「女の口は嘘を吐くためにあるんだと」
 湿った匂いのする、六月だった。部屋に明かりはなく、いつもは忍び入ってくる月明かりさえも、分厚い雲に遮断されて、入ってくるものといえば、湿った夜風と階下のスナックの笑い声だ。暗闇の中、片方は抱き、片方は抱かれながら息を殺していた。押し入れで眠る子供を起こさぬよう、意識の片隅をそちらに向けながら、銀時は花子のうなじに唇を這わせるようにして、囁く。
「女の口は嘘を吐くためにあるんだと」
 花子は、銀時の腕の中で身を捩ると、真っ正面から銀時を見つめた。
「なあに、それ」
「昔よお、映画? かなんかでやってた」
 実際、銀時はその時のことをよく覚えていない。誰と見たのかも、本当に映画であったのかさえ怪しい。けれど、そのワンフレーズだけは、なぜだか嫌に頭について離れなかった。

 動物的で野蛮とも言える欲情を、銀時は時折花子にぶつける。それは三日置きであったり、一月に一度であったり、酷い時などは一週間丸々であったりするのだが、花子はいつだって銀時を受け入れたし、好きなようにさせてやった。いくら手酷く扱われようと、どんなに体を痛めようと、銀時が求めれば、どんな噛み傷にも、強く握りしめられるせいでできる手首の痣にも、笑顔で応じてみせた。
 それを愛情と思い違うほど、銀時は愚かではない。しかし花子は、それを愛情と履き違えていて、自分が持てる全ての愛を銀時に注いでいる気でいるのだ。これほど馬鹿馬鹿しく残酷なことはないと銀時は知っている。そしてそれ以上に馬鹿馬鹿しく、憐れで残酷なのは、花子の間違いを知っていながら、それでも花子を手放そうとしない自分であることも、銀時はよく知っている。

 戦争から離れ、お登勢に拾われてから、銀時は真っ先に花子の元に向かった。共に行こうと言う銀時の手を、迷う素振りも見せずとった花子だったが、そこに心があったかと訊かれれば、銀時は否定するより他にない。
「ずっと待ってたよ、銀ちゃん」
 その言葉が本心からのもので、銀時に向けられたものではないことを、花子は知らない。自分が待っていたのは銀時ではないことも、たとえ桂でも高杉でも、それこそ犬や猫でも、自分を迎えに来たと言って手を差し伸べられたら、何にだってついていっただろうことも。花子にとって、坂本辰馬以外なら、どれでも同じだったのだ。

「女の口は、嘘を吐くためにあるんだと」
 三度、銀時が言うと、花子は僅かに不満そうに唇を尖らせた。目が少しばかり、銀時を責めるように細められる。
「私が嘘を吐いているって言うの?」
「そうじゃねえよ」
 銀時は微笑んで、花子の頭を抱き寄せた。髪に指を埋めると、柔らかで冷たい感触が心地いい。花子は、銀時の胸に頭を預け、垂れかかっている。柔い頬が擦り寄ってくるのを感じ、銀時は自身の複雑な感情を圧し殺して、そっと柔らかな肢体を受け入れた。
 ふと、花子が顔をあげた。日本人にしては淡い、薄茶色の目が銀時を捕える。暗闇のせいで目は真っ黒にしか見えない。銀時は、花子の目が嫌いであった。時には、恐怖さえ感じていた。自分を見ようともしないくせに、笑いかける女の目を、どうして好きになれようか。花子はそっと微笑んで、桜色の、暗闇の中でさえ柔らかな色合いを崩さない唇を綻ばせた。
「大好きよ」

 花子は時折、愛を吐く。それはふたりで微睡んでいるときであったり、抱き合っている最中であったりと様々だが、その度に銀時は、内蔵を土足で踏みにじられるような苦しみと、どうしようもない愛しさに苛まれた。迷いたくなるのだ。目の前の、愛してやまない馬鹿な女が、僅かにでも、ほんの一欠片でも自分を愛してくれていやしないかと。たった一度、自分を求めてさえくれたら、これ以上ないほど愛情を注いで、甘やかして、傷ひとつ付けないように優しくしてやれるのに。いまのところ、その期待が叶ったことはない。
「うるせえよ」
 だから銀時は愛を告げない。花子を手酷く扱うし、自分勝手に行為に及ぶ。自分を翻弄する女の、せめて身体だけは支配してやろうと、見えない暗闇でもがき続ける。
嘘吐きの口を乱暴に塞ぐと、彼女は拙くそれに応えた。口を離したときに繋がる銀の糸は、数瞬で呆気なくぷつんと途切れる。花子を抱き止める力を強めると、銀時はその肩に顔を埋めた。
 今夜は月がきれいだ。


86.嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな

(嘆けといって月が私にもの思いをさせるのか、いやそうではない。それなのに、月のせいだとばかりに言いがかりを付けるように、流れる私の涙であるよ)

2012/02/05 引用:小倉百人一首


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