1日目

 電話ボックスから出ると、ちょうど標的が私の前を通りすぎたところだった。色とりどりに広げられた傘の中を、男は脇目もふらずに歩いていく。支給されたばかりの真新しい傘をさして、私はその後を追った。柄についた白いボタンを押すと、ぽんと音がして、ぱっと赤い花が咲いた。
 雨は音もなく世界を濡らしていく。傘をさしていない男は、体こそ濡れてはいるものの、髪は雨を吸ってもなお美しい艶を放っていた。綺麗だ。人の海を泳ぎながら私は、堪らずほうと息をついた。白い二酸化炭素が空気中に逃げていく。男の髪は一言では言い表せない色合いだった。まるで、太陽のようだ。そう思ってから、私は1人で苦笑いをした。太陽のようだなんて、私は太陽を見たことがないのに、おかしな話だ。
 何故だかはわからないけれど、私が仕事をするといつも雨が降った。なるほど、死を扱う仕事だから雨が降るのかと納得したこともあったが、同僚に聞いたところ、どうやらそういうわけでもないらしい。太陽を見たことがないと言うと、人間どころか同僚までもが信じられないといった目を向ける。
 人種が違うのだろうか、男は周りの人間より幾分か背が高かった。運がいい、私は口の中でそっと呟く。今回の私は小柄で平凡な顔立ちをした若い日本人女性だったので、標的が長身だったのは運がよかった。人混みの中で、見失う可能性がぐっと低くなる。
 男は正面から来た小太りの男の脇をすり抜け、青に変わったばかりのスクランブル交差点に紛れ込んだ。すぐに後に続く。どっと押し寄せてきた人間の波に抗いながら、必死に男の後を追う。と、男のジーンズから、何やらキラリと光る物がこぼれるのが見えた。偶然にもそれは、私の足元までくるくると回りながらやって来て、パタンと倒れた。素早く屈んでそれを拳で包み、やっとの思いで交差点を渡りきる。そっと拳を開けてみれば、それは金のようだった。見覚えのない柄なので、日本の通貨ではないのかもしれない。少なくとも、と私は手のひらに座っている小さな丸い硬貨を見て、今度は早足で、少し遠ざかってしまった男を追った。これで話しかける機会はできたわけだ。
「すみません」
 はじめ、男は気づかなかった。都会の雑踏を、すいすいとすり抜けていく。仕方なしに男のコートの裾を掴むと、男はようやくこっちを向いた。端正な顔だった。恐らく、大抵の女性なら息を飲んでしまうような。しかし、私は男の顔どころか名前や年齢まであらかじめ知っていたので、別段感情を抱かなかった。一瞬 驚きで丸くなった黒い目は、すぐさま訝しげに細められる。「なにか、用か」不機嫌そうな声だった。
「落としましたよ」
 そう言って拾ったばかりの硬貨を差し出すと、男は興味なさ気にそれを見やり「やるよ」と言った。
「なんですか、これ」
「セントだよ」
「セント?」
「アメリカの通貨だ」
 まさかアメリカを知らないわけはないよな、と男は呆れたように言った。「知っていますよ」馬鹿にされたような気がして、思わず声が尖った。
「海の向こうの、大きな国ですよね」
「海の向こうの、大きな国だよ」
 今度こそ男はその声にはっきりと呆れを滲ませ、それから小さく、おかしそうに吹き出した。「あんた、変な奴だな」
 男の髪が雨を含んでしっとりとしていたので、私は、短い腕を精一杯に伸ばした。「傘を」男は少しだけ驚いた顔をすると、私の手から傘を受け取った。男と私の上に小さな赤い屋根が掛かる。「ありがとう」差してもらっているのは私なのに、男はそう言った。
「あんた、これから予定あるか?」
「なにも」
 もちろん仕事があるが、私の仕事は男の調査なのでこう答える。
「なにも、予定はありません」
「なら、どこか飲みに行かないか」
 時刻はまだ昼を過ぎたばかりで、酒を呑むには早すぎる。察したのか、男は「その辺の喫茶店で」と付け加えた。
「いいですけど、私、これしかないですよ」
 あいにく、人間界に出回っている金は持っていなかった。そう言って貰ったばかりの硬貨を見せると、男はやっぱり面白そうに笑った。「いいよ、行こう」



 私たちは人通りの多い通りに面した、小さなコーヒーショップに入った。丸い看板に、白い星と女性が描いてある。有名なチェーン店らしく、私たちの前を歩いていた、まだあどけない顔をした少女たちが「うちの近くにもあるよ、これ」と言っていた。この場合の"うち"とは彼女の家のことなのか、彼女自身のことなのか、私にはわからない。
 昼食の時間は過ぎていたが、店内はわりに賑わっていた。私たちは店の隅の2人掛けのテーブルに、そっと腰を下ろした。客が持ち込む、濡れた傘のせいで店内の空気は湿っている。私は傘をテーブルの縁に掛けた。
「あんた、変わってるな」
 買ったばかりの飲み物を一口飲んで、男はそう言った。意外にも男が頼んだのはホットチョコレートで、まだ熱いそれを美味しそうに啜っている。
「よく言われるだろ」
「そうですね」
 私も、男に買ってもらった甘いコーヒーを飲みながら頷いた。本来、私たちは食物の摂取を必要としないのだが、別に食べられないというわけではない。冷えた体に染み渡る甘さは、気持ちよかった。なるほどと思う。人間が食を求めるのは、生命活動の他に甘味が欲しいからか。
「たまに、言われるかもしれません」
 事実、同僚からは変わり者のレッテルを張られている。
「だろうな」
 男は自分のカップを煽った。白い喉が少し反る。
「ふつうなら、知らない男についていったりしないもんだ。警戒心が、無さすぎる」
 そこで、私は妙な気分になった。私にとって男は"知らない男"ではないのだ。調査課から様々な資料をもらい、この男の人生については一部始終を知っている。いや、一部始終と言うよりは終わる直前までと言った方が正しい。なぜなら、この男の死はこれから私が決めるからだ。
 死神の仕事というのは、存外地味である。人間たちが想像しているように、骸骨みたいな顔をして大鎌を振り回しているわけではない。聞いた話によると、骸骨みたいな顔をして黒いノートに名前を書くという死神たちもいるようだけど、私たちとは無関係だ。私たちはただ標的の近くに現れ、7日をかけて調査をし、上に"可"あるいは"見送り"かを報告する。そして8日目に"可"と報告した者の最期を見届けて終了だ。
 ここで男の言葉に何も返していないことを思いだし、「そうですね」と相づちを打つ。返答までに時間が経ちすぎていたからか、あるいは返事がおかしかったのか、やっぱり男は笑った。
「まあ、今の世の中じゃあ女襲おうなんて奴も大分少なくなっただろうけどな」
「それは、どうして?」
 こちらとしては話を続けるための自然な流れで返したのだが、男はじっと私を見つめると、不機嫌そうに眉を寄せた。
「あんた、それ本気で言ってるのか」
「はい……なにか、おかしなことでも?」
 よく変わる表情だなとは、心の中だけで呟いた。
「いや……ただ、あんたの世間知らずに驚いただけだ」
 もしかして、山の中に住んでいたのか? 山の中も私たちの世界も、浮き世離れしているという意味では似たようなものだ。曖昧に頷いておく。
「それで、どうしてなんですか?」
 男は私から目線を外した。紙製のカップに視線を落とし、しばらく何も言わなかったが、やがて自嘲的に唇を歪めて言った。
「キラだよ」
「キラ?」
「ああ。この世の神を気取っている、間抜けな野郎だ」
 男が言うには、キラというのは次々と犯罪者を裁いていく人物で、はじめは皆戸惑っていたものの、今となっては世界の法律になりかけているらしい。犯罪者は裁かれるので、当然誰も犯罪を犯そうなどと思わない。世界中の犯罪率は急激に下がり、キラは一気に神の座へと登り詰めつつある、と。
「それは……」
 男の声はとても低く、向かい合って座っていても聞き取りにくかった。身を乗り出すようにしていたのを椅子へ座り直し、少し冷めたコーヒーを啜る。
 以前仕事をしたときには、そのような人物は存在しなかった。どうやらしばらく仕事をしていない間に、世界はずいぶん様変わりしていたようだ。これならば、先ほど男が言ったことにも頷ける。
「それは、独裁者というのでは?」
「そうだな」
 男はそれ以上何も言わなかった。私も別段興味がなかったので、この話はここで終わる。



 やがてコーヒーとホットチョコレートを飲み終わった私たちは、どちらからともなく席を立った。潰した紙カップをゴミ箱へと捨てる。マナーがいい客が多いのか、分別がきちんとされていた。
 店の外に出ると、冷たい空気が肌を刺した。蓄えたはずの熱が瞬く間に逃げていく。まだ雨は降っていて、私は赤い傘を広げると無言で男に差し出した。男もまた、無言でそれを受け取り、そのまま歩きだす。男は女に歩幅を合わせるような男ではなかったけど、元々小降りな傘にはもう1人分のスペースが開けてあり、男の右肩は雨に濡れていた。私はその、開けられたスペースに入って黙って歩いた。
「あんた」
 人混みの中を並んで歩く。どこに行こうとか何をしようとか、男は何も言わなかったし、私も何も訊かなかった。ただ黙って歩き続けて、20分も経っただろうか、ようやく男が口を開いた。
「あんたさっき、キラのことを独裁者だと言ったな」
「ええ、言いました」
「しかし実際、その独裁者のお陰で世界は平和になりつつある」
 男の声は低く掠れていて、先ほど喫茶店で話したときよりも聞き取りにくかった。街中に溢れる雑音に掻き消されそうなそれを必死で拾い集めて、男を見上げる。私の身長は男の肩辺りまでしかなかったので、見上げると少し首が痛い。「どう思う?」前に視線を向けたまま、男は訊いた。「あんたは、その独裁者を正義だと思うか」
 はっきり言って、正義だ悪だというものに私たちは頓着しない。善人だろうが悪人だろうが、人間は人間だし、いずれは皆死んでしまう。それまでの過程はともかく、結末は皆同じなのだ。そう考えると少し虚しいような気もするが。
「あまり、何を思うわけでもないですが」
 男から視線を外し、私も前を向いた。いい加減首が痛かったというのもあるし、前を向いていないと人の波に飲まれてしまいそうだったからだ。
「以前、仕事でお会いした男性はこう言っていました。自分は正義の探偵の模造品で、その探偵のことが、とても嫌いなのだと。その探偵がいるから、自分が自分でなくなってしまうのだと。正義も悪も、世の中のどこを探したって、あるはずがないのに、正義だなんてふざけていると」
 事実、彼はその探偵を越えるためにいくつかの殺人を犯した。私はそれを黙って隣で見ていた。
「けれど、こうも言っていました。仮に、この世界に正義という者が存在するのだとしたら、彼が間違いなく、それである。自分がどんなに奴を憎んだとしても、その正義だけは憎めない。それは、人間であれば誰もが望んでいるものだから」
「……その男は、何て」
「正義は、優しさだと」
 そういえば、私は今までの仕事の中で、あの男だけは『見送り』にしたのだが、彼は今どうしているだろうか。ロサンゼルスで行われた殺人事件の終末を見る前に、私は帰ってしまったのだが、コピーはオリジナルを越えたのだろうか。わからない。
 ふと気がつくと、男の足は止まっていた。傘を持っているのは男だったので、私は自然、傘から出てしまう。顔に当たる滴が冷たい。
 男はじっと私を見ていた。男から数歩先で、私も男を見つめ返す。周りの人間は皆、歩道の真ん中で立ち止まった男女を邪魔そうに避けていった。
「ありがとう」
 不意に告げられた感謝の意味が、私には理解できなかった。私はなにか、感謝されるようなことをしただろうか。わからない。
 けれど訊き返すのはやめた。男の顔が今にも泣き出しそうでもあり、苦しそうでもあり、悲しそうでもあり、そのうえ笑っていたからだ。
「どういたしまして」
 ミハイル・ケールは不思議な男だった。

2012/12/15 2015/06/28 修正



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