山田花子について、土方が覚えていることは少ない。たしか、自分と総悟の間くらいの年頃であったように記憶しているのだが、それも定かではなかった。頻繁に顔を見ているのならともかく、彼女とは一度顔を合わせたことがあるだけなのだ。仕方ないだろう。一度あっただけの人間に忘れさせないだけの印象を花子は持っていなかったし、そんな人間をいちいち覚えているほど、真選組副長は暇でなかった。

 春爛漫。そんな言葉がよく当てはまる、気持ちのいい日だった。ホーホケキョとどこかで鶯が鳴いていたようにも思えるが、本当かどうかはわからない。カコォンと庭の鹿威しが鳴った。間の抜けた音だった。
 土方は近藤と共に、1人の娘を前にして座っていた。娘とは無論、花子である。真っ黒な着物を着た彼女は、もとが色白なのか蒼白いほどだった。良家の娘らしく、背筋は美しく伸び、指は膝の上で重ねられている。
 花子は2人に向かって、深く静かに頭を下げた。近藤と土方も、それに小さく頭を下げる。
「本日はわざわざご足労いただき、ありがとうございました」
 糸のような声で、花子が言った。糸のようというのは、言い得て妙だった。彼女の声は細かく震えていて、指で弾いてやればすぐにでも切れてしまいそうだ。もちろん、声は目で見えないものである。
 いえ、と近藤が小さく呟くのが聞こえた。土方は何も言わなかった。ただ、自分のデスクに山積みになった書類に思いを馳せ、仕事の採算をしていた。
 本来、この場所にいなければいけないのは、土方ではなく沖田だ。彼女の父親の最期を見たのは彼である。しかし、いつものように職務放棄した彼は、先程から携帯にかけても一向に繋がらない。大方、どこかの団子茶屋で昼寝でもしているのだろう。
「この度は、こちらの力不足でお父様を不幸にあわせてしまい、誠に申し訳なかった」
 近藤が頭を下げるのを見て、土方も慌ててそれに続く。普段聞きなれない丁寧な言葉に違和感を感じるも、土方がそれに口を出すことはなかった。口を出せば、自然と自分も喋らなくてはならなくなる。それくらいだったら、大将に好きなようにやらせておいた方が、たとえ多少言葉遣いがおかしかろうとなんぼかマシなはずだ。お人好しの近藤と違い、自分は遺族に気を使うなんてことには向かない。
 顔をあげてくださいと、花子が言った。2人は揃って顔をあげる。そのときやっと、土方は花子の顔をまともに見た。花のような女である。花のような、と言えば聞こえはいいが、それは彼女が整った目鼻立ちをしているからというわけではない。整っていないとはいわないが、華やかさとはおおよそ縁のない顔である。花屋に並ぶ色鮮やかな花弁を纏ったものでなく、誰も名を知らず、人知れずひっそりと誰の目にも入らぬ場所で咲いている野花のような女だった。
 それは表情のせいもあるかもしれないと土方は思った。いまの彼女は口を真一文字に結び、頬は固く強張っている。笑いさえすれば、もっと明るい花にも見えるだろう。しかし、それは無理な話だ。唯一の肉親を失い、天涯孤独となった若い女が今この場で笑ったら、土方はたちまち花子に嫌悪感を抱いただろう。
 そういえばと土方は辺りへ気を配る。ここへ来てから、花子以外の人間に会っていない。玄関先で2人を出迎えたのも花子だけであるし、茶を淹れていてくれたのも花子だ。これだけ広い家なら、下女や使用人がひとり2人いてもおかしくはないだろうに。
 土方は、近藤の話にぼんやりと相づちを打つ彼女を、今度は注意深く見た。そういえば、先程茶を出してくれたときに見た手は、水仕事に慣れた女の手であった。となると、彼女は2人で暮らしていたのだろうか。この広い家に、父親と2人だけで。
「一人なのか」
 近藤の言葉を遮るようにして、唐突に土方が訊いた。近藤が些かぎょっとしたようにこちらを見たものの、土方は彼に目をやらなかった。ただ花子の、机に遮られ自身から見えない手を見つめて訊いた。花子はゆっくりと顔を土方に向けた。土方は彼女の顔を見なかった、故に彼女がどんな表情をしていたのかはわからない。
 やがて、花子は黙って頷いた。土方はそれ以上口を開かなかった。

 次に土方が花子のことを思い出したのは、夏である。近藤と共に彼女の家を訪れてから、実に2ヵ月と半月余りが経っていた。それまで彼は一度も花子のことを思い出さなかったし、そんな女がいたことさえ、完全に忘れていた。
 完全に忘れ去っていた女のことを彼が思い出したのには、別段特別な理由はない。偶然道端で見かけたからだった。
 気の削がれるような暑さの中、蝉の大合唱の止まぬ真っ昼間に、土方は花子を見かけた。ちょうど彼は見回りの休憩中で、そこらの団子茶屋で一服していたときである。往来で、やけに五月蝿い一行がいると目をやると、それは自身の腐れ縁とも言うべき連中だった。銀髪の侍に、眼鏡の冴えない少年、桃色の頭をしたチャイナ娘。その中に、どこかで見たことのある女が混ざっていた。
 女は、3人の馬鹿騒ぎから一歩離れたところで笑っていた。騒ぎ自体には参加せず、けれど確かに輪のなかに溶け込んでいる。どこかで見たことがあると思うのと、そういえば以前山田とかいう官僚が死んだ、あのときの女ではないかと思い当たるのに幾ばくかのタイムラグがあったが、とにかく土方は思い出した。
 一行は土方に気づかず、通りの向こうに消えていく。土方はマヨネーズで惜しみなくコーティングされた団子を頬張りながら、なんとなしに花子を見つめた。以前会ったときは、強張った表情しか見なかったが、なるほど、笑えば中々きれいな女だ。以前同様、野花のような印象はあったが、今回は小さいながらも日だまりで咲くものを連想させた。
 一行が通りの向こうに消え、土方はある種の満足感に口角をあげた。致し方なかったとはいえ、自分達の力が及ばず死なせてしまった男の娘は、とりあえずは元気そうだ。あの広い家にも、もしかしたら他の人間が住むようになり、万事屋たちも遊びに行っているかもしれない。少なくとも、あまり寂しい思いはしていなそうだ。
 土方は団子を食べ終えると、最後に茶を飲み干し、席をたった。

 秋も深まった夜のこと、土方は再び花子のことを思い出した。今度は偶然見かけたわけでもない。ただなんとなく、ふうっと思い出したのだ。
 自室で煙草を片手に、土方はじっと机を見つめた。上には、手をつけなければならない書類が山と積まれている。しかし、土方の意識はそこになく、ただじっと机を見つめるだけで、彼は手を動かそうとしない。
 先日、居酒屋で万事屋に会った。いつものように見栄を張り合い、潰れるまで呑み比べていた途中、ふと万事屋が言った。広い家でひとりでいる夜は、なんとも寂しいものらしいと。言い方から彼自身の事でないのはわかったが、向こうも自分の言ったことに対してそれ以上アクションはなかったし、特に気に留めることなく、土方はその言葉に何も返さなかった。それを今になって思い出したのである。
 以前見かけたのはいつだったか、夏に往来で見かけて以来、何度か見かけることがあった。花子はこちらに気づかなかったし、土方も声をかけるようなことはしなかったけれど、街で見かければなんとなしに目で追っていた。
 花子は万事屋たちやらと一緒のこともあれば、ひとりのこともあった。誰かといるときはいつでも笑顔であり、ひとりでいるときも辛そうな様子など見当たらなかった。けれど、だ。もし、あの広い家で未だひとりであるのなら、寂しい思いをしていてもおかしくはないのではないか。いつだかちらりと聞いた話では、死んだ山田という官僚は相当な愛妻家で、早くに妻が先立ってからというもの、忘れ形見である娘のことを男手ひとつで育て上げ、たいそう可愛がっていたとか。
 花子のことが気がかりで、しばらくぼんやりと考え込んでいた。ふと気づいて時計を見ると、いつの間にか時刻は丑の刻を回っていて、土方は盛大に嘆息した。これ以上起きていてもどうせ仕事など手につきはしないだろうと、山積みの書類は見ないようにして、布団に潜り込む。
 もういい、書類は明日朝のうちに片付けて、午後になったら団子でも買ってあの女の家に行けばいい。気になって様子を見にきたと言えば不自然ではないだろう。あれ、不自然か。ていうかどうしてこんなに気にかけているんだ俺は。まあ、どうでもいいや、もう。

 気になる女に会いに行くのひとつ、こうして時間をかけて悩まなければ済まない。
 土方十四郎とは、とことん不器用な男である。


03.あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

(山鳥の尾の、その垂れ下がった尾が長々しいように、秋の長々しい夜をひとりで寝ることになるのだろうか)

2012/02/28 引用:小倉百人一首


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