒ぐこともねえだろ」と面倒くさそうに言った。

「仕事といっても、金の回収すんのはコラソンだ。こいつはただ、一週間かそこらコラソンに付いて行ってドジを少しばかりフォローしてやればそれでいい」

 できるな、というドフラミンゴの問いかけに、花子は頭を下げたまま答える。

「……善処いたします」

 他の要求であれば間髪入れずに「畏まりました」と答えるところを変えたのは花子なりの嫌味であったのだが、それに気がついたのはドンキホーテ兄弟のみだった。ローは幾分かショックを受けた顔をして花子を見上げた。

「花子……」

 実際のところ、花子に拒否権などない。ロシナンテはともかくとして、ドフラミンゴが命じた時点でこれはもう決定事項だ。断れば即刻首が飛ぶ。そんなことは、ローにだって理解ができた。それでもなお、裏切られたとささやかに痛む心臓に嘘はつけない。自分の意見を優先してほしいなんて、なんて子ども染みたわがままだろう。

 ローは花子の前では、いつだっていい子でいられた。はじめは他所から来た年上の女性に対する気恥しさからくる見栄だったそれは、いつしか花子の前では最も優れた自分でありたいという思いに変わった。諦めなければいけなかったものの多い人生だ、我慢なんて慣れている。だからローはここでこれ以上のわがままなど許されないことは理解していたし、言うつもりもない。手は知らず知らずのうちに、シャツの上から心臓を握りしめていた。強く唇を噛み締める。

 頭を上げた花子は、執務机の前で項垂れる健気な子どもの前に膝をついた。俯いた顔を下から見上げ、心からの愛を込めて微笑みかける。

「一週間なんて、あっという間だよ。ねえ、ローくん。お土産はなにがいい?」

 恋人に語り掛けるかのように甘い声だ。ローはそろりと瞳を上げ、花子を見つめた。不思議な色の虹彩の中に自分の姿が映っているのをローは見た。左胸を握りしめていた手を離すと、花子がすかさずその手を取った。その手の滑らかな皮膚が、ローの心臓に刺さった棘を丁寧に抜いてくれるような心地がした。機嫌を直したローは、花子が自分を甘やかす安心感と、わがままを言う後ろめたさからそっと視線を逸らして呟いた。

「なにもいらない。早く帰ってきて」
「ええ、もちろん」

 立ち上がった花子はスカートの裾を払うと、ドフラミンゴに視線を向けた。「支度をしてまいります」そう一礼して去っていく声にも表情にも、ローに向けられる温度は一欠けらも残っていない。

「なあ、ロー」

 その後ろ姿を見送りながら、ドフラミンゴは感情の読めない声で問いかけた。

「あの女は、おまえの前ではいつもああなのか?」

 花子の呼び方にいささか不満を覚えたものの、ローは素直に頷いた。

「花子は優しいんだ。おれの前で怒ったのなんて、妹が熱を出してんのに雪遊びしたときと、海兵を撃ち殺したときくらいだよ」
「……そうか。……フ、フフ、フッフッフッフッフッフ!」

 身体を仰け反らせて笑うドフラミンゴを、ローは怪訝な目で見やった。

「なにがおかしい?」
「なにがっておまえ、そいつは冗談か?」

 満足いくまで笑ったドフラミンゴは、仰け反った身体をそのままに、たった今花子が出ていった扉を見やった。3mを超える体躯が、姿勢のせいでさらに大きく見える。笑いの名残を口端に残し、ドフラミンゴは「ああ」感嘆とも嘆息ともつかない息を吐いた。

「あんないかれた女、見たことがねえ」


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