坂本辰馬ほど酷い男はいないだろうと、花子は常日頃そう思っていた。
 オンボロと呼んでも差し支えのないほど 草臥れて寂れたアパート。コンビニもスーパーも遠い不便な立地ではあったが、東向きの自室から見える日の出だけは気に入っていた。それも、坂本と出会うまでの話であるけれど。そのアパートの自室で、花子は目を開けた。布団に包まり、繭さながらの体を起こすと、それさえも刺激となって頭が鈍く痛んだ。部屋にはビールの空き缶が辺り構わず転がっていて、缶に僅かに残った液体がカーペットに染みている。酒臭かった。自身も、部屋も。まだ日が登っていないのか、カーテンを開けているにもかかわらず部屋は暗い。暫しそのままぼうっとして、ふいに花子は動きだした。
 空き缶はまとめてビニール袋へ。カーペットのシミにはとりあえず雑巾を乗せておき、服を脱いでシャワールームへ。
 コックを思い切りひねると、ノズルから熱い湯が降り注いだ。それを浴びながら、花子はそっと目を閉じた。朝がくる前に、すべてを終わらそう。


 今日もまた遅くなってしまった。人通りもない道をアパートへと辿りながら、坂本は時計を確認する。短針はもうとっくに日付を跨いでおり、じきに夜も明けるだろう。花子に約束した時間など、何時間前に過ぎ去ったことか。
 恋人に約束した時間も破り、キャバクラで飲み明かすなんて、駄目な男にも程がある。銀時でさえ、こんな時間まで呑んだりしないだろう。金がないというのはあるが、あれで女は大切にする男だ、自分とは違い。坂本は自分自身に苦笑した。
 しかし、だ。飲まねばやっていられない。元来 酒には強い性質で、ただでさえ酔いにくいというに、緊張のせいかどれだけ飲んでも酔えやしない。やっと酔いが回ったかと思っても、花子の顔がチラリと頭に浮かぶだけで、たちまち醒めてしまうのだ。浴びるように飲んでももう少し、もう少しと結局こんな時間になってしまう。我ながら情けない男だ。もう付き合って何年にもなろうというに、会い行くだけでこの様なのだから。
 アパートの階段を踏みしめるように登っていく。古い木造建築のアパートは、木が腐りかけてでもいるのか酒のせいか、足場がどことなく頼りない気がした。花子の部屋の前で足を止めると、同時に息まで止めそうになった。ドアノブに伸ばした手が細かく震える。ノブはひんやりと冷たい。
 深呼吸をひとつ、肺に空気を満たすと同時にノブを回してドアを開けた。いつも通り鍵はかかっておらず、部屋はすんなりと坂本を迎え入れる。あまり治安のいいとは言えない街なのだから戸締りだけはしっかりとしてくれと、いくら言っても花子は聞かなかった。それがいつ帰ってくるかわからない自分を迎えるためだと知っているため、嬉しいやら心配やらで複雑だった。
 夜明け前の冷えた街中とは違い、部屋の中は暖かい。もうとっくに寝ているだろう恋人を起こさぬよう、坂本はそっと部屋に入った。


「終わりにしたいの」
 男は一瞬、何を言われたかわからないようだった。いつもは寝ているはずの女が起きていて、開口第一声に言ったのだ。誰だって困惑するだろう。
 ゆっくりと言葉の意味を飲み下し、男は困ったように眉を下げた。
「わしが嫌になったか」
「ええ、嫌よ」
 男からは酒の臭いがした。この部屋だって充分臭うはずなのに。今日はどこの女と飲み明かしてきたのかなんて、考えるのは随分昔にやめた。そんなことより、来ない男を待ち続ける自分が嫌だった。今日こそはと期待して、約束の時間が過ぎても何度もなんども時計を見上げ、その度に傷つくのが辛かった。わざとかけない鍵も、慣れない手料理が冷めていくのを見ているのも、時折届く宇宙からの手紙も、すべてが花子を傷つけた。
「終わりにしたいの」
 男の荷物は、玄関先に纏めてある。小さなダンボールが一箱分、それしかなかった。付き合ってもう何年にもなるのに、男はそれだけしか残していない。
 男は一歩花子に近づいた。「来ないで」部屋に明かりはつけていない。いまのこの顔を見られたくなかった。


 寝ていると思っていた彼女は起きていて、暗い部屋の中でじっと自分を待っていた。
「すまんかった」
 涙がこぼれた。泣いたのなんぞ、いつぶりだろうか。本当に泣きたいのは彼女であろうに、自身の頬を伝う雫を止められない。
 坂本は花子を抱きしめた。来るなと、そう言われても抱きしめずにはいられなかった。彼はもう、花子から離れる選択はどうしてもできなかった。彼女に触れることで満たされる自身を、他に慰める方法を知らなかった。
 暗い部屋にサングラス。どんなに近づいたところで花子の表情など見えなかった。そのことにまた涙が伝う。
 結局自分はどうでもいいのだ。自身が満たされさえすれば、花子が嫌がろうが坂本はそれを気にしない。でなければどうして、花子を置いて酒など呑みに行けようか。彼女の前で、柄にもなく緊張する自分が嫌だった。失敗して嫌われるのが怖かった。けれど、いざ本当に彼女が坂本から離れようとすると、自分はそんな、いままで恐れていたことさえどうでもよくなって、こうして花子を腕の中に閉じ込めているではないか。
「嫌じゃ、終わりになんて しとうない」


「嫌じゃ、終わりになんて しとうない」
 花子は迷っていた。戸惑っていたというのが正しいかもしれない。それは男が泣いたからでも、ましてや抱きしめられたからでもない。抱きしめたその腕が震えていたのだ。まるで、母親に縋りつく子どものように。
 ずっと嫌われているのだと思っていた。男はいつもは屈託なく笑うくせに、花子と2人きりになると急に寡黙になった。花子が話しかけても曖昧に笑うだけで、サングラスだって外そうとしない。
「ねえ、はなして」
 花子がそう言っても、男は首を振るだけで、彼女を抱きしめる腕の力はさらに強くなる。息苦しい。花子はほうっと息を吐いた。
 酒臭かった。自身も、男も。ひっそりと花子は笑った。つまりは同じことだったのだ。ただ少し、不器用で臆病だっただけで。
 花子は男の背に腕を回した。大柄な男の背は大きい、けれどこの時ばかりは幼子のもののように思えた。その背を、花子はゆっくりと撫でる。
「わたし、辰馬が好きよ」
「わしもじゃ」
 啜り泣きのような小さな声は、朝日に似ていた。


53.嘆きつつ ひとり寝る夜の明くる間は いかに久しき ものとかは知る
(あなたがお出でになるのを待ち焦がれ、一晩を嘆き通してむなしくひとり寝るその夜が明けるまでの間は、どんなに長く辛いものであるか、あなたはご存知でしょうか)

だめ男な坂本の話。引用:小倉百人一首


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