Scene 09
「そういえば、おまえの故郷は言葉が違うのか?」

 かねてから疑問に思っていたことを訊くと、花子は面倒くさそうにロシナンテを見やった。
 手を組む、というよりは互いの邪魔をしないという協定を結んだものの、花子の要求はロシナンテからしてみれば願ってもないことだった。花子の思惑はドフラミンゴに上手くオペオペの実を入手させ、それをローに食べさせてからこのファミリーを逃げ出すというものである。そしてどこか穏やかな島でローを養いながら慎ましく生きていきたいという花子の願いに、ロシナンテは感動し涙が止まらなかった。なんとうつくしい家族愛だろう。感激するロシナンテを花子は冷たい目で見ていたが。

「それが次の質問ですか?」
「ん。まあそうなるな」

 いつもの埃っぽい物置部屋で二人は向き合っている。花子は窓を背にして立ち、ロシナンテは床に胡坐をかいていた。でないと長身のロシナンテを見上げる花子が辛かろうという配慮なのだが、残念ながら花子は、この床に座るなんてこいつすげえな、くらいにしか思っていない。
 邪魔をしないにも協力するにも、まずはお互いの状況、目的を共有することが必要だ。そのため二人はファミリーの目を盗み、こうして話す必要があった。この海賊団に属するのは、総じて新しい物好きであり大味の性格をしている。古い略奪品のことなどとうに忘れ去っているのだろう。このあたりに来るのは花子くらいであるし、ロシナンテの能力で無音のバリアを張られたこの空間は、密会には最適だった。
 まずは花子から、ということで彼女は自身の状況と目的を話した。いまはそれに加え、ロシナンテが質問を重ねているところである。

「私の故郷では、いわゆるニホンゴが用いられていましたが、まあここの言葉が使われていないわけでもありませんでしたよ。私も問題なく喋れているでしょう」
「ニホンゴ?」

 ロシナンテは首を傾げた。聞いたことのない単語である。
 そもそも花子の話には、不可解な点がいくつかあった。漂流してフレバンスにたどり着いたということだったが、現実的に考えてそれならば花子の故郷は北の海に存在しているはずである。けれども花子は故郷への帰り方を知らないというし、ロシナンテもコシガヤという島に聞き覚えはない。別の言語が用いられている島というのも、心当たりがない。そんなものが本当に存在していたのは、800年前に世界政府が誕生する前の話だ。
 ロシナンテは花子を見つめる。花子はロシナンテを無感動に見つめ返した。

「なにか?」
「……いや、」

 ロシナンテは緩く首を振り、肩を落とした。
 花子の思惑を聞いた今、ロシナンテは花子への協力を惜しむつもりはなかった。ファミリーから抜けるのもできる限りの手助けをしたいと思っているし、なんならセンゴクに相談してその後のふたりの身柄を保護してもらうことも視野に入れている。もっとも花子とローが政府の手を借りることをそう容易く了承するとも思えないのでそれを言ってはいないのだが。

 けれども、とロシナンテは思う。正直ロシナンテから見た花子は不気味だった。何を考えているかわからず、ドフラミンゴに心酔しているかのようにさえ振舞っているのにその実、端から裏切ることしか考えていない。果たして信用してもいいものだろうか。ロシナンテの海軍証はいまだ花子の手の内にある。いまのところ、彼女がそれをドフラミンゴに告げる様子はないが、それもいつ気が変わることか。結局のところ、ロシナンテは花子を信用していないのだ。

「信用なんてしていただかなくてかまいませんよ」

 ぎくりとロシナンテの肩が揺れる。まるでロシナンテの心中を読んだかのようにタイミングがいい。

「……なあ、花子」

 信用していない自分を差し置いて、こんなことを言うのは気が引けるが、ロシナンテは座り悪く尻を動かしながら花子を見上げた。その眉は困ったように垂れ下がっている。

「おまえ、辛くないか?」

 その言葉を意外に思った花子は器用に片眉を上げた。

「まさか、あなたからそんな心配をしていただけるなんて、思っていませんでした」

 花子の嫌味にロシナンテはしょげたように肩を落とした。
 花子のロシナンテに対する印象は今現在において、とてつもなく悪い。最悪である。自分に暴力をふるった張本人である上に、子どもたちを痛めつける男を、いったいどうして信用できようか。海軍というのも印象を悪化させるのに一役買っている。海賊であるドフラミンゴと海軍であるロシナンテを天秤にかけた結果、弱みを握っているロシナンテの方がましという理由で花子はこの協力関係を持ちかけたが、フレバンスを滅ぼした元凶は世界政府、ひいては海軍だ。花子はロシナンテを信用する気が毛頭なかった。上手く事が運び、脱走が見えてきたタイミングでドフラミンゴにロシナンテの裏切りを密告し、ドフラミンゴの信用を得て油断させたところで逃走するというのが花子の考えている筋書きである。その果てにロシナンテが殺されようがどうしようが、花子は一向に構わなかった。

 けれども。肩を落とすロシナンテを横目で見やり、花子はそわそわと所在なく視線を漂わせた。

「……お気遣い、感謝します」

 小さな声に、ロシナンテはぱっと視線を上げて花子を見た。花子はロシナンテと目を合わせないよう、窓の外を向いている。

 世界は弱肉強食だ。その理を、花子は身をもって学んでいた。花子の故郷では誰しもに人権があり、弱き者は守られた。花子もまた、守られた存在であった。けれどもここでは、力なき者は力ある者に蹂躙される。誰も助けてくれはしない。弱者は奪われることを、甘んじて受け入れるしかないのだ。そんな弱者である花子がローを守るためには、多くの対価が必要だった。常に警戒しろ、誰も信じてはいけない。花子は常に自分に言い聞かせていた。眠るときでさえ気を張り、少しずつ摩耗している花子にとって、ロー以外の人間から心配される言葉をかけられたのは、とても久しぶりのことだった。

 お礼の言葉さえまともに言えなくなってしまった。以前の自分とは違う人間になってしまったことに小さな絶望を感じながら、花子はちらりとロシナンテを見やった。ロシナンテはぽかんと口を開けて、呆けたように彼女を見ている。

「……なにか?」
「え、あっ! いや、なんでも! そう、なんでもっない!」

 花子の声に、ロシナンテははじかれたように身体を震わせ、両手を体の前で必死で振った。

「ははは、いや、ほんっとうになんでもねえんだ」
「ならいいですが……」
(あ、あぶねえ……)

 それ以上追求しなかった花子に、ロシナンテはほっと胸を撫で下ろした。
 礼を言う時、少しだけ緩んだ頬にロシナンテは驚いた。子どもたち、特にローの前以外では鉄面皮を揺るがせない花子である。ロシナンテの前では特にその傾向が強く、花子の表情が和らぐのを、彼はほぼ初めて見た。その時たしかに庇護欲を感じた自分に、ロシナンテは衝撃を受けたのだ。

(まあ、おれは海兵だしな)

 幼き日の自分のような弱い者を救いたい。その思いと育ての親への憧れのために海兵になったロシナンテからすれば、力なき女子どもを守りたいと思うのは至極まっとうなことである。ロシナンテは自分の衝撃をそう結論付けた。

「なにかあったら言ってくれ! 力になるぞ!」
「そんなことよりも、次はこちらが質問する番です」

 力強く立てられた親指を華麗に無視し、花子はロシナンテに向き直った。いい笑顔を浮かべていたロシナンテは、しゅんと眉を下げ、所在なさげに頬を掻く。

「あなたの思惑を教えていただきたい」
「思惑って言ってもなあ。あらかたわかってるだろ」

 そう言いつつも、情報の共有は重要だ。ロシナンテは気乗りしないながらも、背筋を伸ばして花子を見やる。

「おれは海軍本部中佐、ドンキホーテ・ロシナンテ。任務は“北の海”の悪の巣、ドンキホーテファミリーの壊滅を目的とした潜入捜査だ」
「誰がそんなわかりきったことを聞いているんですか」
「えっいやおまえが」

 吐き出される大きなため息。理不尽である。

「私が聞きたいのはその先です。他にいくらでも人がいたでしょうに、なぜわざわざ肉親であるあなたが潜入役に選ばれたのか。どう考えたって人選ミスです。あなたのドジは人的範囲を超えている」
「それはひどくねえか!?」

 思わず叫んだロシナンテに、花子はついっと軽く肩を竦めただけで終わらせた。

「たしかに、あの鳥男は“家族”という集団に異常とも言える執着心を持っています。しかし実の兄弟というのはメリットがよりもデメリットの方が大きいのではないでしょうか。信用を得るのが容易いというのは利点でしょう。けれども同時に近しければ近しいほどボロが出やすくなる。実行するのがあなただというのだから殊更その危険性は高い。なぜ受けたんです。この任務を」
「さっきからちょいちょいおれをけなしてるよな……。まあいいけど」

 今度はロシナンテが嘆息する。彼はそのまま暫し躊躇っていたものの、やがて意を決したように口を開いた。

「……おれの、兄貴だったからだ」

 吐き捨てるようなロシナンテの言葉に、花子はおや、と眉を上げた。両手の指を組み合わせ、じっと床を、そのまた奥を見つめるロシナンテは花子の様子に気がつかなかった。

「仲がいいのかと」
「……昔はな」

 僅かばかり罪悪感の滲んだ花子の言葉に、ロシナンテは苦く笑った。

「兄貴は昔から、我の強いやつだった。子どもの頃は、まだ我儘って言葉で事足りたんだがな……。あの父と母からどうしてあんな化け物が生まれたのか、おれにはわからねえ」

 俯くロシナンテに、花子は言葉をかけなかった。

 ドンキホーテ兄弟は、表面上うまくやっていた。ドフラミンゴがロシナンテを殊更目にかけていることは周知の事実であったし、ロシナンテもドフラミンゴに従順に海賊を演じていた。けれどもその実、笑うような化粧の下で彼が一体どんな心持で兄の傍にいたのかを知る者はここにいない。彼がどんな覚悟を持って、兄の、自分の命を顧みずにこの場に臨んだのか、知る者はいない。

 あの運命の日を超えて、ロシナンテは運よくセンゴクという男に拾われた。彼の人生は、センゴクに救われたと言っても過言ではない。センゴクに出会えなかったのなら、ロシナンテはすぐにでも野垂れ死んでいたことだろう。
 センゴクとの生活はすばらしいものだった。あの日々を思い出すと、ロシナンテの頬はいつだって緩む。ゴミ山での生活とはくらべものにもならない穏やかな日々。すれ違う人間に石を投げられることもなく、温かい食事に清潔な衣服。マリージョアにいた頃のような絢爛豪華な生活ではなかったし、海軍に入隊してからは血を吐くような思いもしたけれど、それでもロシナンテは幸せだった。

 だから彼は、愕然としたのだ。ある朝いつもと変わらぬ騒がしい食堂で、隣に座った同僚から渡された新聞に彼の兄が載っていた時、その首に賞金が掛けられていると知った時。どこかで元気にしていてくれたらと願っていた兄の人生は、ロシナンテが与えられたように安寧なものではなかった。かつての日々と同じように、奪われ、踏み躙られ、自身もまた他者を傷つけ、踏み躙り、奪うように生きていた。その時抱いた感情に、ロシナンテはまだ名前を付けられていない。
 奪う者が行きつく先は、そう多くはない。ロシナンテは彼の両親の血を色濃く継ぎ、生来より優しく、情の深い男であった。彼は兄を破滅させたくはなかった。兄を止めることが、あの頃その背に隠れることしかしなかった自分に課せられた使命だと思った。

 たとえ、どんな手を使ってでも。

「おれはドフィを止めたい。これ以上何かをしでかす前に、おれの手で、あいつを止めてやらなくちゃならねえ」
「……ドンキホーテ・ドフラミンゴは非常に頭のいい男です。そう簡単にいくかどうかは」
「知ってるよ」

 ロシナンテは微笑んだ。
 ドンキホーテファミリーに潜入し、彼はドフラミンゴの悪事の手腕に舌を巻いた。他人の弱みを握り、裏をかき、だますことに、ドフラミンゴは長けていた。どんなに悪名高い者たちも、ドフラミンゴの掌の上では面白いぐらいに踊らされた。彼の頭のよさも、目的を果たすためなら努力を惜しまないことも幼少の頃より変わりない。ロシナンテは誰よりもドフラミンゴの性質を知っていた。

「だからってそれは、おれが諦める理由にはならない」

 弟の手を引き、夜の街を駆けた少年はもういない。
 手を引かれるがまま、泣きべそをかいて走った少年ももういない。

「……そうおっしゃるなら、自身の言動には十分気を配るべきだと思いますが」
「うっ」

 海軍証をちらつかせてため息を吐く花子に、ロシナンテは胸を押さえた。取り返しのつかない大ポカをやらかした身としては、彼女の言葉が耳に痛い。

「まあ、あなたの事情に関してはわかりました」

 大方の理由に予想がついていたとはいえ、収穫もあった。花子はロシナンテを見下ろし、肩を竦めた。

「こちらとしても、逃亡した後に追われる心配がない方がありがたい。ドンキホーテファミリーの壊滅には全面的に賛成ですので、微力ながらお手伝いしましょう」
「助かる。って言っても、おまえにはおれの正体を黙っててもらうことぐらいしか頼むつもりはないけどな」

 戦闘能力のない花子にファミリー壊滅の手助けができるとも思えない。彼女には彼女自身とローの安全を確保してもらえるだけで十分ありがたかった。花子が頷く

「ええ。私は戦闘ができませんし、たいしたお力にはなれないでしょう。けれども秘密は守るとお約束します」

 そう言って、花子は髪を掻き上げた。凪いだ表情のまま、けれども瞳を剣呑に光らせる。

「ドジな海兵と手を組んで、才能溢れる悪党を陥れる。一世一代の大プロジェクトですよ」


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